3 トラヴィスとの出会い
ロドリックが先触れを出していたのか、馬車が玄関前につくと、リリエッタの両親であるレスター侯爵夫妻が出迎えに来ていた。
国に四つある公爵家のうち三つは建国に貢献した一人の賢者と二人の勇者の血を引き継ぐものと言われており、貴族のなかでも特別な存在である。マリアはそのうちの勇者アストリーの血を引くティアニー公爵家の一人娘なのだ。
リリエッタとマリアが親しいことは知ってはいたものの、婚約者と共に舞踏会に行った娘が、マリアに送られてきたことで、レスター侯爵は何事かがあったことを悟ったようだった。
ロドリックの手を借りてリリエッタが馬車を降りると、青ざめた顔をした娘をレスター侯爵夫人が抱きしめた。そのあとで、馬車から降りたマリアとロドリックに、レスター侯爵が丁重に頭を下げる。
「ガイナード伯、夫人も、わざわざ娘をお送りいただきましてありがとうございます。よろしければ中にお入りください。お茶でも飲みながら、少しお話を」
娘に何があったのか、を問おうとする父親の言葉に、リリエッタはマリアを見て小さく首を振った。今日の話を聞いたら、レスター侯爵はすぐに婚約解消に向けて動くだろう。トラヴィスの家はレスター侯爵の家門に属する伯爵家で、二人の結婚には深い政略の意味はない。二人の互いへの好意が前提になった婚約なのだ。レスター侯爵からすれば、みじんもためらうものではない。けれど、リリエッタにはまだためらいがあった。
今だけ、ほんの少しだけおかしくなっているだけなの。少しすれば昔のようなトラヴィスに戻ってくれるはず。ずっと、そう考えてかすかな希望を持っていた。けれど、今はもうそう考えることもできなかった。かといって、すぐに終わりにするには、トラヴィスのことを好きでいた期間が長すぎた。
「恐れ入ります、レスター侯爵。まだ話すわけにはいかないようです」
「ですが、私はわが娘が辛い思いをするのは耐えられないのです。そのためには今夜起こったことは知っておかなければならないと考えているのですよ」
「ええ、もちろん。リリエッタの友人として、わたくしもそう思います。ただ、まだリリエッタがそれを望まないようですので、わたくしから申し上げることはできませんわ」
「そうなのか、リリエッタ」
振り向いた父親に問いかけられて、リリエッタは頷いた。
「ごめんなさい、お父様。マリアもごめんなさい。今すぐには決められないの」
レスター侯爵は眉をひそめ、それでも渋々頷いた。
「リリ、あなたがどうしたら幸せになれるのか、よく考えて。わたくしでよければいつでも相談に乗るわ」
そう言って手を広げたマリアにリリエッタは駆け寄って抱擁した。
「大好きよ、リリ。いつもそれを覚えていてね」
「わたくしも大好き。マリア、いつもありがとう」
リリエッタを力づけてくれるマリアの優しさが嬉しかった。それでも、すぐに心はトラヴィスから放たれた冷たい言葉に飛んで、何度も傷がえぐられる。それでも、優しいマリアをこれ以上心配させてはいけないと、リリエッタはなるべく自然に見えるように微笑んだ。マリアはリリエッタを励ますようにもう一度力をこめて抱擁すると、ロドリックと共に帰っていった。
「リリエッタ、トラ……」
「リリ。お父様がおっしゃったように、わたくしたちはあなたにつらい思いをしてほしくないのよ。それだけは覚えていてね」
夫の言葉を遮ってレスター侯爵夫人は言うと、マリアと同じようにリリエッタを抱擁した。安心する母のにおいに包まれて、リリエッタはこくりと頷いた。
「ありがとうございます、お母様。お父様も。心配かけてごめんなさい。今日はもう休みます。少し、一人で考えたいのです」
「ええ、そうね。疲れたでしょう、ゆっくりおやすみなさい」
「はい、おやすみなさいませ」
リリエッタは挨拶をすると、部屋に戻った。ドレスを脱がせてもらい、寝る準備を整えると早々に侍女たちも下がらせた。
そして、一人寝室のベッドの上に座ると、ぽとりと涙が落ちた。
好きだったのだ。だから、トラヴィスを助けたくてたくさんの努力をした。そうした日々のなかでリリエッタにもトラヴィスに対する不満がなかったとは言えない。それでも好きだったから、そんな不満からは目をそらしてきた。けれど、トラヴィスはリリエッタに対する不満のほうが好きという気持ちよりも大きくなってしまったのだ。
「リリエッタなんかより、君と結婚できたらいいのに」
トラヴィスにはもうリリエッタよりも好きな人がいるのだ。リリエッタにはしない口づけをするほど好きな人が。涙がぽろぽろとこぼれて寝衣をぬらす。リリエッタは膝を抱えて嗚咽をもらした。
トラヴィスはレスター侯爵家の家門のひとつサーキン伯爵家の嫡男だ。サーキン伯爵領はレスター侯爵領の隣に位置し、先々代のレスター侯爵とサーキン伯爵が特に親しくしていたために、家門の中でも密な関係を保っていた。
リリエッタが初めてトラヴィスと会ったのは、二人が八歳になった年に、トラヴィスがリリエッタの三つ年上の兄、エリオットの学友候補としてレスター侯爵家を訪れたときだった。
「あなたは誰? 一人で何をしているの?」
ぼんやりと庭の花に視線を送っていたトラヴィスをリリエッタが見つけた。しばらくしてもそのまま動こうとしない見知らぬ少年を見かねて、本当は人見知りのはずのリリエッタが声をかけたのだ。トラヴィスは困ったように眉を下げた。
「僕はサーキン伯家のトラヴィス・ブルームだよ。今までエリオット様と一緒にいたんだけど、もう両親のところへ戻っていいと言われたんだ。でも、あまりに早くエリオット様がいなくなっちゃったから、戻りにくくって。どうしたらいいのかと思っていたんだ」
「することがないのでしたら、お庭を案内して差しあげましょうか?」
途方にくれたようなトラヴィスの顔に、子供ながらに放っておけないと感じリリエッタは思わず提案していた。
「いいの? 助かるよ。それで、君は誰?」
「わたしはリリエッタ・ラングストン。エリオットお兄様の妹です」
「君がリリエッタ様? レスター侯爵家のご令嬢の?」
リリエッタが頷くと、トラヴィスは照れたように頭を搔いた。
「すみません、言葉遣いを間違えました。母上には内緒にしておいてください。また怒られてしまうから」
「まあ」
「でも、助かります。ありがとうございます」
にっこりと笑って手を差し出された。思わず吹き出して、笑いながらリリエッタはその手に自分の手を重ねた。なんて素直な人なんだろうというのが最初の印象だった。
そのあと、リリエッタはレスター侯爵邸自慢の庭を案内して、最後にサーキン伯爵夫妻が待つ応接間にトラヴィスを連れて行った。
「リリエッタ様。今日はありがとうございます。僕はリリエッタ様にお会いできて嬉しかったです」
「エリオットお兄様ではなくて?」
「うん、リリエッタ様はお庭のこといろいろ教えてくれてとても楽しかったから」
エリオットはとても優秀で、兄妹がそろって誰かと会うときはまず兄が褒められるのが決まりだった。リリエッタも兄の優秀さは誇らしかったけれども、それでもいつも少しの寂しさを感じていた。トラヴィスの言葉はそんなリリエッタの心にすっと入り込んだのだった。
それから、時折トラヴィスはサーキン伯に連れられて、侯爵家を訪れるようになった。エリオットの学友という話は無くなったものの、リリエッタの遊び相手として認められたのだった。
トラヴィスはいつも楽しそうに相槌を打ってリリエッタの話を聞いてくれた。また、少々のんびりした子供のようで、一緒に本を読んでいても、互いに最近学んだことの話しをしていても、すぐに理解することができないようなこともあった。そんな時、リリエッタが根気よく説明すると、目を見開いて「ありがとう、リリエッタ」「リリエッタはすごいね」と言ってくれた。リリエッタはわたしが助けてあげなくちゃ、と思った。それが幼い恋の始まりだった。
そんな風に過ごすうちに二人は十歳になった。そのころ、サーキン伯爵家から、リリエッタにトラヴィスとの結婚の打診があった。
トラヴィスの少々のんびりとした気質はサーキン伯爵も気付いており、リリエッタに支えてほしいと考えたからだ。家門の長の娘を嫁に得ることで安泰を願うという打算もあっただろう。もう少し年を重ね、リリエッタに多くの求婚者が現れることを恐れたサーキン伯爵が、先んじて願い出たのだった。
レスター侯爵家にしても、すでに兄のエリオットも別の侯爵家の令嬢と婚約をしていたことや、トラヴィスといることで、リリエッタが積極的になったこと、二人の仲がよいこと、格下ではあるものの家門の家に嫁ぐのであれば苦労も少ないだろうことなどから、返事はリリエッタの意向に任せられた。
「トラヴィス、結婚の話だけれど、あなたはどう思っているの?」
結婚の申し入れがあってから、幾度か顔を会わせても何も言わないトラヴィスに焦れて、ついにリリエッタは自分からそう言った。トラヴィスは照れたように笑った。
「僕はリリエッタが結婚してくれたらいいなと思っているよ。だって、リリエッタはいつも僕を助けてくれるから」
「私があなたを助けるから? 結婚したい理由はそれだけ?」
母や乳母の話や、何度も読んでいる恋物語の主人公のように、旦那様になる人から求婚してもらうことは、リリエッタの憧れであった。それとはずいぶんかけ離れたトラヴィスの態度に、思わずリリエッタは問いを重ねた。
「違うよ、君のそういうところが好きだからだよ。そういう助け合える家族になりたいと思っているんだ。だから、リリエッタ、僕と結婚してくれる?」
慌てたように早口でトラヴィスが言った。
不満を感じながら、それでも本人の口から結婚を申し込まれたことに喜びがこみ上げてリリエッタは迷わず頷いた。それはトラヴィスが好きだからだ。
恋は見るべきものを見失わせることがある。