第3話「個体B、その作法は空疎なり」
あなたたちの期待に――
個体Aの生物学的欠落が証明されたことで、世界は熱狂に包まれていた。
クジラに苦痛はないという言説は、もはや疑いようのない真実として定着しつつあった。
しかし、サキの心は晴れない。次に対面することになった個体Bは、Aとは明らかに様子が違っていたからだ。
「バイタルが安定しません。心拍数が高すぎる」
観測プールのモニターを見つめ、サキは眉をひそめた。
個体Bは、美しく巨大なメスの超クジラだ。
彼女はプールの中心でじっと静止しているが、その巨体は微かに、しかし絶え間なく震えている。
「サキ、検査を始めるぞ。皮膚サンプルの採取だ」
ロドリゲス博士の合図で、自動アームが鋭いパンチを個体Bの脇腹に打ち込んだ。肉が抉れ、鮮血が舞う。
『痛くないわ。平気よ』
スピーカーから流れる声は、驚くほど穏やかで、慈愛に満ちていた。
まるで幼子をあやす母親のような、包み込むようなトーン。
「よし、反応なし。次、高周波による聴覚刺激テストに移る」
ロドリゲスが装置を起動させる。人間なら鼓膜が破れるほどの不快な音が水中を伝播していく。
個体Bの心拍数は跳ね上がり、限界を超えてアラートが鳴り響いた。
それでも、彼女の声は微笑むように響く。
『あら、素敵な音ね。ちっとも苦しくないわ。続けて頂戴』
「……嘘よ」
サキはマイクを切り、独りごとのように呟いた。
ポセイドンの解析ログには、音声とは裏腹に、極限状態のストレスを示すパルスが真っ赤な波となって記録されている。
彼女は叫びたいほどの苦痛の中にいるはずなのだ。
それなのに、なぜ痛くないと虚勢を張って微笑むのか。
夜、サキは個体Bのプールの傍らに座った。
月の光が水面に反射し、クジラの白い腹を照らしている。
「個体B。……どうして、そんな嘘をつくの?」
サキの問いに、個体Bはゆっくりと大きな瞳を開いた。
『嘘? いいえ、これは作法よ、通訳さん』
彼女の声は、昼間の公式な回答よりもずっと低く、湿り気を帯びていた。
『私たちの群れではね、痛みを叫ぶことはないの。仲間に余計な不安を与える恥ずべき行為だから。私たちは、最期の瞬間まで気高く、穏やかであるように教えられて育つのよ』
「でも、人間はあなたのその言葉を真に受けて、もっと酷いことをするわ。このままじゃ、あなたは壊されてしまう」
『知っているわ。人間たちが超クジラは高潔で、慈悲深い神の使いであってほしい、と願っていることも。……だから私は、あなたたちの期待に応えているだけ』
それは、自己犠牲と呼んでよいのか。
「そんなの……あまりに悲しいわ」
『いいのよ。それが私のプライドだから。……一つだけ約束して。私の心拍数が上がっていること、内緒にしておいてくれる?』
翌日のニュースでは、個体Bの聖母のような振る舞いが絶賛された。
クジラは自ら進んで人類に身を捧げているのだという、最も都合の良い部分を切り取られて、当然のものとして受け入れられていく。
サキの手元に残された、異常な数値を示すログ。
それを真実として公表しようとするサキの前に、当局の分厚い壁が立ちはだかろうとしていた。
第4話では、さらに異質な若き個体Cが登場します。
彼は人間を見下すために、あえて強がりの嘘を重ねます。
見届けますか?<Y/N>




