5 後ろ向き
「トラヴィスとの婚約は破棄するよ、よいね」
サーキン伯爵家を呼び寄せる前日に、レスター侯爵は、娘を思いやるように声をひそめて言った。リリエッタは頷くことしかできなかった。トラヴィスのことはまだ好きだ。けれど、声が出ないリリエッタでは伯爵夫人としての役割を果たすことはできない。可愛げのないうえに役に立たないリリエッタなどきっとトラヴィスは必要としない。トラヴィスはあの日言っていた通りに、きっと喜んで婚約破棄を受け入れ、あの少女を伯爵夫人に迎えて、幸せな結婚生活を送るのだろう。
それからひと月が過ぎた。リリエッタの声は出ないままだ。
両親はリリエッタの心をいたわることを優先して、自由に過ごすことを許してくれている。しかし、することもなく過ごしていると、トラヴィスと過ごした楽しかった日のことばかりを思い出す。一緒に本を読んで話し合ったこと、庭を散歩しながらつないだトラヴィスの手が温かかったこと、トラヴィスに贈られたリボンを着けた時可愛いと頬を染めて言ってくれたこと、記憶の片隅から思い出を引き出して何度も何度も繰り返す。そして、なぜその日々が続かなかったのだろうと考える。
エリカ・カルキン子爵令嬢は優し気な控えめな少女のようだった。トラヴィスを立てていて、トラヴィスも彼女を信頼しているように見えた。だから彼女を好きになったのだろうか。彼女のほうが魅力的だからリリエッタのことを嫌いになったのだろうか。それとも、リリエッタを嫌いになったのが先なのだろうか。いずれにせよ、今頃トラヴィスは彼女と一緒にいて、あの時見たような楽し気な笑顔を浮かべているに違いない。
そして、結局自分がいけなかったのだという自省にたどりつくのだ。もう少し、トラヴィスのことを思いやっていれば、あんな言い方をしないでいれば、もっと控えめにしていれば、この声がもっと静かなものだったら。
トラヴィスへの思いだけでなく、婚約者に捨てられるような娘であるうえに話すこともできないなんて、両親にも申し訳ないという思いで、部屋から出ることもできずリリエッタは過ごしていたのだった。
娘を心配するレスター侯爵夫人は朝と晩には娘の部屋を訪れて、気分を引き立てるように話しかけていたが、その日は少し様子が違っていた。
「リリエッタ、ちょっといいかしら」
その手には綺麗に洗われてたたまれたハンカチがあった。上質な絹で作られ、色糸で紋章が刺繍されている。それは、あの日リリエッタの窮地を救ってくれた人が貸してくれたものであった。洗われて手元に戻ってきたハンカチをいろいろあった中で、リリエッタは失念していたのだ。貴族は付き合いが大切、借りたままにしておくことは礼節に反する。困った侍女がレスター侯爵夫人にどうするかお伺いをたて、その結果レスター侯爵夫人が慌ててリリエッタの部屋にやってきたのだった。
リリエッタは、剣と百合を象ったその紋章にはっとして目を見開いた。
どのような経緯でそれがリリエッタの手元にあるのかを筆談で説明すると、レスター侯爵夫人は納得したように頷いた。マリアはあの日あった出来事を公爵家の人間が証明できるといった。それはつまり、このハンカチの持ち主が公爵家の人間ということだ。なんてこと、リリエッタは息をのんだ。
「リリ、久しぶり」
ハンカチの持ち主を確認するためにマリアに手紙を書くと、マリアは返事の代わりにリリエッタの元を訪ねてきてくれた。
マリアは、あの日から何度もリリエッタを元気づけに来てくれている。初めて来た日は、自分が泣きそうな顔をしながら、舞踏会での出来事をリリエッタの承諾なく話してしまったことを謝ってくれた。それから、声をだせないリリエッタを抱きしめ、一緒に泣いてくれた。それからも、リリエッタが好きな菓子や花をもってきてくれる。マリアと話していると、自分は選ばれなかった、という思いが少しは薄らぐ気がした。
軽い抱擁を交わすと、リリエッタはマリアにソファを勧めた。二人が並んで腰を下ろすと、すぐに紅茶と菓子が運ばれてくる。今日はマリアの好物の厚焼きのクッキーと生クリームのたっぷり乗ったケーキを準備した。そうと見えないけれど、マリアは甘いものが大好きなのだ。
「おいしい」
相好をくずすと、いつも凛としたマリアがとても可愛らしくなる。リリエッタはそれを見るのが好きだった。紅茶を飲みながら、マリアの近況を聞き、いち段落したところでリリエッタは事前に書いておいた手紙をマリアに渡して読むように促した。声をなくしてから、このように話があるときは事前に手紙を書いておき、そのほかのやり取りについては、帳面を持ち歩いて筆談で対処するようにしていた。簡単な内容なので、すぐに読み終わるはずだ。その間に、リリエッタは先日のハンカチをテーブルの上に置いた。
まっすぐに置かれた剣に二本の白百合がクロスする紋章は、ラトリッジ公爵家のものだ。記憶をたどれば、あの舞踏会で、嫡男で今は儀礼爵位のアルバーン伯爵を継承しているアルフレッド・エフィンジャー・クロフォード卿の姿を見た覚えがある。スラリと背が高く細身で銀髪碧眼の麗しい容姿をしているが、マリアと同じく建国の勇者の血を引くラトリッジ公爵家の後継ぎにふさわしく武勇にも秀でていると聞く。あの日も、リリエッタと同世代のまだ婚約者のいない令嬢たちが華やかな声を上げて彼の姿を追いかけていた。
「そうよ、このハンカチはアルフレッド様のものよ」
簡単に認めると、眉毛を下げたリリエッタを見てマリアは笑った。
「どうして早く言ってくれなかったって? だってあなたはそれどころではなかったじゃない。アルフレッド様はお礼がないとか、そんなことを気になさる方ではないわ。それよりも、リリ。このハンカチのことが気にかかるくらいに落ち着いたなら、私あなたに言いたいことがあるわ」
マリアはテーブルに置かれたハンカチを手に取りながら、リリエッタに向き合った。
「もう自分を責めるのはおやめなさい」
はっとしてリリエッタはマリアを見た。
「あなたのことだから、きっと自分ばかりが悪いと思って自分を責めているのでしょうけれど。よく考えて。あなたはあの男に不満はなかった?」
不満はあった。どうしてもう少し一生懸命に学んでくれないのかと思っていた。それを口に出してはいけないと思っていた。けれど、もう今ならばいいのかもしれない。リリエッタは小さく頷いた。
「では、他の人に気持ちが向いたりした?」
今度はぶんぶんと勢いよく首を振る。他の人など考えてもみなかった。トラヴィスが好きだから、ただトラヴィスのことしか考えていなかった。
「そうでしょう。不満があったからって、相手と向き合いもせず、他の人間に心を移すなんておかしいことだと思わない?」
言われてみれば確かにそうだ。けれど、リリエッタの家が格上だから不満を言えなかっただけなのではないか、そう帳面に記すと、マリアは片眉を上げた。
「不満が言えないことと、他の人と親しく付き合うことは別々のことよ。引き換えに出来ることではないわ」
そうなのかもしれない、そうなのかしら。
リリエッタは首をかしげて、マリアの話の続きを待った。
「わたくし、以前ロウに叱られたことがあるわ」
突然の告白に、リリエッタは驚いてマリアを見た。ロドリックも格上の公爵家に婿入りした身で、そして、リリエッタの知っているロドリックはマリアをお姫様のように大事にしているのに。
「リリとまだ知り合う前よ。十四歳で婚約してしばらくたった頃。わたくしは公爵家の娘で、わたくしの結婚相手が公爵家を継ぐことは決まっていたから、わたくしに怖いものはなかったの。婚約者になったロウのことも新しい侍従の一人くらいにしか思っていなかった。だから、今まで通り自由に振舞っていたの」
昔を懐かしむようにマリアは上を見上げた。
「ある日ロウが真剣な話があると言い出して。ロウへの態度も含めて、周りの人たちへの態度を見直すよう忠告されたわ。このままでは、自分はあなたを大事にできそうにありません、表面だけの夫婦になってしまいますって」
「できれば、長い人生互いに思いやって暮らせる夫婦になりたい、そのために互いに努力しませんかって、もう必死な顔で。当然よね、わたくしが怒れば婿入りの話など吹き飛ぶし、彼の家との関係にも影響が出る。それでもロウは、わたくしに見直すべきことを忠告してくれて、それでわたくしは自分を振り返ることが出来た」
マリアに直すところなんてあったの、と問うとマリアは笑いながら頷いた。
「あのころのわたくしはね、この世界は自分のためにあるようなものくらいに思っていたの。今ならばどれだけ浅はかだったかわかる。けれど、他の人の言葉だったら、きっとあのころのわたくしの心には届かなかった。ロウの一生わたくしと共に生きていく、っていう覚悟が伝わって、この人と生きていくためには自分を変えなくては、と思ったの」
もちろんロウにも不満は伝えているわ、お互い様だものと優雅に微笑むマリアにリリエッタは目を丸くした。そんな過去があったことなど思いもしなかった。
私も、トラヴィスに不満をぶつけたほうがよかったのかしら、そう帳面に書いた。
「そうだとしたら、きっとお互いにね。だから、リリが自分だけを責める必要なんてないのよ」
マリアは手元にあったラトリッジ公爵家の家紋の入ったハンカチをリリエッタに差し出した。
「あなたが婚約を解消して、社交界では誰を次の婚約者に選ぶのだろうって大騒ぎよ。きっと侯爵の元には婚約の申し込みが山のように来ているのでしょうね。ねえ、リリ。それってあなたのこれまでの努力を皆が見ていたってことよ。今までのリリの姿を見て、それで求婚なさっているんだから、自信を持っていいのではないかしら」
マリアの言葉はいつも力強くリリエッタを励ましてくれる。