第5話「個体D、その概念は空白なり」
翻訳、できている――
『バベル号』の最下層、特設された巨大なハッチが開かれる。
そこにいたのは、他の3頭とは比較にならないほどの巨躯を誇る、最高齢の個体Dだった。
その皮膚は、幾千の深海を潜り抜けてきた証であるフジツボや古い傷跡で覆われ、まるで生きた岩礁のようだった。
「これで、最後……」
サキは、使い古されたポセイドンのマイクを握り直した。
個体Aは「欠落」。
Bは「羞恥」。
Cは「強がり」。
では、この悠久の時を生きる老個体は、どんな事情で、あの日痛くないと言ったのか。
「個体D。……最終確認を行います」
サキの声は、連日の嘘の応酬に疲れ果て、かすれていた。
「あなたも、あの日スピーカーを通して答えたように、肉体が損なわれることに痛みや恐怖を感じないのですか?」
海面が静かに盛り上がり、個体Dが巨大な頭部を浮上させた。
彼はサキの問いにすぐには答えず、ただ、その古びたレンズのような瞳で、船上の人間たちをじっと見つめていた。
やがて、スピーカーから溢れ出したのは、これまでのどの個体とも違う、重厚で幾重にも重なった音の層だった。
『お前たち、何に、こだわっているんだ?』
「……こだわる?」
サキは、AIが翻訳した言葉を反芻した。
『この肉体は、ただの肉。波が生まれ、やがて海に還るように、肉が損なわれることは、私たちが海という巨大な意識の一部へと戻るための循環じゃないのか。痛みという狭い箱に閉じ込められるようなことに何の意味があるというのかな』
「……何を、言っている?」
ロドリゲス博士が呆然と呟く。
翻訳できているのに、まるで話が――
超クジラの権利も。
資源としての価値も。
何もない。
『お前たちが使う、痛みという言葉、失うことを恐れるからこそ。形を守ろうと必死に足掻いている。私たちは、一頭が傷つけば、その経験は海の記憶に溶け、残された者たちの糧となる。私の肉体が削がれることは、私が海そのものへ拡張されるプロセスだ』
サキは、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
自分の命すら、概念にないのですか――
『対話は、もういいだろう』
個体Dが、静かに宣告した。
『お前たちは、自分たちの言葉で、自分たちの都合の良いように世界を切り取りたいだけなのだね。お前たちの内側にある期待を、私たちの声を使いたかったに過ぎない。……さあ、その機械の電源を切れ』
その瞬間、ポセイドンのモニターが真っ赤なエラーを吐き出した。
過負荷ではない。
4頭の超クジラたちが同時に、人間との概念の同期を拒絶し、遮断したのだ。
調査船の甲板では、依然として「超クジラは無痛だから獲り放題だ」と叫ぶ者と、「無痛だからこそ神聖だ」と崇める者が、終わりのない論争を続けていた。
サキは震える手で、装置のメインスイッチに手をかけた。
窓の外では、4頭の影がゆっくりと、深い、深い藍色の闇の中へと消えていく。
「あなたたちが、わからないよ……。ごめんなさい」
静寂。
対話の装置は静かに電源を切られ、海洋言語学の歴史は、最も滑稽で残酷な敗北を記録して幕を閉じた。
波が、ただ、揺れていた。
全5話、完結です。
最後まで見守っていただきありがとうございました。
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