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心優しき慈愛の賢者ゆえに――

 ラトゥが宙へと勢いよく跳躍し、巌のような巨体のオルガスめがけて短剣を突き刺してやろうと飛びかかったとき――。

 瞬時に判然できたのは、がっしりとした苔色の肌は相当の堅牢だろうという見立てだった。

 鎧など纏っていないのに、剥き出しの肌にこの短剣は敵わない!

 一瞬でそうと予測がつく不気味さがあり、ラトゥはこのまま全体重をかけて短剣を首と肩の境あたりに突き刺してやろうと思っても、短剣の刃は深く突き刺さることはないと、自分の攻撃がただの無謀で終わると悟ってしまった。

 それに――。

 それが成功するか、否か。

 刹那には、あの剛腕できっと薙ぎ払われるにちがいない。

 ラトゥの本能はすべてを測ったが、だからといってこの体勢では回避もできない。

 所詮は食人の本能しかない奴ら、などと思われる魔物たちも反射行動くらいは持ち合わせていた。


「――ッ!」


 ラトゥは、恐ろしいほどの勢いで振り上げる剛腕の間合いに入ってしまった。

 きっと酷く殴られて、吹き飛ばされてしまうだろう!

 でも、だったらこの短剣の切っ先ぐらい……ッ。

 ラトゥは最初から狙いを定めていた魔物の首もとから目を逸らさなかったが、その首もとさえ、ラトゥを薙ぎ払おうとする剛腕で視界を塞がれる。


 ――くそッ、こうなったら!


 どこにでも刺され!

 狙いの箇所は、もう短剣の切っ先が当たればどこでもいいと、ずいぶんと大雑把になった。

 その、刹那――。



□ □



『……俺は殴る奴は選ばないが、殺す奴には最低限の基準を設けている』

『基準……?』


 以前、(あに)ぃがそんなことを言いはじめた会話をラトゥは突如として思い出す。

 兄ぃに殴られることが決定される奴らは哀れだな、と思う一方、兄ぃでも命を選別する慈悲はあるんだな、と奇妙なところで感心し、


『じゃあ、兄ぃが選ばない奴は?』


 はっきりと他者の死の決定を口にするのは嫌だったので、適当にぼかしてみると、


『敬意の価値なし、だ』


 と、問うた相手はにべもなく言う。

 のちにそれはヒトも含むと知ることになるが、いまのラトゥに言外を読み取ることはできない。


『だが、できたら殺したくない奴らもいる』


 そう言って、兄ぃは自身の美しく長い黒髪を適当に弄りはじめて三つ編みを作りながら、


『オルガスやゴードル――。あいつらはぜったいに殺すしかないが、でも、俺は雑草を伐採するように易々と奴らの首を撥ねることはしたくない』

『……』


 殺さなければならない。

 そう断言しておきながらどこか苦悩を滲ませる物言いに、ラトゥは不思議に思って首をかしげる。


『何で?』


 ラトゥは何気なく尋ね、亜種族にとっても有害でしかないそれら……いや、「彼ら」がどれほど悲しい末路を迎えたのかを知る。


 ――オルガス(オーク)

 ――ゴードル(ゴブリン)


 この名前はすでに悪しき食人族として、ヒトも亜種族も問わず忌避の対象となっている。

 ダークエルフ族の「圧倒的武力」があれば食人族など殲滅もできるが、それら魔物はどれほど視界に見えるだけを全滅させたところで、また、ふと、幽鬼が具現化するように姿を現すのだ。

 まるで亡霊だな、と誰かが言う。

 亡霊、確かにそうだな、と誰もが同意する。


 ――()()とはどういうことだろうか?


 彼らはいまでこそ食人族に成り果ててしまったが、その本性は誰よりも慈悲深く、誰隔てることなく心情に寄り添う慈愛を持つ森の賢者――そうと呼ばれる亜種族のひとつだった。

 彼らは言葉で心を癒し、正し、共にあろうとする寄り添いを説いてきたが、あまりにも感受性に優れていたため、ヒトが富や権威を欲し、世界を害虫のように蝕みはじめたころ、その流血や無念、怨念に憑かれて賢者たちは衰退し、いつしか憑き物の具現化として存在するようになったという。

 正しき身体を失い、欲だけを満たそうとし、そんな身体に変えてしまったこの世界を呪い、魔物に堕ちた。

 賢者たちはただ、ヒトも亜種族も隔たりなく愛したかったというのに――。


『他者の心の弱さに中てられるとは、何とも軟弱な――などと、俺が言うと思うか?』


 兄ぃの言に対し、ラトゥは正直なところ言うと思った。

 でもそれを口にすると、ぽかりと殴られる。

 言うものか、とラトゥは幼い手のひらで必死に自身の口を塞ぎ、兄ぃの苦笑を誘ったが、三つ編みを作り終えた兄ぃはやや遠くを見る。

 つられて見やるが、目に映るのは遥か目下の森林。


『できることなら、浄めて祓ってやりたい。だが、賢者たちはすでに死している。死者を正しく弔うためには死を与えるしかない』

『それって……』

『魔の物に堕ちたら最後、救う手立ては殺すしかないんだ』

『……』


 その賢者たちはかつてどんな姿をして、どのように笑んで、温かな慈愛を向けてくれたのだろうか?


『兄ぃは賢者たちを見たことがあるの?』

『……』


 問うてみたが、これには答えようとしなかった。

 きっと兄ぃの生きてきた時間を以てしても、彼らはすでに賢者として自身を維持することができなくなっていたのだろう。

 そう思い、ラトゥは無言になった時間を適当にやり過ごそうと腰かけていた古城の尖塔の屋根の縁で足をぶらぶらとさせていると、黙していた兄ぃがぽつりと、


『成りはヒトによく似ていた。でも、ときおり眉や額にもう二対の眼が表れる』


 言って、兄ぃは自身の眉、額をそれぞれ指差す。

 正直、初見はおどろいたが、それを見せてくれた女に「奇麗だな」と伝えると、女は微笑んで、いまとなりに腰を下ろす幼いラトゥよりもわずかに大きかった自分の頭を優しく撫でて、「ありがとう」と言ったのを覚えている。そう教えてくれた。

 そして……。

 あの時期を最後に、賢者たちは本性を悉く失ってしまった――。


 ――だから、簡単に殺すことができない。


 切ない心情と、悔しさを滲ませる心情を綯い交ぜに、兄ぃが言ったことを思い出す。



□ □



 なぜ――ッ……。


 なぜ、誰かを守ろうと思い、振り下ろした短剣の刃が魔物の腕に刺さろうとするその刹那に、こんなことを思い出してしまうのだろうか。

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