軋む世界
――この世界には、明確な名は存在していない。
すくなくとも名前がなくてもラトゥたちダークエルフ族に不自由はないが、ヒトは不自由をするようで、世界に名前を付けたり、大陸に名前を付けたりする。
最初は、よく考えつくよなぁ、などと呑気に関心もしたが、覚えてやるかと興味を持ってもヒトは気まぐれにそれらの敬称を変えるので、関心も興味もとっくに失せている。
おまけにヒトは「ヒト」という同族を果てしなく持つというのに、まるでひとつの房にいくつもの花びらをつけるようにそれぞれが主張する領土を「国」と称し、おなじ花びらだというのにどちらが強いかといがみ合い、テレジレスだの、プレアトルだの、エリエンシュなど仰々しく名前を付けては興亡をくり返しているのだ。
興亡の亡は、散る花びらによく似ていたし、興亡の興は新たに咲く花によく似ていた。
そうして咲いては散るをくり返し、そのたびにまた名前を変えている。
――ほんとう、ヒトってわからないよなぁ。
ラトゥは思う。
それが自分のものになるのなら、ヒトは際限なく「国」を欲し、領土を欲し、富や権力を欲して同族と殺し合っている。
欲しいものは無限に。
そのくせ、時間というものに支配されたがっていて、あの時計のようなものまで作ってしまって。
とにかくヒトは目に見えるものを欲し、貪欲なのだ。
『――何とも浅ましき短命種。たかが六十、七十の寿命が永久に近い玉と同等でいられると思っているのか?』
などと、ダークエルフ族の青年たちはヒトに向けて嘲笑う。
だが同時に、
『あれらは害虫だ。世界を蝕む害虫だ。貪欲な短命種風情が、いまでは自分たちこそが世界の中心だと奢っている! あいつら、――馬鹿だろ』
その害虫たちの飽くなき侵攻に、至高の美貌を誇るダークエルフ族の青年たちも悉く悪鬼の形相となる。
それゆえ――。
ヒトも、ダークエルフ族たちの多くが住まうこの大陸には容易には手を出さない。
それはダークエルフ族が自然を守護する《守り人》であることに敬意を向け、尊崇し、それが絶対という意識――それがもっともな理由だろうが、それが当然だったのも、罷り通ったのも遥か昔。
いまは容易に手を出せないのではなく、下手に欲目を彼らに向けたら最後、褐色肌の美しい悪鬼たちに悉く殲滅させられると骨身に染みているので、自身の命を惜しんでのことだった。
□ □
――この世界には本来、亜種族が暮らす平和だけが広がっていた。
国も領土も主張もなく、それぞれの部族が暮らしやすい土地に住み、簡単な村を築いて、食べるに不足のない畑を作り、自然に敬意を払い、もたらされる恵みに感謝し、他を隔てることなく、共に手を取って……。
ヒトも本来はその一部であった。
――それら種族を統べて、自然を守護し、《守り人》として世界の頂点に立つのがダークエルフ族。
そして。
――そのダークエルフ族の長として、最高峰の頂点に立つのが……。
一族のはじまりがいつのことなのか。
それはあまりにも遥かな過去、「久遠の昨日」のことなので、数百年と寿命を持つ彼らでも紐解くのが難しく、明確に知る者はなかった。
これに興味がないわけではないが、如何せん、文献や伝承がすくなすぎる。
――一説には。
こちらの世界とは異なるもうひとつの世界――「神」の世界と呼ばれる地に住まうハイエルフ族と袂を分かつ所以とも言われているが、ハイエルフ族に関する伝承もお伽噺のように確証がない。
しかもハイエルフ族はダークエルフ族と異なり、神秘をいくつも持ち、数千年の寿命を持つと言われている。
かつては同族だったかもしれないハイエルフ族を知るのは、これくらいだ。
――もう一説は。
これはお伽噺を遥かに超えた馬鹿馬鹿しい話で、この世界は最初一匹の《竜》の咆哮から創世されて、自然を司る「竜の五神」と呼ばれる、世界最初の種族――竜族によって世界は創世期を経て生命が誕生したとも言われている。
『――ねぇ、兄ぃ。りゅうって、何?』
ラトゥはそんなお伽噺を幼いころに聞かされて、まったく耳慣れぬ《竜》について尋ねたことがある。
すると、尋ねられた青年は心底下らぬようすを表情に浮かべて、鼻で笑う。
『竜っていうのは、いわばワニやトカゲが馬鹿みたいに大きくなった化け物で、しかも奇妙な翼を背にして空まで飛ぶという。吼えれば、一瞬で世界が灰燼と化すらしい』
『空飛ぶトカゲ……?』
森のなかで、美しい苔や蔦が絡まる倒木に腰を下ろしていたラトゥは、ちょうど足もとを通りかかったトカゲを見て空想を膨らませる。
木漏れ日を受ける、トカゲ。
だが、どんなに華美に盛ろうとカッコよさは感じられない。
『変だね、それって』
『だろ?』
『でも、見てみたい。どこにいるのかな?』
『いたらとっくにヒトが狩り尽くして、金品換算の道具にしているさ』
これに関しての伝承は片指の数よりもすくなく、文献にも数文字ていどの空説で書かれているようなものだから、姿を含めて明確に知る者はないのだ。
――だから、後者は伝承も残らないお伽噺以下だった。
想像しても姿もわからぬ奇妙極まりない化け物に、どうして世界を創ることができようか?
それに「神」というのは、この大地で生きていく上で必要な恵みを与えてくれる「自然」のことをここでは指す。
――自然より大きな存在など、この世界にあるはずがない。
□ □
ヒトと亜種族共存の世界は、長らく平和だったという。
「でも――いつからだろうねぇ、ヒトが禍々しい主張をはじめて、のさばるようになったのは……」
ラトゥの「兄ぃ探し」は、ちょっとした旅のようになっていた。
気がつけば頭上の太陽や月が何度も巡り、朝と夜を何度も経験していた。
けれどもラトゥにとってそれは、たいしたことではない。
寝たければどこでだって寝られるし、腹が減れば木の実を取ったり、最低限の狩りでその存在に最大限に感謝し、動物を食べればいいのだから。
無論、それをしなくてもいい。
この周囲に暮らす亜種族たちがラトゥを見れば声をかけ、寝る場所や食べ物を与えてくれる。
いまもそうだ――。
形容はヒトのようだが、獣面や美しい毛並みを持つ獣人たちに声をかけられ、具だくさんのシチューを山盛りにされて、その熱さにふぅふぅと息をかけながら、ラトゥは今日の一夜を彼らの村で過ごすことになった。
村はそれぞれの家族が暮らす簡素な一軒家があるが、食事時は広場のようなところに集まり、皆で食べるのが習慣らしく、周囲はとてもにぎやかだ。
「あたしたち獣人族も、昔は世界のあちらこちらで村を持ち、のんびり暮らしていたもんさ。でもねぇ、ヒトがあたしたちを人外と呼び、異能を悪しきものと決めつけ弾劾し、村は焼かれて、一族も殺されたり逃げたりで、散々な目に遭ったもんさ」
「……おばさんたちの村、どこにあったの?」
ラトゥに温かな食事をふるまう獣人の女は、複雑にただ微笑し、
「さぁ、どこだろうねぇ? ずいぶんと歩いたもんだし、おばさんもまだ生まれていなかった」
「?」
「これは、おばさんのばぁちゃんから聞いた話さ」
「そのばぁちゃんは? 逃げたあとは元気?」
何気なく問うと、獣人の女はさらに微笑する。
「あたしら獣人族は、黒の皇帝やダークエルフ族ほど長くは生きられない。とっくに眠りについて、この一帯の自然と返ったさ」
「……」
この世界に存在する数多の亜種族。
それらは等しく最期を迎えれば自然へと返る。
目に見えるかたちこそすべてを失うが、だが、魂は自然となり、つぎに誕生する命の苗床となって、それに光があることを願いながら眠るのだ。
でも……。
悪いことなど何もしていないのに、何かを決めつけられて、そのせいで殺されるのは嫌だな、とラトゥは思う。
思うが、ヒトはそれをよしとしているようで、彼らにとって「人外」である亜種族たちは被害に遭い、攻防しようと戦い、そして戦いに飽くか絶えるかで、すこしずつ姿を消している。
――世界で姿を見るのは、いつしかヒトばかり。
――亜種族たちも顔を見合わせれば、ヒトに対しての恨み言ばかり。
そんなふうに何かが歪み、軋んでいく。
できることならもっと楽しいことを語り、笑っていたいというのに。
「でも、この大陸はいいねぇ。ダークエルフ族たちに護られて、黒の皇帝のご加護があって。――我らを受け入れてくださるご慈愛に感謝」
言って、獣人の女が作法っぽいしぐさでラトゥに深々と頭を下げてくる。
女がそれをすると、周囲の獣人たちも笑い、そして誠実な感謝を向けて頭を下げてくる。
ラトゥはいきなりそれをされて面喰うが、それでもそれを向けられるのは一再ではなかった。
「俺は……そんなたいそうなことはしてないよ。それは全部先代たちが行ったことだから」
自分はただのラトゥ。
何かを成せとガミガミ言われても、まだ何も成せていない。
それを必要とされていても、ほんとうに自分がそうなのかもわからないというのに……。
「俺は――」
黒の皇帝、そんな大したものじゃない――。
そうと言いたかったが、ラトゥの立場はすでに決められていた。
黒の皇帝――その存在だと。