熱に浮かされた弟
窓の外では、春の陽気が麗らかに都内のキャンパスを照らしている。
講義中のヒロは必死にシャープペンシルを動かそうとしたが、指先が思うように動かない。
ノートの文字が幾重にも重なって見え、教授の声はまるで水中から聞こえてくるような遠い響きになっていた。
(……やばい、これ絶対熱上がってる……)
快活さが売りのヒロだが、今は重い頭を支えるだけで精一杯だ。
隣に座っていた友人のアキラが、ヒロの異常に気付いて眉を寄せた。
「ヒロ、顔が赤いぞ。大丈夫か?」
「だ、だいじょーぶ……ちょっと、眠いだけ……」
ヒロが力なく笑おうとした瞬間、机に突っ伏しそうになる。
それを支えたのはアキラではなく、教壇から降りてきた年配のサトウ教授だった。
サトウ教授はヒロの幼い顔立ちと素直な性格をいたく気に入り、日頃から彼を孫か小学生のように可愛がっていた。
「おやおや、ヒロ君! どうしたんだい、そんなに顔を真っ赤にして。」
サトウ教授の大きな声が静かな講義室に響き、周囲の視線が集まる。
サトウ教授はヒロの額に躊躇なく手を当てた。
「ひゃあっ! 冷たい……」
「君が熱すぎるんだ。こんなに熱を出して……お腹は痛くないかい? 喉は?」
「き、教授……僕はもう19歳ですから……」
ヒロは朦朧としながらも必死に抵抗し、周囲の生徒達からは同情の視線が向けられた。
「いけないね、こんなに熱があっては。すぐにお兄さんに来てもらわないと。」
その言葉に、ヒロの脳裏に最愛のタダシの顔が浮かんだ。
26歳のタダシはモデルのように端正な顔立ちで、職場でも人望が厚い完璧なサラリーマンだ。
そしてヒロに関しては過保護な男である。
「やめて……!! 兄さんに連絡しちゃ、だめ……!」
ヒロはサトウ教授の袖を掴んで懇願した。
ここでタダシに連絡が行けば、会社を早退して飛んでくるに決まっている。
そして赤ん坊のように抱きかかえられて連れて帰られる未来がヒロには容易に想像できた。
「大丈夫だよ、ヒロ君。お兄さんはいつも『ヒロに何かあったら、どんな些細な事でも知らせて下さい』って、私に名刺を預けてくれているんだからね。」
「……そん、な……」
絶望するヒロを余所に、サトウ教授は手際よくスマホを取り出した。
「もしもし、タダシさんかね? ええ、ヒロ君が熱を出してしまって。ええ、ええ。今にも泣き出しそうな顔で、私を困らせているんですよ。はい、すぐですね。お待ちしています。」
サトウ教授の口調は、まるで幼稚園の先生が保護者に報告する時のそれだった。
「……ヒロ、お疲れ。」
同情に満ちた目でアキラがヒロの肩を叩いた。
「お前の兄貴、また『ヒロ〜! 大丈夫か〜!』って叫びながら駆けつけてくるんだろうな……お前、マジで愛されすぎっていうか、なんというか……」
ヒロは熱のせいで潤んだ瞳を更に湿らせ、机に顔を伏せた。
しばらくして、講義室のドアが勢いよく開く音がした。
「失礼します! ヒロは、ヒロはどこですか?」
低く、しかし焦燥感を含んだ、聞き慣れた心地よい声。
声の主は、仕立ての良いスーツに身を包んだタダシだ。
周囲が「わぁ、イケメン……」「え、芸能人?」とざわつく中、ヒロは自分の体が安心感のある温もりに包まれるのを感じた。
「こんなに熱くなって……苦しかっただろ。」
タダシは、ヒロをまるでお姫様抱っこするかのような手つきで抱き上げた。
サトウ教授の「タダシさん、後のケアは頼みましたよ。ヒロ君、お兄さんの言う事をよく聞くんだよ」という声に、タダシは「もちろんです、教授」と爽やかに微笑んで応える。
ヒロは熱い顔をタダシの胸元に埋めた。
(……兄さん、嬉しいけど、恥ずかしすぎるよ……っ!)
そんな弟の内心など露知らず、タダシは愛おしくてたまらないというようにヒロの熱い額に、周囲の目を盗んで優しく唇を落としたのだった。
タダシの腕に抱えられたまま運ばれて、ヒロは恥ずかしさで死にそうだったが、熱のせいで体に力が入らずぐったりと兄の首に腕を回す事しかできなかった。
「兄さん……もう、降ろして……歩けるから……」
「だめだよ。さっき倒れそうになっただろ? ほら、車まであと少しだから。ヒロは目をつぶってなさい。」
タダシの声はどこまでも穏やかで、しかし一切の反論を許さない強さがあった。
アパートに帰るタクシーの中で、ヒロはタダシの肩に頭を預けた。
「兄さん、仕事中だったのに……ごめんね……」
「謝らなくていい。ほら、もっと寄りかかって。俺がいるから。」
ヒロの幼い顔が熱と照れで更に赤くなる。
タダシの指がヒロの髪を優しく梳いた。
「昔から、ヒロが体調を崩したら俺が看病するって決めてるからな。」
その言葉に、ヒロの脳裏に遠い記憶が蘇った。
──16年前。
ヒロが当時3歳、タダシが10歳の頃だ。
ヒロの父親が再婚する事になり、再婚相手の連れ子であるタダシが家に来て間もない時は、タダシは生まれて初めて出来た弟をどう扱っていいか分からず少し戸惑っていた。
ある冬の夜、ヒロが高熱を出して、布団の中で小さく丸くなり頰を真っ赤にしてぐずっていた時の事だ。
「おとうさん……あついよぉ……」
父親は仕事で帰りが遅くなり、留守だった。
その夜はタダシがヒロの面倒を見る事になり、まだ少しぎこちない手つきで保冷剤をタオルに包み、ヒロの額に当てた。
「ヒロ、頑張れ。俺がいるから。」
幼いヒロは熱で潤んだ大きな瞳をタダシに向け、弱々しく手を伸ばした。
「た、ただしにいちゃん……こわいよぉ……」
タダシはヒロの小さな手を自分の手で包み込み、ぎゅっと握った。
まだ小学生であるタダシの手は温かく、少し汗ばんでいた。
「怖くないよ。俺がずっとそばにいる。熱が下がるまで、絵本読んでやるから。」
タダシは本棚からヒロのお気に入りの絵本を取り出し、ゆっくりと読み始めた。
声はまだ幼いが、ひたすら優しかった。
ヒロはタダシの袖を小さな手で掴み、時々「にいちゃん……」と呼びながら安心したように目を細めた。
その夜、タダシはほとんど眠らず、ヒロの額を何度も冷やして水を飲ませ、背中をさすった。
朝方にようやく熱が下がり始め、ヒロはタダシの胸に顔を埋めるようにして眠りについた。
タダシは小さく微笑み、ヒロの柔らかい髪をそっと撫でた。
「……これからは、ヒロが熱を出したら俺が必ず看病する。約束だ。」
それ以来、タダシにとってヒロは実の弟同然の存在になったのだ。
タダシは何くれとなくヒロの面倒を見るようになり、ヒロもタダシを「兄さん」と慕い甘えるようになった。
──記憶が途切れ、現在のタクシーの中に戻る。
ヒロはタダシの肩に寄りかかり、熱で掠れた声で言った。
「……あの時の事、覚えてる。兄さんが絵本読んでくれた……」
タダシはヒロの髪を優しく梳きながら、柔らかく笑った。
「ああ、覚えてるよ。あの時から、ヒロは俺の大事な弟だ。」
タダシの指がヒロの頰を軽く撫でて冷たい感触を残す。
ヒロは照れくさそうに目を伏せたが、タダシの胸に更に寄りかかり、軽い甘さが2人の間に静かに満ちる。
アパートに帰宅するなり、タダシはヒロを寝室へ直行させた。
「とりあえず着替えようか。ヒロ、自分で服脱げるか?」
「……っ、子供扱いしないでってば! 自分で脱げるよ!」
フラフラと立ち上がり、Tシャツを脱ごうとするが腕が袖に引っかかってよろけてしまう。
すかさずタダシの手が伸び、ヒロの背中を支えた。
「ほら、やっぱり無理じゃないか。手伝うよ。」
タダシは手際よく、しかし丁寧にヒロの服を脱がせてひんやりしたパジャマを着せていく。
タダシの指先が不意にヒロの脇腹を掠め、その冷たさが心地よくてヒロは思わず「ん……」と小さな声を漏らした。
タダシの動きが一瞬止まり、その瞳にいつもの優しい兄とは違う、どこか熱を孕んだ色が混じったのをヒロは見逃さなかった。
「……ヒロ。あまり可愛い声を出さないでくれ。看病に集中できなくなる。」
「え……?」
聞き返そうとしたが、すぐにベッドに押し込まれた。
「お粥作ってくるから。嫌いなネギは抜いてあげる。」
枕元に冷却シートとスポーツドリンクを用意してタダシが立ち上がろうとすると、ヒロはその裾を無意識にギュッと掴んだ。
「……兄さん。」
「ん? どうした?」
「……行かないで……」
熱のせいで理性が溶けているのか、普段なら絶対に言わないような甘えた言葉が口をついて出る。
タダシはハッとしたように目を見開いた後、抗えない力に引き寄せられるように、再びベッドの縁に腰を下ろした。
「……ずるいな、ヒロは。」
タダシは低い声で呟くと、ヒロの蟀谷のあたりにそっと指を滑らせた。
「俺がいない所で他の奴にこんな顔見せてないだろうな?」
「……え、それどういう意味……?」
タダシは答えず、ただ愛おしそうにヒロの頬を撫で続ける。
その大きな手からは、ヒロを実の弟以上に、あるいは1人の男として独占したいという執着が静かに、しかし確実に伝わってきた。
ヒロは兄の大きな手に包まれた安心感の中で、抗えない眠りの海へゆっくり沈んでいくのであった。




