番外 元伯爵子息 トラヴィスの願い
「トラヴィス、あなたって本当にばかね。いつも控えめで、つまらないあなたの話も笑顔で聞いてくれる女なんているわけないじゃない。まだ気づいていなかったの?」
あろうことか王宮での舞踏会で、エリカがリリエッタを連れ出して男たちに暴行させようとした。
なんとか問題が起こる前に止めることができたが、エリカと共にトラヴィスも捕らえられ、両親たちと共に王宮の一室に連れてこられたのだった。
レスター侯爵やアルバーン伯爵、リリエッタの前でエリカのしたことが明かされ、そこで無礼にもエリカが反論をした。それを止めたトラヴィスに視線を向けると、エリカはせせら笑ったのだった。
カルキン子爵家で、生活を共にするようになってから、エリカの性格の変化を感じてはいたものの、はっきりと口にされて、ようやくこれまでのエリカの態度が自分を射止めるための演技だったということをトラヴィスは悟った。
社交界にでてから、いつのまにかリリエッタの存在をわずらわしく思うようになっていた。リリエッタがいるから自分が認めてもらえないのだと。しかし、よく考えれば、リリエッタの助けを望んだのはトラヴィス自身だったのだ。幼いころから、困ったときはいつでもリリエッタに頼れば、リリエッタが助けてくれた。
いつもトラヴィスの話を聞いてくれるリリエッタを好きだったし、リリエッタを妻にすることで得られるものも分かっていたから、婚約を解消しエリカを選ぶつもりなど毛頭なかった。ただリリエッタに対する不満にエリカが同調してくれ、トラヴィスが立派な貴族の男だと口に出してほめてくれたから、それに甘えただけなのだ。きちんと自信をもてるまで、結婚までのことだから、それくらいのことは許されると考えていたのだ。
それなのに今は、リリエッタも伯爵となる未来も失い、隣にいるのは、トラヴィスへの気持ちもなければ品位もない、欲張りなだけの女だった。こんな女のために、こんな女の表面だけの甘い言葉のために。
目先のことばかりに目を奪われ、楽なことにばかり流され、本当に大切なことを見失っていた自分の愚かさにトラヴィスはようやく気が付いたのだった。
「本当に申し訳ありませんでした。リリエッタ嬢にもお詫びします。これまでの僕の行動も、今回彼女がしてしまったことも」
前回、リリエッタと会ったときはまだ夢のなかにいた。自分の行動が自分の未来を変えたことをきちんと考えることができず、ただリリエッタに助けを求めれば、すべてが元通りになると思っていた。しかし、ようやく自分が何をしたのか、何を失くしたのかを理解した。そのすべての原因が自分にあることも。
トラヴィスはリリエッタの方をむくと、これまでになく真摯な態度で深々と頭を下げた。
自分の行動がリリエッタの美しい声を失わせた。ずっと、その声を本当に綺麗だと思っていた。その声が優しく名前を呼んでくれるのが好きだった。そんなことも忘れていた。
先ほど、リリエッタは恐怖に満ちた声で、助けを求めてトラヴィスの名前を呼んだ。今になって、リリエッタは声を取り戻したのだということに気が付いた。それは多分、今リリエッタの隣にいる男のおかげなのだろう。別格の三大公爵家のひとつ、ラトリッジ公爵家の嫡男。リリエッタの手を当たり前のように握っている男。これからは彼がずっと彼女の側にいるのだと思った。自分ではなく。そのことが身を切られるように辛かった。
「お詫びを受け入れます。助けを呼んでくださったこと、感謝します。どうぞお元気で」
短い沈黙のあと、リリエッタの声が聞こえて、トラヴィスはさらにもう一度深く頭を下げた。涙が出そうだった。多分もう二度と会えない。昔のように優しく名前を呼ぶ声が聴きたかった。しかし、それも二度と叶わないことだと分かっていた。
トラヴィスに用意されたのは、王都に置かれた平民の生活を支える役所での仕事だった。
今までは平民として、下に見てきた人々から仕事を教えられ、その人たちの希望を叶えるための仕事をする。教えられた仕事をすることは、貴族として教育を受けてきたトラヴィスにとってはたやすいことだった。相手が平民であることに多少の屈辱を感じつつも、自分がしたことの結果なのだと考えて真摯に向き合った。
住まいはトラヴィスの仕事先の近くに小さな一軒家を用意されていた。給料は平民の平均よりも高いものであったが、当然貴族のような豊かな生活ができるわけもない。さらに、何もできない二人は、家政婦を雇わざるを得なかったため、生活はそれで精一杯になった。
エリカには救貧院での労働が課せられており、その義務に反することはトラヴィスとカルキン子爵家への罰則につながるため、トラヴィスは早起きして、住まいからは遠い貧民街にある救貧院までエリカを送り、それから仕事場へ行った。むろん、徒歩である。日々薄汚れていく綿のドレスを着なければならないことに文句を言い、救貧院へ行くことを嫌がって泣き喚くエリカを送り届けるだけで、疲れがのしかかった。
エリカは夕方足を引きずって帰ってくると、同じように疲れて仕事から帰ったトラヴィスに、自分が貧しい平民相手にどのような仕事をさせられているか、いかに理不尽な目にあっているのかを訴え続けた。絹のドレスを買え、髪の手入れをする金をくれ、と無理なことばかりを口にして、トラヴィスを責めるばかりで、そこには、互いをいたわる夫婦らしい生活のかけらもありはしなかった。
それでも、そんな暮らしからエリカが逃げ出さなかったのは、それがカルキン子爵家への罰則につながるということが枷になっていたからだろう。
一年がたち、救貧院で働く義務から解放されたある日、エリカはいなくなった。
しばらく前から、他に男がいることをエリカは隠さなかった。「あんたとは違う羽振りのいい男なのよ」と見下したように言うエリカに、危険だと忠告したけれども聞く耳を持たず、その男と結婚したいから離婚してくれとエリカは強引に離婚の手続きを行ったのだった。
そのころ、トラヴィスはそれまでの仕事ぶりが評価され別の仕事に回されて、給料もあがった。
しかし、新しい仕事はそれまでしてきた教わったことを繰り返せばいい定型のものではなく、人々から寄せられた請願をもとに自分で考え対応しなければならないものだった。もともと物事と向き合って深く考えることが苦手なトラヴィスには難しい仕事だった。
うまくいかない仕事にトラヴィスは逃げ出したくなった。けれど、リリエッタを思い出すと、逃げ出すことはできなかった。あのころ、苦手だと逃げ出さずきちんと向き合っていれば、今もリリエッタが隣にいてくれたはずなのだ。大切な、大切なリリエッタを失って得た教訓を忘れ、また同じ失敗を繰り返すわけにはいかなかった。
もともとトラヴィスには人をうまく頼ることのできる愛嬌がある。トラヴィスが一生懸命に仕事と向き合うことで、周囲の人間も相談すれば答えてくれたり、アドバイスをくれたりして、次第に仕事もこなせるようになった。
そうして、生活が安定していくなか、貧民街の近くに貴族出身の売春婦がいるという噂をトラヴィスは耳にした。
その少し前に、エリカから金を無心する手紙が来た。罪悪感に駆られて、一度だけという約束で無理して作ったまとまった金を渡し、生活を立て直すよう言った。しかし、そのあとも幾度か手紙は届き、トラヴィスは、それ以上は応えることができなかった。ああ、ついにそうなってしまったか、と心が痛んだ。一方で、これで彼女が何を言ったとしても、もうリリエッタには傷がつくことはないと安心もした。
貴族としての暮らしを捨てることになった相手なのに、すべてを捨てて救おうとする情すら十分に育めなかったのだと、砂を噛むような思いで、その日、トラヴィスは初めてまずい酒を飲み過ごした。
「そろそろ、新しい嫁をもらったらどうだ?」
平民としての生活を始めて数年たち、トラヴィスを普通の仲間とみなした同僚に問われることがある。仕事と家の往復をするばかりのトラヴィスの生活は、傍からみたらひどく寂しいものなのだろう。
「そうだね、僕でいいと言ってくれる人がいれば」
決まってトラヴィスはそう答える。その時のトラヴィスはいつも誰かを思い出すように優しく、哀しい目になる。貴族だったというトラヴィスの経歴を思い出した人は、この人当たりのいい青年に一体何があったのだろうと考える。トラヴィスは、自分が愚かだったのだ、としか答えないけれど。
「もう十分反省して償っただろう。いい加減自分を許してやれよ」
時折、そう言って励ましてくれる人もいる。
リリエッタを傷つけ、両親を悲しませた。そして、エリカとも添い遂げることができなかった。そんな自分がもう許されていいのだろうか、とトラヴィスは考える。今はまだ、到底そうは思えない。けれど、いつかもう十分だと自分を許せる日が来て欲しいと願った。
その日が来たら、きっと。




