からっぽのたまご
ぱかん。
ある朝、卵を割ったおかみさんは、がっかりしました。
大きくてずっしりと重い卵なのに、今日も中身は空っぽだったからです。
おかみさんは殻をポイと投げ捨て、ぷんぷん怒りながら鶏小屋へ向かいます。そして、一際太った一羽の鶏を見下ろし、こう言いました。
「おまえはどうして空っぽの卵しか生まないんだい。エサばかり食べて仕事をしないなら、鶏鍋にして肉を食べてしまうよ!」
さあ、その鶏は大慌て。
バサバサと羽を広げ、自分でもどうして空っぽなのか分からないと、必死に訴えます。
けれど、おかみさんに鶏の言葉は通じません。「うるさいねえ」と、ますますぷんぷん怒りながら、向こうへ行ってしまいました。
もし明日の朝も空っぽだったら、自分は鶏鍋にされてしまうかもしれない。
怖くなった鶏は、じっとなんかしていられません。鶏小屋を囲う網が、ほんの少し破れているのを見つけると、そこをくちばしでくわえ、思いきり引っ張りました。
がんばったおかげで、さらに破れて穴が空きました。太っちょの鶏には、まだまだ狭い穴でしたが、よいしょと体をねじこんでみます。羽が何本も抜けて、痛くて涙が出ましたが、がまんしてなんとか小屋から脱出することができました。
それから鶏は、生きるために、人間の村から離れました。美味しい卵を生むんじゃないかと、誰かに勝手に期待されて、捕まえられては困るからです。もう同じ目にはあいたくないと、深い森の中、一羽きりで生きていく決心をしたのです。
ところが、ひよこの時から人にエサをもらうことに慣れていた鶏は、上手く食事にありつくことができません。
土の中の虫をツンツンとつついてみたり、瑞々しい葉っぱをついばんだりしてみましたが、どうしても口に合わなかったのです。
大変なのはそれだけではありませんでした。鶏の肉が大好きな山犬やアライグマから、身を隠さなければならなかったのです。なにせ他の鳥のように空を飛べるわけでも、速く歩けるわけでもありませんでしたから。
人間以外にも、自分をエサにしたい動物がいたことを知り、鶏はだんだん悲しくなりました。
やがて鶏は、心も体もすっかり疲れはててしまいました。太っちょだった体は、ガリガリにやせ細り、とうとう動けなくなってしまったのです。
草かげにうずくまっていると、いつの間にか、そばに人間の男が立っていました。
「おや、おまえ。こんなにやせて、どうしたんだ?」
男はしゃがんで、ボロボロの羽をなでます。
こんなに優しく触られたことなどない鶏は、怖いという気持ちも忘れて、ただ大人しく身を委ねていました。
抱き上げてくれた腕の中は、とても暖かく、この人間になら食べられてもいいと思ったほどです。
けれども男は、なぜか鶏を食べませんでした。
お金がなくて、いつもお腹がペコペコで、森で動物を狩っては食べていたというのに。
なぜかこの鶏だけは食べませんでした。
家に帰ると男は、「おまえは俺に似ているな」と言いながら、大切なトウモロコシを、細かく砕いてくちばしに入れてくれました。
香ばしくて甘い味。たしかに鶏小屋で食べたことがあるのに。その時よりも、ずっとずっと美味しく感じました。
それだけではありません。男はタオルとまくらでふかふかのベッドを作り、そこに鶏を寝かせてくれたのです。
卵を生まなきゃという緊張も、誰かに食べられてしまうという恐怖も。何もなく、ぐっすり眠れたのは、まだ本当に小さかったひよこの時以来でしょうか。
鶏はその夜、高い夜空に羽ばたいて、お月さまのとなりで、星になる夢を見ました。空っぽなんかじゃなく、光がぎっしりとつまった、とてもきれいな星です。
翌朝、男が目を覚ますと、鶏は冷たくなっていました。それでも男は鶏を食べる気にはなれず、少し涙を流してから、土に埋めることにしました。
出会った時のように優しく抱き上げた瞬間、卵がころんと、ベッドの上に落ちました。手に取ったそれは、大きくて、ずっしりしていて、見るからに美味しそうです。
男は鶏にお礼を言いました。
鶏のお墓を作り、石や花でていねいに飾ると、男は卵を手に、キッチンへと向かいました。キッチンと言っても、古いかまどと、さびた鍋がある程度の場所です。
こんなに重い卵だもの。きっと大きなオムレツができるに違いない。いや、やっぱり大きな目玉焼きにしようと、わくわくしながら、殻をコンコンとノックします。
ぱかん。
割れた卵からは、何も出てきませんでした。そう、さいごの卵も空っぽだったのです。
口の中をよだれだらけにしていた男はがっかりしましたが、殻を捨てる気にはなれませんでした。朝日をあびてキラキラ光るそれが、とてもきれいで、大切なものに思えたからです。
男は半分に割れた殻をきれいに洗うと、お陽さまに干して乾かしました。
その後、鶏にあげたトウモロコシよりも、もっともっと細かく砕いて、大切な絵の具に混ぜました。
いつもより輝いて見えるそれを、ちょんちょんと筆の先につけると、悩んでいたキャンバスの上に、さあっと滑らせていきます。
するとどうでしょう。上手く描けなかった暗い夜空に、きれいな星が、キラキラと広がっていくではありませんか。
夜空だけではありません。海も、森も、目には見えない風だって。ずっと男が出したかった色が、ふわりと簡単に現れるのです。
男はお腹が空いているのも忘れて、夢中で絵を描きました。
持っている物を全部キャンバスに替え、夢中で描きつづけました。
それから何年か経ったある日、男の描いた『夜空と鶏』の絵を、街でぐうぜん見かけたお姫様がたいそう気に入り買ってくれました。
お城の広間に飾られ、沢山の人の目に触れたことをきっかけに、売れない画家だった男は、たちまち有名になりました。
その頃にはもう、あの卵の殻がなくても、自分の出したい色を出せるようになっていたそうですよ。
ありがとうございました。