2 裏切った人なのに
「リリエッタなんかより、君と結婚できたらいいのに」
リリエッタは漏れそうな声を両手で必死に抑えた。その拍子に手に持っていた扇が床に落ちて高い音を立てた。
「誰かいるの?」
エリカの声が誰何した。
「あら、誰もいないわ。なにか落ちた音がしたんだけど」
「エリカ、大丈夫? 本当に誰にも見られていないね」
「見られたって構わない。むしろ、見られたほうがいいわ。そしたら、トラヴィスは私と結婚できるでしょう。私があなたを嫌な結婚から救ってあげられるもの」
「それはそうだけどさ……」
二人の会話がリリエッタの耳を通りすぎていく。
いつのまにかあふれていた涙が頬を濡らしていた。それでも嗚咽が漏れないようにリリエッタは必死で声をこらえた。
先刻、扇を落とした瞬間にリリエッタは隠れていた柱の陰から腕を引かれて、少し離れた柱の陰に押し込まれた。時間をおいてさらに場所を移動すると、
「大丈夫ですか?」
ためらいがちに男の声が尋ねた。
トラヴィスとあの少女に見つからないように誰かが助けてくれたのだということは分かった。けれど、リリエッタは胸がいっぱいで、なにも答えることが出来なかった。
「すみません、わ、わたくし……」
「大丈夫です。誰にも見られていません。今、お友達のマリア嬢を呼びにやっています。彼女がくればあなたも心強いでしょう」
「あの、あなたは……」
優しい声がゆっくりと告げる。相手を見返そうとしたリリエッタの目元がハンカチで隠された。
「私のことは心配しないでください。誓ってあなたの悪いようにはしませんから」
「ですが」
返そうとしたハンカチが再び目元に押し付けられた。
「どうぞ使ってください。私は向こうを向いていますから」
少し、相手の気配が遠のいた。言葉の通りリリエッタを見ないようにしてくれたのだろう。多分、二人の会話を耳にして三人の関係に見当をつけたのだろう、とリリエッタは思った。見知らぬ人でさえこんなに優しいのに、トラヴィスはなぜあんなにひどいことを言うのだろう。
口うるさいばかりだ。
リリエッタなんかより、君と結婚出来たらいいのに。
トラヴィスはリリエッタを嫌いになってしまったのだろうか。リリエッタのことなどもういらないということだろうか。聞いたばかりのトラヴィスの言葉が刃となってリリエッタの心を傷つける。リリエッタは崩れ落ちるようにしゃがみこむと、できるだけ小さく体を丸めた。消えてしまいたいと思った。
「……リリ」
人の気配がして、慌てて立ち上がると、小さな声が名前を呼んで、ぬくもりがリリエッタを包み込んだ。
「マリア、マリア。トラヴィスが……」
「あんな馬鹿な男、放っておけばいいの。わたくしのリリはあんな男にはもったいないわ」
いつも通り自信にあふれた、けれど優しい親友の声を聞いて、リリエッタの顔がふにゃりとゆがんだ。ぎゅうっとさらに強く抱きしめられた。あなたの味方はここにいる、というように。そして、リリエッタが泣き止むと、マリアはリリエッタを抱えるようにして、控室に移動した。控室にはマリアの侍女がいて、リリエッタの目元を冷やし化粧を直してくれる。その間、部屋を離れていたマリアだが、戻ってきたときは怒りのオーラに包まれていた。
「事情は聴いたわ。あの馬鹿男」
どうやら部屋の外で、ことの経緯を聞いてきたらしい。マリアは柳眉を逆立ててトラヴィスへの怒りの言葉をまき散らした。
「マリア、ごめんなさい。心配をかけて。でも、どうしたらいいのか。今は彼女が気になっていても、結婚すれば気持ちも落ち着くと思っていたのに……。わたくし、口うるさい女と思われて嫌われていたの」
「リリが嫌われるわけないじゃない。あれはね、あいつの嫉妬よ。自分よりできのいいリリをねたんでいるだけなの」
「でも、わたくしより、あの子爵家のご令嬢と結婚したいとはっきり言ったの。それに……」
二人は口づけをしていたと、口に出すことができず、リリエッタは口を引き結んだ。二人の姿を思い出すだけで、涙があふれそうだった。誰にみられるか分からない舞踏会でこれ以上無様な姿をみせるわけにはいかないのに。
「……ごめんなさい、マリア。今日はもう帰るわ」
「そうね、そうなさい。気持ちを落ち着かせて、ご両親ともよく相談するといいわ」
座っていたソファから立ち上がり、リリエッタは気になっていたことをマリアに尋ねた。先ほどの男性はマリアのことを「マリア嬢」と呼んだ。マリアが名前を呼ぶことを許している間柄ならば大丈夫だろうと判断したのだったが、醜聞にもつながることだ。できれば口外しないように頼みたかった。
「あの、マリア。先ほどの方は……」
「ああ、あの方はいいの。大丈夫。リリエッタの不利になるようなことは絶対にしないことはわかっているから安心して」
「でも、わたくしハンカチもお借りしていて」
「もらっておけばいいわ。あと、これもね。渡して頂戴って」
渡されたのは、先ほど落としたリリエッタの扇だった。マリアはそれ以上は話すつもりがないようだったが、マリアがそういうのならば、お礼は改めてすればいい、と考えてリリエッタはマリアと連れ立って控室をでた。
部屋の外にはロドリックが立っていて、リリエッタを見ると心配そうに眉根を寄せた。
「大丈夫かい、リリエッタ嬢?」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。せっかくの舞踏会ですのに」
「そんなことは気にしなくていい。馬車を準備させているから、今日は私たちと一緒に帰ろう」
「ありがとうございます。でも、ご迷惑ではないでしょうか」
「まったくそんなことはないよ。第一、君を一人で帰らせたら、逆にうちのお姫さまのご機嫌が斜めになる。ぜひ、送らせてほしい」
わざと、内緒話のようにしてロドリックが言った。もちろん、その声はマリアに筒抜けだ。マリアが当然という顔で、ロドリックの腕に手を添える。リリエッタの心の負担が少しでも減るように、という優しい心遣いが心にしみた。
「リリエッタ。ようやく見つけた」
そこへ場違いな大声を出して駆け寄ってきたのはトラヴィスだった。
「確か、誰かに挨拶するって言っていただろう。だから探していたんだよ」
悪びれない様子で笑いかけ、手を取ろうとするトラヴィスから、リリエッタは自然と身を引いた。
先ほどのことをおくびにも出さないトラヴィスに今まで感じたことのない恐れを感じたからだ。そして、ふと見れば少し離れたところから、エリカ・カルキンがこちらに視線を送っている姿も目に入った。
「ごめんなさい、トラヴィス。少し体調が悪いから、今日はもう帰りたいの」
「ええ? そうなの、大丈夫かい」
トラヴィスが心配そうにリリエッタの顔を覗き込んだ。けれど、すぐにその目が誰かを探すように視線をさまよわせた。そして、困ったような顔を作った。
「でも、困ったな。僕はまだ用事が残っているんだよね」
マリアの侍女たちが手際よく化粧を直してくれたけれど、まだ目元には泣いた名残があったし、侍女たちが心配するほど顔色は悪いままだった。それなのに、トラヴィスはなにも気づかない。体調が悪いと言ってすら、リリエッタのことをきちんと見てはくれないのだ。
「わたくしのことは気にしないで。あなたは残ってあなたの用事をすませてくださったらいいわ」
「君はどうするんだい。侯爵家の馬車を呼ぼうか?」
「わたくしがお送りするわ」
一緒に参加した婚約者が体調が悪いというのに、送ろうという言葉すら口にしないトラヴィスに、マリアがぴしゃりと言った。途端にトラヴィスが恐縮して遠慮しようとするのに、マリアが言葉を重ねた。
「わたくしの大切なお友達ですもの。リリのことはわたくしが責任をもって送り届けますから安心してちょうだい」
「私も責任を持つよ。安心してくれ。さあ、マリア、馬車の用意ができたようだ。リリエッタ嬢もいいかい?」
ロドリックがわざとほがらかに言って、マリアをエスコートしているのとは反対の手をリリエッタに差し出した。
リリエッタは、目の前にいる婚約者を見た。優しい茶色の瞳、困ったように微笑を浮かべる口元。大好きだった。けれど、今は他の令嬢に口づけをした姿ばかりが思い出された。リリエッタを大好きだと言ってくれたトラヴィスが遠いもののように思えた。
「さようなら、トラヴィス」
思わずこぼれた別れの言葉に、トラヴィスははっとしたような顔をした。
「送れなくてごめん、リリエッタ。近いうちに屋敷に伺うよ。ゆっくり休んでおくれね」
慌てて紡ぎだされた言葉は、思った以上に軽く感じられた。リリエッタは微笑むとロドリックのエスコートに手を委ねた。