加害者
幸運だった。
外国系マフィアに追われ、行き場を無くし、金も食料も底を突き、この寒空の下飲み物一つ買えず凍え死にそうになっていた大友義明に、偶然舞い降りた奇跡のような幸運だった。
金もないまま何とか飲み物を得ようとして自販機を壊してしまい、慌てて茂みに身を隠してから数十分。人工筋肉を埋め込み、骨格を炭素繊維で強化した自慢の拳を使っても飲み物一つ吐き出さない丈夫な自販機を睨んでいると、路地の先からその幸運は姿を現した。
一人、女子高生、しかもなかなかの上玉だった。多少性徴に乏しい面はあるものの、それは義明にとって大した障害にはならなかった。組の仲間からトロールやらゴブリンやらとからかわれた顔を喜びに歪めながら、義明は女子高生がこちらに背を向けるのを待ち、茂みから慎重に這い出した。凍りついたように自販機の凹みを見つめているその女の背中は、なかなかスタイルも良く魅力的だった。スカートから伸びる足は鍛えられているのか程よく引き締まり、布越しに小さく膨らむ尻はその感触を否応なしに想像させる。さらさらと指通りのよさそうな黒髪は肩のあたりで切りそろえられ、茶色のカーディガンは女の柔らかさを引き立たせるのに一役買っていた。
それにしても、なぜ警報装置が作動しないのか。義明は不審に思った。怒りにまかせて自販機を破壊してから今まで音沙汰がないことを考えると、ここの警報装置は壊れているのだろうか。
義明は嬉しくなった。それなら好都合だ。実に良い。驚くほど良い条件がそろっている。《刀の子》政策が始まってから今まで、こっちは気の休まる日がなかった。大人しかった警察が人が変わったように暴力団の検挙に動き出し、それで国内の暴力団の力が弱まれば、今度はそこに付け込んで外国系のマフィアがこぞって暴れ始める。マフィアと警察の板挟みになった暴力団はたまったものではなく、ある関東系暴力団に属していた義明達の生活は悲惨の一言だった。右も左も敵ばかりの状況で、数年続いた逃亡生活は、この日、自販機の前で終わろうとしていたのだ。
まだいける。義明は笑った。財布をしまう女子高生の背中を値踏みしながら、これからの段取りを頭の中で描いていく。まずは拘束。暴れたら黙らせる。財布を奪い、ホテルへ連れ込む。駅から少し行ったところにあるホテルがいいだろう。オンボロのくせに少し割高だが、監視カメラが付いていない犯罪者御用達のホテルだ。そこで様々な写真を撮って脅してやれば、この女はすぐに俺を生かす奴隷になる。
最高の気分だった。しかし数年間の逃亡生活の経験から、冷静さを保つことだけは忘れなかった。義明はそろりと深呼吸をすると、薄ら笑いを仮面にして、立ち去ろうとする女子高生に声をかけた。
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軽く殴るだけで女をあっさりと気絶した。
義明は素早く行動した。気絶させたといってもすぐに目を覚ます可能性もあるし、何より人が来ると面倒なことになるからだった。まずは女を拘束する必要があった。紐はないので女が着ているカーディガンを脱がせて代わりにしようと思い立ち、その体をまさぐっていく。
手に伝わる温もりと女特有の柔らかさが、達成感とともに義明に押し寄せた。甘い感触と香りが脳髄を震わせ、冷静さを失わせる。醜悪な顔が喜悦に歪む。幸福感と共に笑いがこみあげてくる。これは報酬だ。貪るように手を躍らせる。これは褒美だ。過酷な日々に耐え抜き、今まで生き抜いてきた自分に対する、当然の贈り物だ──
「なにをしているんですか」
出し抜けに背後から声をかけられ、冷静さを失ったままカーディガンを脱がすのに没頭していた義明は、驚きのあまり飛び上がりながら後ろを振り向くという器用な芸当をやってのけた。
「だ、誰だ」
視界に現れた声の主に叫ぶ。男。身長180センチ程の長身。痩せて見えたが肩から首にかけての盛り上がりが言い知れぬ威圧感を漂わせている。学生服を着ていることから学生だと分かった。体格からして高校生。闇に溶けるような黒髪と詰襟学生服のせいで頭から爪先まで真っ黒で、左腕に付けられた純白の腕章と白手袋、腰の白鞘が異様に目立っていた。
「《一刀会》の者です」
男はうっそりと答えた。街灯の光が作り出す影に隠れて男の顔は見えないが、自分をぴたりと見据える眼だけは何故かはっきりと分かる。刀の邪魔にならないようにするためであろう、左裾だけが短い学生服の左腰から伸びる柄には、手は添えられていなかったが、柔らかく握られ脇にたらされた両手は、いつでもそれを抜けることを無言のうちに伝えてきた。
「一見して、あなたはいくつかの犯罪を犯しています」
男は続ける。義明は男の言葉など耳に入らず、冷静さを取り戻すことに必死だった。声をかけられてからというもの、心臓の音が鳴りやまず、体中から汗が噴き出してくる。
どうしてだ。どうして俺はただの若造に対してこんなにも怯えているんだ?
「警察まで、ご同行願えますか」
男の口調は馬鹿みたいに丁寧だった。しかしそれは提案でもお願いでもなく脅しだった。断ればどうなるかは明白で、それをやることに躊躇などないことも、充分に理解できた。義明はもはやプライドだけで立っていた。ただの学生に、成人にもなっていない若造に、何もできずに屈することをプライドが許さなかった。
義明は炭素骨格と人工筋肉のインプラントによって肥大化した両拳を握りしめる。暴力団として稼いだ金のほとんどを費やしたこの拳は、200キロを超える握力と、拳銃弾であれば弾丸さえ弾く頑強さを併せ持つ。負ける筈がなかった。外国系マフィアとの抗争と比べれば学生一人など造作もない。
殺す。どの道断るしか手はないのだ、警察に捕まるのは死んでもごめんだったし、せっかく良い女を捕まえたのにそれを手放すなどありえない。殺意を固め、相手を睨みつける。
瞬間、奇妙なことが起こった。こちらをじっと見据えていた男の眼光が変化し、まるで、遠くを見ているように視線が拡散したのだ。どこを見ているのか分からないその目つきへの変化は、義明には好機に思われた。
義明は弾かれたように突進し、雄叫びを上げて男に殴りかかった。握力200キロで握りしめられ、弾丸すら弾く塊を最短距離で相手の胴へ放つ。直撃すれば確実に即死させることのできる一撃だ。
男が刀を抜く。その一挙手一投足を凝視する。抜かれると同時に振り上げられた刀は月光の下に淡く光を放ち、その鋭利な切っ先をもってこちらを切り殺そうとする。しかし義明に見えたのはそれまでだった。刀が振り上げられたときにはもう義明の右拳は振り下ろされていた。
勝利を確信した。義明の拳は男の刀よりも速かった。男は振り上げることしかできなかったのだ。このまま刀を振り下ろしたとしても、拳は胴をとらえている。それは義明にとって疑う余地もないことだった。
だから、義明には理解できなかった。直撃の寸前に、拳に鉄塊が落ちたような衝撃が来たことが。その衝撃によって拳は地面に叩きつけられ、自分も同じように這いつくばる羽目になったことが。
訳も分からず男を見る。男は手に持った刀の切っ先を下段に構え、義明の喉にぴたりと付けている。こちらを見下ろす目は先ほどと変わらずいったいどこを見ているのか分からない。加えてその空洞のような目つきは、目を合わせると自分の体も空洞になるような錯覚に陥いりそうになる。
理解不能な事態と言い知れぬ恐怖にとうとう思考さえおぼつかなくなった義明は、ただ本能の命じるまま、この数年間燻ぶり続けた感情が命じるままに、男へと突進した。起き上がるなり左拳を男に向かって突き出す。狙ったのは顔だった。何をするにも、まずその気味の悪い目を潰さなければ気が済まなかった。視界の端で光が踊る。それが月光を反射した刀だと分かったときには再び拳に衝撃を受け、地面に叩きつけられていた。
義明は叫んだ。何もかもが分からなかった。何故当たらないのか。何故地面に叩きつけられるのか。この男はなんなのか。
身体ごと跳びかかり、体当たりをかます。今度は顎に衝撃を受け、無様に伸びあがりながら倒れこんだ。頭をぐらつかせながら起き上り、再び男へと突進する。
こちらに向けられた目。空洞のような目つき。月光を背負い大上段に刀を踏み構えたその男。全身黒ずくめで、純白の腕章と白手袋、腰の白鞘だけが異様に目立つ、《一刀会》の男。
光が奔る。頭に衝撃を受けるその瞬間、上段から振り下ろされた刀の軌跡を見た義明は、自分が負けた理由を遂に悟った。
速かった。ただ単純に、男の斬撃は視覚で捉えられないほど速かったのだ。それでいて強烈だった。強化されたこの拳を、正面から打ち破ってしまうほどに。
衝撃。鉄塊が落ちたような強烈なそれを頭に受けた義明は、堪えることも許されず、あっという間に意識を宙に飛ばされた。意識を失う最後の一瞬、義明に残されていたのは、男の目つきに対する恐怖だけだった。