世界最高峰の存在――黒の皇帝
――黒の皇帝。
これはダークエルフ族の長を指し、この世界最高峰の存在を指す、唯一絶対の御名を表すものである。
――黒の皇帝。
世界はこの名に対していかなる反意も抱くことはできず、許されていない。
黒の皇帝は世界の自然を守護する《守り人》の頂点として君臨し、ありとあらゆる加護を自然に注ぎ、それらすべてが未来永劫「久遠の明日」につながるよう「要」として存在しているという。
すでに何十、何百の歴々たちが玉座に就いたが、いったいどのような神秘を持ち、何をすればそれが発動されるのか。それはあまり知られていない。
知るのは黒の皇帝――当人のみ。
そしてその玉座は、ダークエルフ族の古老たちによる選出で決まるという。
――ダークエルフ族にはもとより神秘の力がある。
とくに運動能力に優れ、狩りを好み、楽器や歌に優れ、自然の可視化である精霊を使役する……当人たちが自覚しているのはこのようなもので、あとは亜種族のなかではもっとも長命な部類であると、自身を知るのはそのていどだ。
そのなかから唯ひとりを選び、世界最高峰の御名を冠するのだから、さぞや神秘の力に優れているのだろうと誰もが敬服するが、ラトゥは自分にそのような神秘があるとはとても思えない。
自分はどこにでもいるような少年で、一族のなかでも年少の部類。
おかげで誰も彼もが子どもあつかいをしてきて、それでも一応は素直に多くを学ぼうと励み、ときには自然のなかで活発に遊び、剣を稽古してすこしはダークエルフ族の青年たちを象徴する「圧倒的武力」の一端になりたいと思い、日々努力で過ごしているだけだ。
なのに、青年たちは自分たちの興じることを優先にラトゥをお荷物あつかいして、いつだって平然と置いていく。――まだ早い、と。
これのどこに敬意があるというのか!
ラトゥはいつもこのあつかいに地団駄を踏み、むきぃッ、と頬を膨らませて、それでも恋しがって後追いをしてしまう。――そう、いまのように。
――俺ってほんとう、前向きで健気だよなぁ。
誰も褒めてくれないから、自分で褒める。
それを日課にしている普通の少年だというのに、自分に何を見出したて、世界最高峰の御名の冠を頭上に載せるとは!
――黒の皇帝。
ほんとうにそれは何なのだろうと、ラトゥは思う。
叡智万能?
神秘至高?
皆はそのように思っているだろうけど、いまのラトゥにできるのはおいしいシチューをつい三杯おかわりしてしまう、それくらいだった。
周囲はそれを見て幸せそうに笑う。
「黒の皇帝はほんとうによく食べるねぇ。――ほら、パンもある。いっぱいお食べ」
□ □
そうやって夜の食事をおいしくいただいたあと、ラトゥは自分よりはるかに幼い獣人族の子どもらに囲まれて、満天の星がきらめく夜空を草原に寝転がって見ていた。
星はときどきまばゆい尾を引いて、流れていく。
不思議だな、奇麗だなと思うが、では、自分が真に黒の皇帝だというのなら星のひとつぐらい流せるだろうかと、ラトゥは満天の星に向かって褐色肌のしなやかな腕を伸ばし、大きく手を広げて指の先まで何かを念じるように力をこめてみるが、夜空に変事は何も起こらない。
――うん、これが現実だよな。
しかも、そういうときにかぎって星はひとつとて流れもしないから、腹立たしいったらありゃしない。
「ねぇ、黒の皇帝。何かお話しして」
「話、ねぇ……」
子どもたちは何やら冒険心が疼くような話を求めているようだが、さて、困ったぞとラトゥは思う。
ダークエルフ族は寿命が長く、黒の皇帝を頂点に戴き、同族も亜種族もこだわりなく面倒を見ているので、何かと心配りが大変ではないかと思われているが、じつはそのようなことはなく、自身の興味以外には関心が薄い。
ラトゥはそのなかでも好奇心はあるほうだが、鼻を高々、誰かに自慢ができる何かをしていると問われれば、それは何もない。
剣の稽古なんか話したっておもしろくなさそうだし、じつのところ園芸に興味があって花園でたくさんの花を育てていることを試しに話してみるが、これはあっという間に子どもたちのあくびを誘い、あっさり寝付かれてしまった。
つまり、誰も聞きやしない。
「ダークエルフ族はどちらかというと、勇猛果敢で知られているからねぇ」
「勇猛果敢、ねぇ……」
くっくっと笑い、草原で寝る子どもたちを引き取りに現れた獣人の大人たちが手を伸ばすなか、ラトゥは上体だけを起こし、
「そう言って兄ぃたちが評価されるのは嬉しいけど、でも兄ぃたちはすぐに図に乗る。乗りまくって俺を置いてけぼりにするから、褒めるのはときどきにしてほしい」
「おやおや」
「いまだってそうだよ。俺、兄ぃたちを探しているのに……」
こちらの方角だと思い、何となく旅のようにふらついているが、いっかな彼らに遭遇しない。
最初こそ、見つけたら不意打ちを食らわせてやると奇襲に意気込んでいたが、こうも会えず、ひとりでいると今度は寂しくなって、とにかく彼らに――兄ぃに会いたくてたまらなくなる。
あの憎まれ口は聞けば心底腹立たしくなるが、それでもいまはそれさえ恋しい。
「兄ぃの馬鹿……」
膝を抱えてうずくまり、ラトゥはぽつりとつぶやく。
そんなラトゥを見て、獣人の大人のひとりがぽんとラトゥの金色の髪に手を当て、そのまま頭を撫でてくる。
「黒の皇帝はよき兄たちをお持ちだ」
「うん――」
兄と言っても、ヒトの感覚でいう血縁関係はない。
ダークエルフ族は婚姻で子を成すが、育てるのは一族総出なので、目上であれば誰もが等しく父母で、兄姉、あるいは弟妹なのだが、ラトゥはそのなかでもっとも身近にいた青年に懐き、とにかく「兄ぃ、兄ぃ」と呼んで慕い、傍を離れようとしない。
――兄ぃ……。
会いたいよ、と思ったときだった。
ぴくり、とダークエルフ族のもっとも特徴的な長く鋭い耳が何かを捉えた……ような気がする。
顔を上げて周囲を見やると、家畜や愛玩でもなく、だが獣人族がともに暮らしている通常の獣よりもいくらか体躯の大きいトラやヒョウのような獣――霊獣たちがラトゥたちと距離を置きながら、何かの気配を鋭敏に探ろうとうろついているのが目についた。
見た目こそ獰猛で、ラトゥも霊獣たちをひとりで見たら誤解して竦みあがってしまうが、霊獣たちは獣人族に従順。けっしてこちらを襲ったりはしない。
だが、低く唸るようすは不安に誘われてしまう。
「おじさん、この辺りには何かがいるの?」
霊獣の唸り声は、警戒、あるいは威嚇。
ラトゥが怪訝に思って尋ねると、獣人の大人たちも夜の周囲を見やり、
「最近、この辺りにオルガスやゴードルが出るようになったんだ」
「え……?」
「幸いにしてまだ襲われはしていない。だが、霊獣たちがどうにも落ち着かない。だから夜はああやってこちらから威嚇しているんだ」
「……」
オルガス。
ゴードル。
それは禍々しく獰猛で、食人性の強い種族で「魔物」とも称されている。
本来であればダークエルフ族たちが住むこの大陸ではほとんど姿を現さないと言われているのだが、それほどまでにこの世界は何かが軋み、蝕まれているのだろうか――?