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10 さようなら

 植物園の中にいくつか置かれた休憩所を兼ねた四阿の一つ、その中央に置かれた丸い飾り机の一方にリリエッタとアルフレッドが並んで座び、その向かいにトラヴィスが座った。四阿の外ではリリエッタの侍女が、四阿に入ってくる小道の手前ではアルフレッドの従者がそれぞれ周囲に視線を配っていた。


「では、話を聞こうか」


 アルフレッドが口火を切ったが、トラヴィスは不満げだった。


「リリエッタと二人で話をさせていただけないでしょうか」

「トラヴィス卿、君はもうリリエッタ嬢の婚約者ではない。呼び捨てはやめたまえ。そして、私はレスター侯爵から求婚者として認めていただいている。この場で彼女を守るのは私の役目だ」

「リリエッタを傷つけるようなことはしません」

「……君は学習しないのか」


 鋭い視線に射抜かれて、トラヴィスはすぐさま謝罪した。そして、諦めたのか視線をリリエッタに向けた。


「ようやく会えた。ずっと屋敷に閉じ込められていて、君に手紙を送ることもできなかったんだ。ずっと、君に会いたかったんだ。会って謝りたかったんだ。そうすれば、誤解が解けて僕たちの婚約も続けられると思っていたから」


 ひと息に言うと、リリエッタの返事を待つ。けれど、なにも言わないリリエッタに焦ったように言葉を続けた。


「怒っているのかい。でも、誤解なんだよ。彼女は、エリカ・カルキンのことはずっと友達だと思っていて、それが急にせまってきて僕がびっくりしている間にあんなことになって……。だから、悪いのは僕じゃなくて、彼女なんだよ」


 サーキン伯爵家はレスター侯爵家の家門の一つ。そして先々代の侯爵のおかげで特産物を得られたという恩がある。さらに、サーキン伯爵家から強く申し入れた婚約にもかかわらず、引き起こされた不祥事だった。

 

 「そんなに結婚したいならすればよい」という一見寛容なレスター侯爵の言葉で、トラヴィスはエリカ・カルキンと結婚することになっている。ただし、トラヴィスがいる限りサーキン伯爵家とはかかわらない、とレスター侯爵は明言した。それは家門の一つとして得ていた優遇を失うことである。まして、サーキン伯爵領で生み出す特産品の葡萄酒の販路を失うことにもなる。その結果、トラヴィスはカルキン家に婿入りし、サーキン伯爵家は今年八つになるトラヴィスの弟が継ぐこととなった。

 

 さらに言えば、エリカ・カルキンの実家カルキン子爵には後継ぎになるエリカの兄がいるため、トラヴィスはカルキン子爵を継承することもできないのだった。

 エリカの父が爵位にある間は、二人の貴族籍を維持し、もしかしたら生活の面倒も見てくれるだろう。しかし、エリカの兄に代替わりしたらどうなるかはわからない。下位の宮廷貴族の俸給はそれほど高いものではない。

 残された道は、毎年行われる宮廷官吏の試験を受け、それに合格してその仕事につくことだけだ。そうすれば、トラヴィスは自分自身で貴族籍を維持できる。そうでなければ、エリカと共に平民になるしかないのだった。

 そして、トラヴィスでは多分その試験に合格できないであろうことを、皆が分かっていた。トラヴィス本人ですら。伯爵家の当主となり、優雅に暮らせるはずの未来が一夜にして失われたことに気づき、なんとかして、その未来を取り戻すためにトラヴィスはやってきたのだろう。


 わたくしよりも、あの方と結婚したいとおっしゃっているのを、わたくし確かに聞きましたの。ですから、今回のことはあなたの願いが叶ってよかった、としか申し上げられません。ご結婚が決まっておられるそうですね。おめでとうございます。


 リリエッタはゆっくりと手帳に綴ると、それをトラヴィスに向けて差し出した。

 不審そうに手に取って読み終えるとトラヴィスは激しく首を振った。


「違う、言ってない、いや、言ったかもしれないけど、本心じゃないんだ。今まで、いつも僕を助けてくれたのに、どうして今回は助けてくれないんだ、リリエッタ……嬢」


 身を乗り出して、テーブルに置かれたリリエッタの手を取ろうとするのをアルフレッドが素早い動きで遮った。リリエッタも慌てて手を隠す。少しでも触れられたくなかった。


「ねえ、僕を助けると言ってくれよ。頼むよ、君しかいないんだよ」


 トラヴィスはエリカ・カルキンを選んだ。リリエッタはずっと選ばれなかったことが苦しかった。けれど、簡単に何もかもエリカ・カルキンのせいにしてリリエッタの元に戻ろうとするトラヴィスを見ていたら、そんな悩みすら馬鹿らしいことのように思えた。

 トラヴィスは、ただ自分の自尊心を満たしたかっただけなのだ。リリエッタと結婚すれば、レスター侯爵家の家門の中での地位を高めると共に、伯爵としてすべきことはリリエッタに頼ることができる。自分でそれを望みながら、そうすることで傷つく自尊心を、エリカ・カルキンに慰めてもらうことを求めた。それだけなのだ。


「リリエッタ、ねえ、助けてくれよ」


 泣きそうな顔でトラヴィスは繰り返す。アルフレッドが口を開きかけるのをリリエッタは小さく首を振って止めた。そして、再びペンをとった。


 あなたはご自分のことばかりで、わたくしを気遣ってはくださいませんのね。今回のことで、あなたは多くのものを失ったようですが、わたくしも失ったものがありますの。


「君が、何を? 君はいつだってなんでも持っているじゃないか。今だって、すぐに次の求婚者がいる。いつも君ばかりが褒められて、僕は君のおまけ扱いをされる……」


 そこまで書いてもトラヴィスはやはりリリエッタのことを考えてはくれない。

 自分ばかりが褒められることなど、リリエッタは望んでいなかった。トラヴィスと一緒にサーキン伯爵家を盛り立てていきたいと願っていたのに。リリエッタに頼るばかりで、自分で立とうとしなかったのは誰なのだろう。

 ひとしきり不満を言った後、それでも何も言わないリリエッタに、ふいに気づいたような視線をトラヴィスが向けた。


「……もしかして声がでないの?」


 ようやくだった。

 リリエッタが失ったものは、声。そして、ずっと大切にしてきたトラヴィスへの恋心。


「声が出ないくらい……僕はこれからどうしたら…」


 それでも、まだトラヴィスはすがろうとして、アルフレッドがたまらずこぶしをテーブルに叩きつけた。貴族女性が声を失うことがどのような問題なのか、そこまでは思い至らずとも、さすがにこれ以上はいけないということに気づいたのか、トラヴィスは口をつぐんでうつむいた。

 

 声が出ないくらい。確かにトラヴィスのこれからの日々を思えば、そうなのかもしれない。けれど、自分のしたことが他人にもたらした痛みを思いやることもできない言葉に、リリエッタはもうこれ以上何を言っても仕方がないと思った。

 トラヴィスにリリエッタの気持ちを伝えればよかったのかもしれないと思うこともあったが、もしそれを告げていたとしても、きっとなにも変わらなかっただろう。幾度も繰り返して思い出し、幾度も後悔したトラヴィスとの最後の日々、その後悔をもう必要のないものだと思うことが、ようやくできた。

 さようなら。心で告げ、最後にその一言だけを綴った。


 リリエッタがゆっくりと視線を巡らすと、アルフレッドが立ち上がってリリエッタに手を差し伸べた。


「今日のことはレスター侯爵には話をさせてもらう。またこのようなことがあれば、私が許さない。心に留めておいてくれたまえ」

 

 まだ追いすがろうとするトラヴィスを置いて、二人は四阿を後にした。

 トラヴィスの唸るような泣き声が背後から聞こえてきたけれど、立ち止まりはしなかった。

 四阿に入る小道の陰に、リリエッタもよく知っているトラヴィスの従者が身を縮めて立っていて、リリエッタが通り過ぎるまで、深々と頭を下げ続けていた。


 トラヴィスのための涙はリリエッタにはもうなかった。

 それでも、トラヴィスのこれからを思うとはしゃぐ気持ちにはならず、それをくみ取ったアルフレッドは早々にリリエッタを屋敷まで送り届け、少しの時間侯爵夫人と話をして帰っていった。

 馬車の中で、アルフレッドはトラヴィスとリリエッタのことについて、何も言おうとしなかった。ただリリエッタの手を黙って握っていた。指の長い硬い手だった。そして、温かい手だった。なにも言わずリリエッタに寄り添おうとしてくれる優しさを、そのぬくもりに慰められながらリリエッタは感じ取った。



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