4 婚約破棄
二人の結婚は二人が十八になった年の秋と定められ、次代を担うための教育が始まった。
はじめリリエッタは社交や家の采配をしていくために必要なことを学んでいた。けれど、リリエッタは侯爵令嬢としての教育を受けており、またサーキン伯爵家はレスター侯爵家の家門のひとつであるため、改めて学ぶことはそう多くはなかった。そんな中、サーキン伯爵家からリリエッタにもトラヴィスと共に領地経営を学んでくれないかという申し入れがあった。
レスター侯爵家では、領地経営は侯爵である父の仕事であり、母が口を出すことはなかったが、学ぶことは楽しかったし、共に学んでできる手助けをすることでトラヴィスに喜んでもらえることが嬉しかった。リリエッタはトラヴィスの素直なところや、リリエッタはもちろん、使用人たちにも助けられたら率直に感謝を伝えられるところが好きだった。だから、頑張ろうと思った。
そして少し頑張り過ぎたのだ。
「トラヴィス、今日はナナイシー伯爵にご挨拶しないといけないわ」
「そうだっけ?」
「ええ、先日お義父様が塩の購入の件でお世話になったとおっしゃっていたでしょう。せっかくお会いできる機会なのだから、トラヴィスからもお礼を言ったほうがいいわ」
「そのほうがいいのかな。ありがとう、リリエッタ」
頭の中に、覚えのある会話がよみがえる。社交界にデビューして間もなくのころだ。トラヴィスはリリエッタの言葉に笑顔でお礼を言ってくれた。
「ねえ、トラヴィス。先日アースワド伯爵から成人のお祝いを送っていただいたでしょう。もうお礼は申し上げた?」
「どうだろう、家に届いたものについては母上がお礼状を送っていると思うけど」
「ええ、そうね。先日お義母さまと一緒にお礼の品とお手紙を手配したわ。でも、お会いする機会があるのだから直接お礼を申し上げましょうよ」
「うん、わかったよ。ありがとう、リリエッタ」
「トラヴィス、今日はグラース侯爵夫妻がお見えなの。この前の舞踏会で、ご子息のトマス様を通してお祝いの言葉をいただいたでしょう。お礼を申し上げながら、挨拶をしておきましょうよ」
「うん、わかったよ」
「夫人が着ていらっしゃる綺麗な紫のドレスはグラース侯爵領の特産品の染料が使われているはずよ。褒めて差し上げてね」
「いつも、助かるよ、リリエッタ。でも、少ししてからでいいかな。僕も挨拶をしたい人がいるんだ。うん、僕だけで大丈夫だから、リリエッタもガイナート伯爵夫人に挨拶してくればいいよ」
いくつもの会話が蘇る。リリエッタはトラヴィスのため、と思っていた。でも、トラヴィスからしたら、余計なお世話だったのだろうか、出しゃばっていると思われていたのだろうか。リリエッタは蘇る会話の間のトラヴィスの表情にリリエッタを厭う気配がなかったかを必死で探した。トラヴィスはいつも笑顔でお礼を言ってくれていた。けれど次第にリリエッタから離れる時間を作るようになった。それはリリエッタの言動がトラヴィスの心を離れさせていったということなのだろうか。
口うるさいばかりだ。
君のように一歩控えて僕に任せてくれれば可愛げもあるのに。
リリエッタなんかより、君と結婚出来ればいいのに。
今まで聞いたことのないようなトラヴィスの声がリフレインする。そして、ゆっくりと顔を寄せ口づけをする二人の姿。
やめて、とリリエッタは首を振った。わたしを見て、とトラヴィスに手を伸ばす。けれど、そんなリリエッタに構わず、二人は長い長い口づけをする。それから、二人してリリエッタを振り返って嗤った。
口うるさい。
可愛げがない。
あんな女と結婚したくない。
わたしがいけなかったの。わたしがもっとトラヴィスを思いやっていればよかったの。リリエッタは泣きながら自分を責めた。そして、やめて、やめてと泣き叫んで、リリエッタははっと目を覚ました。
「……」
やめて、と口にしたはずの言葉は声にならず消えた。
見慣れたベッドの中で、リリエッタは身体を起こした。日は高く昇っていて、たくさん汗をかいたのか寝衣がしとどに濡れていた。喉の渇きを感じてリリエッタはメイドを呼ぼうとした。
「……」
声が、でなかった。
なんでだろう、不思議に思いながらもう一度声を出そうとしても、かすれた音すらも発せなかった。
リリエッタは怖くなって、喉を押さえた。そしてもう一度今度はできるだけ大声で叫ぼうとして、静かなままの部屋に身を震わせた。
ベッドサイドに置いてあるベルに腕を伸ばそうとして、今度は関節の痛みに気づく。自分の体に何が起こっているのか分からないまま、ようやくベルを鳴らすと、すぐにリリエッタ付きの侍女のアメリアが飛び込んできた。
「リリエッタ様、お目覚めになったのですね、ああ、良かった。熱が上がられて丸一日お目覚めにならなかったのですよ。お具合はいかがですか?」
失礼します、と言いながらリリエッタの額に手を当て熱が下がったことを確認したあとで、ようやくアメリアはリリエッタが返事をしないことを不審に思ったようだった。
「リリエッタ様? どうかなされましたか?」
リリエッタは自分の喉を指さして首を振ると「声がでない」と唇を動かした。首をかしげるアメリアにもう一度同じ仕草を繰り返す。
「声がでないのですか?」
頷くと、アメリアは顔色を変えて、「奥様を呼んで参ります」と言うと部屋を飛び出していった。
慌ててやってきたレスター侯爵夫妻は、声のでないリリエッタに顔色を失くした。
「リリエッタ、なんてこと……」
侯爵夫人が呟くように言うと、ベッドの上で半身を起こしたリリエッタを強く抱きしめた。その二人の横でレスター侯爵が顔色を失ったまま立ち尽くしていた。
遅れて医師がやってくると、リリエッタの診察を行い、身体的には問題がみられないこと、声が出ないのは精神的な問題が原因だという診断が下された。精神的な負担を取り除き、心を休めることで回復も見込めるのではないか、と幼いころからのリリエッタを知る医師はつらそうな声で告げた。
「あの小僧、許さん……」
レスター侯爵がポツリと怒りに震える声をこぼした。
リリエッタとトラヴィスの婚約が破棄されたのはそれからすぐのことだった。
もともと、ここ二月ほどのトラヴィスのリリエッタをないがしろにした行動をレスター侯爵はすべて把握していた。それでも婚約破棄に踏み切らなかったのは、ひとえにリリエッタがトラヴィスとの結婚を望んでいたからだった。態度を改めるのであれば婚約が継続する可能性もあったが、天秤は日々婚約解消へと傾く中での出来事であったのだ。
リリエッタの声が出なくなった日、レスター侯爵はすぐにガイナード伯爵邸に使いを出し、あの日舞踏会で何が起こったのかを問うた。リリエッタの状況を知ったマリアは、自分の知っていることを伝え、公爵家の人間が証言することが出来る、という言質まで与えたのだった。事の次第を知った侯爵はすぐさまサーキン伯爵夫妻とトラヴィスを呼び寄せ、トラヴィス有責での婚約破棄とサーキン伯爵家に対する措置を宣告したのだった。
どのようなやりとりがあったのかをリリエッタは知らない。貴族の娘として、声が出ないことは大きな瑕疵だ。それをわざわざサーキン伯爵家に知らせる必要はないため、リリエッタは同席しなかったのだ。ただ思いのほか短い時間のあと、うつむいたトラヴィスが項垂れた両親に腕を引かれるようにして玄関を出ていく姿だけを、玄関ホールを見下ろす二階の回廊の端からひっそりと見送った。六年にもわたる長い婚約期間の終わりはそんなあっけないものだった。




