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第1話「四重奏(カルテット)の沈黙」

『痛み? ないよ?』



 アイスランド沖、北緯64度。

 冷たい灰色の海の上に、異様な光景が広がっていた。

 最新鋭の音響解析装置を備えた調査船『バベル号』を囲むように、数隻の捕鯨船がもりを構えて待機していた。

 そのさらに外周には、色鮮やかな旗を掲げた環境保護団体のボートがひしめき、世界中のメディアが衛星生中継のレンズを向けていた。

 今日、人類は初めて超クジラと公的な対話を行うのだ。

 海洋言語学が生んだ奇跡、リアルタイム概念翻訳機『ポセイドン』を介して。

「……マイク、チェック。ポセイドン、オンライン」

 通訳者のサキは、震える指でコンソールを叩いた。

 彼女の目の前の海域には、事前交渉に応じて集まった4頭の超クジラが、巨大な影となって浮上している。

 沈黙を破ったのは、甲板に設置された巨大スピーカーから響く、環境活動家の悲痛な叫びだった。

「愛しき海の兄弟たちよ! 聞いてほしい!」

 活動家は身を乗り出し、捕鯨船を指差して絶叫する。

「あなたたちは今、あの忌々しい鉄の杭に狙われている。仲間を奪われ、その身を裂かれる……その恐怖と痛みを感じているのか! 世界に伝えてくれ、あなたたちの苦しみを!」

 張り詰めた空気が海面を走る。

 サキのモニターには、4頭から発せられる複雑なクリック音とバーストパルスが、波形となって表示された。AIがそれを瞬時に人間の概念へと再構築していく。


 1秒、2秒――


 やがて、スピーカーから声が流れた。

 それは合成音声特有の平坦さがありながらも、どこか拍子抜けするほど穏やかなトーンだった。


『痛み? ないよ?』


 その瞬間、北極圏の冷気とは異なる冷えが、その場にいた全員を支配した。

「……え?」

 活動家の拳が空中で止まった。

 カメラを回していたジャーナリストの手が震えている。

 一方で、無線機越しにそれ聞いていた捕鯨船の船員たちからは、数秒ほど困惑したのち、爆発的な歓喜のどよめきが上がった。

「聞いたか! 痛くないんだとよ!」

「神の恵みだ! 植物を刈るのと変わらねえ!」

 サキは目を見開いたまま、モニターの波形を凝視した。


 個体A、B、C、D。


 大きさも年齢も、育った海域も異なるはずの4頭が、まるで事前に完璧にリハーサルを済ませていたかのように、同じ回答を返したのだ。

 概念の揺らぎがない。

 迷いがない。

 そこにあるのは、あまりにも純粋な、そして不自然な一致だった。

「待ってください……再確認します」

 サキはマイクを掴んだ。

「個体A、B、C、D。確認します。あなたたちは、皮膚を貫かれ、肉を削がれても、不快な感覚や、生存を脅かされることへの拒絶……つまり苦痛を覚えないと言っているのですか?」

 4頭はそれぞれ、バラバラに返事をするように潮を吹いた。

 霧雨のような飛沫の向こうで、クジラたちの巨大な瞳がサキを見つめているように思えた。


『うん。痛くない。全然』


 それは対話というより、精巧な自動応答のようだった。

 活動家は泣き崩れ、捕鯨推進派の政治家はすでに勝利宣言のツイートを打ち始めていた。

 誰かが何かを決定的に間違えたような空気が、じわじわと広がっていく。

 サキだけが、言い知れぬ悪寒に襲われていた。

 翻訳機のログの隅の、わずかな周波数の乱れ。

 それは、あるいは……。

 人間たちの滑稽な期待を笑っているようにも見えた。

「嘘……」

 サキの呟きは、捕鯨船が祝砲代わりに鳴らした汽笛の音にかき消された。

 こうして、海洋言語学の歴史に刻まれる、最悪の対話が幕を開けた。



私と一緒に、4頭の超クジラたちの真相を突き止めに行きませんか?

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