婚約破棄されて泣いたら皆も泣きだした
ドロテア・ルーズワルドは泣いたことがない。
厳粛な公爵家に生まれた彼女は、幼いころより、
「泣くのは未熟の証で、恥ずかしいこと」
だと教え込まれてきた。
まして彼女は王太子妃になる身だった。感情をみだりに表すべきではない。だからドロテアは、感情を押し殺して今日まで生きてきた。
たとえ毒蛇に噛まれようと、氷漬けになろうと、眉一つ動かさず、平然と対応してきた。
そんな彼女についた異名は、「氷の魔女」だった。
「ドロテア・ルーズワルド!君との婚約を解消する!」
王太子、サイモンの言葉が、大広間に響き渡った。
「君のような冷たい女とは、もう付き合っていられない!私はアニーと結婚する!」
えらいことになったぞ。
集められた貴族たちが、どやどやとざわめく中、ドロテアはいつものごとく、微笑を浮かべその場にたたずんでいた。その氷のような美貌は、一切動じることがなかった。
――ま、大丈夫だろう。
その様子に、貴族たちは安堵する。
いつもの通りドロテア嬢が、うまいこと治めてくれるだろう。
彼らはよく言えば期待、悪く言えば丸投げの姿勢で、彼女を見つめた。
しかし、ドロテアの行動は、彼らの予想を裏切った。
「うわああああああーーん!」
ドロテアは、大声で泣き叫んだのである。
えっ……⁉
周囲の動揺も置き去りに、ドロテアは泣き叫んでいた。当然である。
ずっと恋い慕っていた殿下からの婚約破棄だ。公衆の面前で、冷たい女とはやっていけないと、完膚なきまでに振られたのだ。これが泣かずにいられようか。
自分の一体、何がいけなかったのか。殿下にふさわしくなるように、一生懸命励んできたのに。皆目わからなかった。
「わーん、わーん!」
情けないですわよ、ドロテア!
泣きわめく自分を見下ろす第三のドロテアが叱ってくる。しかしそれさえもポーズだ。ドロテアを叱るドロテアだって半泣きだ。だって悲しくて仕方ないのだから。
雪のように白い肌を真っ赤に染めて、ドロテアは泣きつくしていた。
ああ泣いてしまった、今まで完璧な令嬢として感情を押し殺してきたのに、もうおしまいだ。自分を裏切ったことが余計に悲しくて、涙が止まらない。
大泣きの第一波が去り、ドロテアの涙はすすり泣きのタームに入った。それは、あたりに悲痛に響き渡った。
「そ……そんな……」
サイモンは困惑の声を上げた。ドロテアは、顔も上げず、泣き続けた。その様子にサイモンはぐっと息をつめ、叫んだ。
「そんなに泣かなくてもいいじゃないか……!」
サイモンの目から、涙があふれ出した。
えっ⁉
周囲が目をむく中、サイモンもまた、白皙の美貌を涙に濡らしだす。
「私だって、不安だったんだ!君は完璧だし、どんなジョークも笑ってくれないし!」
サイモンは、とうとうと胸の内を吐き出した。
ん⁉
周囲が固まる中、サイモンは続ける。
「アニーは笑ってくれたから。私を必要としてくれた。だから……!」
「殿下……!」
うなだれて泣くサイモンに、アニーまで泣き出した。
は⁉
周囲は困惑に困惑を重ねる。
「私だってそうです!いきなり男爵家に養子に入らされて、すごく家が恋しくて……!皆私に冷たいし、家に帰りたいし!殿下は優しくしてくださったから……!」
「アニー……」
そう言って二人はおいおいと泣きだした。
「すごいわかる……!」
と手を取り合って泣く様は、恋人と言うより、戦友のようだ。
「じ、実は私も、貴族としてよくあらねばという気持ちが苦しくて……」
「私こそ……」
すると、なんだか自分たちまで悲しくなってきたらしい。
周囲の貴族たちまで、涙しだした。互いに感情を吐露しあって、励ましだす。しまいには皆で肩を組み横揺れし、歌う代わりにおいおいと泣きだした。
広間が涙に包まれる中、ドロテアは、ぽかんと周囲を見渡していた。
その頬は依然濡れていたが、驚きのあまり涙は下火になっていた。
いったい、なにが起こってるんですの?
ただ、自分はみっともなく泣いただけなのに。なんだか皆が――皆の方が、とんでもないことになっているではないか。
す、す、す、と、困惑するドロテアの元に歩み寄る影が一つ。
隣国の王太子のスチュアートだ。彼はシニカルな笑みを浮かべ、
「そういうものです」
と意味ありげにささやいた。
彼はこの国へ遊学に来ており、顔を合わせるたびに、ドロテアに、
「無理しないで!自分出してこ!」
とささやいてくる男だった。
「ドロテア嬢。あなたを縛ってきたものは、大したことではないんですよ」
スチュアートは笑みを浮かべ、ドロテアにハンカチーフを差し出した。
ドロテアは固辞した。この方からのハンカチーフで涙をぬぐうのは、なんだか嫌だったのだ。
◇
その後。
婚約破棄騒動は、何だかんだで、うやむやになった。皆の記憶から、涙と一緒に抜け出てしまったようだ。
「なんだか新しい自分に生まれ変わったようです!」
心のままに泣いてすっきりしたらしい。皆、別人のように生き生きとした顔で、ばりばりと職務に励んでいる。
どうやら、ドロテアには「共鳴の精霊」の加護が宿っているらしいとわかった。
ドロテアはこれから聖女として、旅に出ることとなった。
出立の前に、サイモンに心から謝られた。
「君のおかげで、心の澱がとれた。本当にありがとう」
サイモンとアニーは、それぞれ別の道を行くことに決めたらしい。
二人はただ、精神的にいっぱいいっぱいだっただけで、恋仲ではなかったのだ。
サイモンは、「虫のいい話だが」と、咳ばらいをした。
「君の帰りを待っていてもいいだろうか?」
サイモンが、うかがうようにドロテアを見つめた。
そのバラ色の頬は、かつて見た、恋する少年のものだった。ドロテアは、
「考えておきます」
と、にっこり笑った。
たくさん泣いて、すっきりしたのはサイモンたちだけではなかった。思い詰めていた心が、嘘のように軽い。
これからどこへ行こう?どこへだって行ける。
心が弾むのを感じる。
「行ってまいります」
ドロテアは、晴れやかに旅に出たのだった。
《完》