第4話「個体C、その矜持は空虚なり」
……痛いよ……
愛しき海の聖母。
無痛症の神聖生物。
メディアが個体Bをそう称え、世界が奇妙な超クジラ信仰と資源利用の狂騒に沸く中、第3のプールに収容された個体Cは、それらすべてを嘲笑うかのように尾鰭で水面を叩きつけた。
『おい、通訳! もっとマイクの感度を上げろよ。僕の声が世界中に届かないだろ!』
スピーカーから響いたのは、これまでの2頭とは打って変わった、生意気で騒々しい青年の声だった。 個体Cは、体に無数の古傷を持つ、血気盛んな若いオスだった。
「個体C。これから負荷テストを……」
『テスト? ああ、例の痛いかな? ごっこだろ? さっさとやれよ』
ロドリゲス博士が眉をひそめ、高出力の超音波メスを起動させた。
それはクジラの硬い皮膚を焼き切り、組織を蒸発させるほどの熱量を持っていた。
モニターには、個体Cの筋肉が激しく痙攣し、体温が急上昇する様子が映し出された。
普通なら、狂い悶えるはずの衝撃。
だが、個体Cはわざとらしく仰向けになり、腹を見せて笑った。
『ハッ! なんだよ、くすぐったいな! もっとマシな道具はねえのかよ?』
「この出力で反応がないはずがないのだが」
ロドリゲスは当惑した。
サキはモニターの裏側に隠された、個体Cの微かな挙動を見逃さなかった。
彼は、激痛に耐えるために顎の筋肉を噛み締めすぎて、歯茎から血を流していた。
『いいか、人間ども。勘違いすんなよ。僕が痛くないのは、個体Aみたいな欠陥品だからじゃない。ましてや個体Bみたいに上品だからでもねえ』
彼はわざと調査船の壁に自らの傷口を叩きつけ、真っ赤な飛沫を上げながら叫んだ。
『僕は我慢してるんだ。わかるか? 脳が死ぬほど痛えって叫んでるのを、僕のプライドが黙ってろってねじ伏せてるんだよ。これが意志ってやつだ』
サキは思わずマイクを握った。
「どうして……どうしてそんな無意味な強がりを? 痛いと言えば、検査は中止されるかもしれないのに!」
『無意味だと? 笑わせるな。最近の人間は、僕らの知能をAI(人工知能)と比較してるらしいじゃないか。あんな電気の塊と一緒にすんなよ。あいつらは苦痛を感知するだけだろ? 数値として処理するだけだ。だが、僕は違う。僕は苦痛を拒絶できる。この苦しみを受け流し、笑い飛ばすことができる。それが生きている証明なんだよ』
これは、矜持なのか?
しかし、その嘘は、残酷な形で裏切られるのだ。
「……素晴らしい」
ロドリゲスが、冷徹な手つきでデータを保存した。
「苦痛を意志で制御できる。これは兵器転用や極限環境での作業用生体ユニットとして、最高級の資質だ。痛みを感じないのなら、AIと同じように損耗を気にせず運用できる」
「待ってください。彼は我慢していると言ったのよ。痛みを感じているんです!」
サキの叫びは、記録係によって無残に書き換えられた。
【個体C:精神的バイアスにより痛覚反応を消失。資源としての耐久性は極めて高い】
『おい、通訳。今、あいつ、なんて言ったんだ?』
個体Cの声が、少しだけ震えた。
『資源、だと? 僕が、あんなのと同じ?』
彼は沈黙した。
その夜、個体Cは誰もいない暗いプールの中、小さな声で、一度だけ。
『……痛いよ……』
この声は、ポセイドンの電源が切られていたため、記録には残されていない――
第5話。
最高齢の個体D。
彼はこれまでの3頭とは全く異なる次元から、人類に引導を渡します。
終焉、見届けますか?<Y/N>




