被害者
一つから生まれた二つがあった。
それらはまとめて放り出され、拾われ、宿命を背負った。
侮蔑という名の。
片方は堕ち、片方は踏みとどまった。
両者は在り様の違いに反発し、
やがて引き返せない離別を生んだ。
背中合わせの道は長く伸び、
もはや決して交わることはなかったが、
心の根に疼く源は常に互いのそれであり、
彼らはそれに殉ずることに決めたのだ。
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十月の夜は思いの他寒かった。
もう少し厚着をして来ればよかったと古賀直美は後悔した。時刻は午後十一時を過ぎたところで、頭の上では街の明かりに塗りつぶされた平たい夜空が広がり、その中でぽっかりと空いた穴のように、小さな丸い月が青白く輝いている。暗く、閉塞感を覚える空だ。直美はそのどちらもが苦手だった。
空から視線を下ろした直美は、まだ使い始めて一年も経っていない高校の制服と、その上に羽織った同じく使い始めて一年も経っていないカーディガンのポケットに両手を突っ込み、少し早足で路地を歩き始めた。背の高いマンションに挟まれたこの路地は街灯も完備されており、暗いというわけではなかったが、夜の遅い時間帯になると人通りはほとんどなくなり、申し訳程度の植木と無機質なコンクリートの壁に囲まれるのみになる。長居したくなる場所ではなかった。
無人の路地を歩き始めてすぐ、直美は温かい飲み物を買おうと思い立った。それは寒さを紛らわせるための手段でもあったし、心に芽生えた人恋しさや不安を誤魔化すための方法でもあった。制服の袖から覗く指先や、スカートの下でむき出しになっている足から伝わる夜の寒さは、それだけで心に不安と緊張を呼び込んだし、身体に良いとも思えない。路地の途中には三台の自販機が並ぶ場所があるのを直美は思い出した。そこに立ち寄って温かいココアを買って、手元を温めながらゆっくり飲めば、このどうしようもない心細さからも、少しは解消されるだろう。そう考えながらいくつかの街灯を通り過ぎ、自販機の前に立った直美は、財布を取り出しかけて不審げに眉を寄せた。
自販機はいつも通り三台そこにあった。見慣れたロゴと塗装。しかし三台全ての明かりが点いていなかった。そして三台全て、直美の顔の位置より少し右上に、何かに強く叩かれたような跡──というよりは、大きな鉄球が直撃したような跡があった。飲み物の見本を展示するケースはその跡を中心に円状にひしゃげ、商品を選ぶために押す横長のボタンは、衝撃で弾き飛ばされたのかいくつかが欠落している。点灯しているはずの液晶モニターも黒く濁った画面を映すばかりで、変わり果てた姿の自販機たちは、いずれもその機能を完全に停止していた。
喉から胃の底にかけて冷たい鉄の棒を差し込まれるような衝撃が突き抜けた。古賀直美は身長が多少低めなことを除けば、何の変哲もない普通の高校生だ。制服の上に茶色のカーディガンといった出で立ちはさして珍しくもない女子高生の姿だったし、肩から下げた学校指定の鞄に鞘に収めた刀を括り付けているのも、五年前に国の教育方針が更新されてからは街中で見かける今どきの平凡なスタイルだ。そんな普通と平凡が服を着て歩いているような自分が、なんの因果か異常な状況に──受け入れがたい何かに遭遇している。
直美はしばし絶句した後、迷惑な者も居たものだと呆れながら、取り出しかけた財布を少し乱暴に鞄に仕舞った。半分は温かいココアを飲めなかった無念と怒りのせいだったが、もう半分は三台全てを破壊した人物に対する恐怖のせいだった。
今日はついていない。無理やり直美は自分に言い聞かせた。家に帰ろう。家に帰れば父と母がいる。中学に入って生意気になった弟もいるし、小学生の頃から一緒にいる犬のシタローもいる。シタローは土佐犬で、体も大きく、力だって強いのに、顔はいつも情けなくて、飼い始めたときからべったりだった。今日も家に帰れば、尻尾を振り回して玄関先で自分を迎えてくれるはずだ。その体の暖かさを思い出し、幾分か気持ちが楽になった直美は、早く帰ろうと踵を返し、
「お嬢ちゃん」
不意に現れた嗄れ声に跳び上がりそうなほど驚いた。声は自販機の向かい側の植木から──正確には植木を背もたれ代わりに座る中年の男からだった。服装はジーパンに悪趣味な柄の黒地のシャツ。体型は小太り、髪は丸刈りで、首や手首にはくすんだ金色のアクセサリーが踊り、その下には全身に刻まれているであろう濃灰色の入れ墨が覗いている。
「ちょっと助けてくれないか」
浮浪者ではなかった。チンピラでもなかった。目つきは鋭く、耳障りな嗄れ声はいかにも怒鳴ることになれたような響きで、直美は鞄を前で抱きしめながら後ずさった。すぐに背中に自販機の冷たい感触が起こり、無残に破壊された姿を脳裏にちらつかせる。シタローの姿はもはや思い出せず、尻尾の代わりに振り回される鉄球が確信を伴うイメージとなって直美を襲った。
助けて?何を。どうして。どうやって。ぞわぞわと背筋を撫で始めた恐怖からパニックに陥りかけ、すんでのところで踏みとどまった直美は、相手から目を逸らさず、鞘に納められた刀を鞄ごと抱きしめた。目を瞑り、耳を塞ぎ、泣き叫ぶのはたやすかった。しかしそれをすべきでないことを直美は知っていたし、教わってもいた。
「な、なんですか。助けるって……」
言葉を発するだけでもなけなしの勇気が必要だった。対して男はこちらを気にする様子もなく、植木から身を起こし、ゆっくりと腰を上げた。
大柄な男だった。横にも縦にも大きく、身長は180を超えていると思われた。だらりと下げられた両腕は丸太のように太く、拳は巨大で、だらしなく突き出た腹と違って異様なほどに引き締まっている。その不気味な姿に、直美はファンタジーの世界に出てくるトロールを思い浮かべた。ただそれと違うのは、ファンタジーの世界は幻想でしかないが、目の前の男は現実であるということだった。
「金、それと寝床」
男は簡潔に要望を述べた。述べながら、緩慢な動作で一歩一歩こちらに近づいてきた。元々男との距離は5メートルほどしかなく、相手の動きがゆっくりだったところでこちらに到達するのに大した時間は必要ない。
「ほんの少しでいいんだよ。なあ──」
「来ないで!」
膨れ上がる恐怖に耐えきれず、喉が勝手に声を上げていた。同時に脅威に対する対処を叩き込まれた体が刀を抜き、その先端をトロールの眼前に突き出している。構えは正眼。柄尻は臍の前に置き、剣先は相手の喉へとつける攻防一体の姿。2尺3寸──80センチ程の太刀の刃は引いてはあるものの、切っ先は鋭利であり、それだけで充分に武器としての役割を果たすものだった。
「へえ、大したもんだ」
対して男はひどく感心したようにその潰れ気味の目を細めた。喉に剣先を向けられていながらそれに臆する様子は微塵もなく、ただ底無しの余裕を持って悠然とこちらを見下ろしている。だらりと下げられた両拳は、まるで握りつぶした時の感触を想像するかのようにゆっくりと開閉され、張り付けた薄ら笑いの表情の向こうでは、獰猛な獣が身を起こす気配がはっきりと感じ取れた。
異常だった。男は刃物を向けられてはっきりと喜んでいた。良くぞ抵抗してくれた、そうでなければ面白味がないとでもいうように。そこには獣の闘争本能の他に、もっと下卑た欲望の影が見え隠れしていた。
男は一歩前へと足を踏み出した。ゆっくりとしたその動作は喉元の剣先を警戒するのではなく、ただこちらに恐怖を与えることだけが目的だった。一歩、また一歩と踏み出す毎に距離はつまり、突き出していたはずの剣先は押し込まれ、男の笑みが近づいてくる。いつの間にか直美は構えを解いてただ刀を抱えて震えており、それにのしかかるようにして迫る男の顔は息がかかるほど近くにあった。
「酷いなあ、君」
男は言った。張り付けた薄ら笑いが歪み、その向こう側が姿を現した。
「こっちは助けてくれと言っただけなのに」
なんで私が。疑問ばかりが頭の中で踊り狂い、正常な思考は何処かへ消えた。男の生み出す恐怖に支配され、絶望が体にのしかかる。
「こんなものを向けてくるなんて」
男はその巨大な左手で刀を掴んだ。みしり、と金属的な悲鳴が手に伝わり、骨を通り抜け、背中を這い上がった。
「お仕置き、しなくちゃなあ」
直美は男の顔から目が離せなかった。突きつけられたナイフから目を離せないのと同じように、何をしてくるのかわからないが危害を加えてくることだけは明白な男の行動から目を離せなかった。街灯の光の陰になったその顔は、街の明かりに塗りつぶされた平たい夜空と月を引き連れてこちらを押しつぶしてくるかのようだった。
閉塞感が押し寄せる。
耳元で響く、みしりという音。
迫る獣の吐息。
直美の心はもはや限界だった。身を守ることを諦めかけていた。刀を抜いたところで、この化け物のような男には到底敵わないのだと。しかしその体は違った。怯え、震えながら、その一点だけは抵抗の意志を固め、頑なにそれを放さなかった。
刀を持つ、その両手だけは。
男が振り上げる──右手/巨大な握り拳/鉄球──その横で輝く悪魔の笑顔。
直美は目を見開き、涙をこぼし、しかし刀は決して放さず/絶望に暮れ、それでも目を瞑り、耳を塞ぎ、しかし泣き叫ぶことなく。
瞬間、壊滅的な衝撃が直美を襲い、その精神を暗闇の中に吹き飛ばした。