1 裏切り
舞踏会の人ごみの向こうに、リリエッタは婚約者の笑顔を見た。
婚約者の傍らには、肩が触れ合うほどの近さに一人の少女がいて、二人はとても楽しそうに言葉を交わしていた。
「あら、リリエッタ様、今日もまたおひとりね」
「サーキン伯ご令息はあちらで見かけましたわ。また、あの方とご一緒でしたわ」
聞えよがしな声がリリエッタを嘲笑った。くすくすと笑いながら、いつもリリエッタを敵対視する侯爵令嬢とその取り巻きたちが遠ざかっていくのを、リリエッタは頭を上げて見送った。
「リリ、トラヴィス卿は見つかったの?」
聞きなれた声に名前を呼ばれて、リリエッタは我に返った。
振り返ると、親友のマリアがいつものようにガイナード伯爵にエスコートされて近づいてくるところだった。マリアはリリエッタよりも二つ年上のティアニー公爵家の総領娘だ。この国では女性は爵位を継げないため、婿養子のロドリックがティアニー公爵家の持つ儀礼爵位であるガイナード伯爵位を継ぎ、今はガイナード伯爵夫人となっている。次代の公爵夫妻である。すでに社交界で最も美しい花と言われている大輪の薔薇のようなマリアと、背筋のすっと伸びた精悍な風貌のロドリックはとてもお似合いで、いつも自然に寄り添っている二人はリリエッタの憧れのカップルだ。
「……ええ、いたわ。いつものように」
小さい声でリリエッタは答えた。銀の鈴を振るようなリリエッタの声は小さくてもよく通る。
リリエッタの視線を追って、二人もトラヴィスを見つけたようだ。
「また、あの女と一緒にいるの。トラヴィスってなんて馬鹿なのかしら。リリエッタを一人で放っておいて、婚約者がいると知っていて寄ってくるようなあんな女に脂下がっているなんて」
プリプリと棘を出すマリアをロドリックが「言葉が乱れているよ」と窘めた。そして、心配そうな顔でリリエッタを見た。
「君がそうしてほしければ、私が彼を呼んでくるけれど」
「ありがとうございます、ロドリック様。でも、大丈夫です。きっともうすぐ戻ってきますから」
リリエッタは、自分に言い聞かせるように言った。
リリエッタとトラヴィスは共に十六歳で、社交シーズンの幕開けとなる王室主催の舞踏会で社交界にデビューした。トラヴィスは初め、リリエッタから片時も離れなかったが、一通り家同士の交流のある人々との挨拶が終わり、社交界に馴染み始めたころから、リリエッタのそばを離れるようになった。今では、双方の親が来ていない舞踏会などではファーストダンスが終わると、リリエッタを放置して別の少女と話し込むことがよくある。
リリエッタが、そんなことをしないでほしいと言ったこともあるけれど、トラヴィスは知り合いと二人で話しているだけでリリエッタが心配することはなにもない、と表面的な笑顔を浮かべるばかりで態度を改めようとはしなかった。そして、それ以上言おうとするとむっとしたように口をとざしてしまうのだ。そんなトラヴィスの行動は少しずつ人の目につくようになり、同情を込めて向けられる視線は少しずつリリエッタを傷つけた。
「顔色が悪いわ、リリ。ちゃんと眠れているの?」
「ええ、心配してくれてありがとう」
「しばらく社交は休んで家でゆっくりしたほうがいいのではなくて」
「でも、初めて社交界に出た年だもの、まだ、トラヴィスと一緒にご挨拶していない方もいるの。それに、トラヴィスが今日のような大きい舞踏会にはできるだけ参加したいと言うから」
元々は人の顔を覚えることが苦手で社交界にも出たがらなかったトラヴィスが、舞踏会に行きたいと言いはじめた理由は、今一緒にいるあの少女にあることは間違いなかった。
そんなことを考え、実際は眠れない日々が続いていた。眠ろうとすると、トラヴィスがいつもの少女と笑いあう姿が脳裏に浮かんできて、結局、明け方に疲れ切ってようやく眠れるのだった。それも二人の夢を見て、じきに目を覚ましてしまう。もともとリリエッタは華奢だったが、ますます細くなって誂えたドレスも直さなければいけないようなこともあった。
「いい加減ご両親に話したほうが良いわ。政略結婚でもないのだし、婚約者をないがしろにするような男と結婚する必要なんてないと思うわ」
「マリア……」
「だって、そうでしょう。リリがいなければ一人で社交などできないくせに。伯爵家らしい品位を保って社交をできているのはリリが支えているからじゃない」
「わたくしはわたくしができることをしているだけだもの」
「リリがそうやって甘やかすから。みんな分かっているのだから本人にもそろそろ自覚させるべきだわ」
「マリア、そんなこと言わないで。トラヴィスが聞いたら傷つくわ」
「リリエッタ嬢、彼らが出ていくようだ」
ロドリックがためらいがちに口を挟んだ。
慌ててトラヴィスがいたところへ目を向ければ、トラヴィスと少女が手を取り合うようにして舞踏会の会場である大広間から出ていこうとするところだった。
さすがに他の女性と二人きりで会場から姿を消すなど、目をつぶってはいられない。
「わたくし、行くわ。マリア、またあとで……」
「リリ、わたくしたちも一緒に行くわ」
マリアがそう言ってくれたが、リリエッタは小さく頭を振った。マリアと一緒に行けば、またトラヴィスは不機嫌になるだろう。
「一人で行けるわ」
リリエッタはドレスをさばいて足早にトラヴィスの後を追いかけた。
二人の出た扉の先は広い通路になっていて、異国の意匠をこらした太い柱が等間隔で立ち並んでいた。
その柱の向こうの壁沿いに長椅子が並べられていて、休憩ができるようになっている。
リリエッタが視線を巡らせると、その一つにトラヴィスと少女が身を寄せ合うようにして座っていた。
茶色の髪にこげ茶色の瞳、優し気な顔立ちをしたトラヴィスがにこにこと少女に笑いかけている。ふんわりとしたピンクゴールドの髪が特徴的な、可愛らしいが控えめな印象の少女も、同じようにトラヴィスに無邪気な笑顔を向けていた。
ただの知り合いのはずの少女に向ける笑顔が自分に向けられるものよりも優しい。感情を隠すのが苦手なトラヴィスはこんなところにも本当の気持ちを表している、と思うとリリエッタの胸が痛んだ。
少女の名前はエリカ・カルキン。子爵家のご令嬢で、年齢はリリエッタたちと同じ十六歳。やはりこの春に社交界にデビューしたばかり。リリエッタは挨拶をしたことがないけれど、トラヴィスが親しくするようになってすぐに少女の情報は耳に入った。
リリエッタとトラヴィスの婚約は正式に発表されているし、婚約者のいる異性とは一定の距離を保つことは社交界に出る年齢の者であれば当然知っているはずだ。まして、リリエッタは格上の侯爵家の娘なのだが、トラヴィスも彼女もまったく気にも留めていないようだった。
二人に声をかけようと近づいていくと、ふと自分の名前が耳に入って、リリエッタは慌てて二人が座っている長椅子の近くの柱に身を隠した。
「リリエッタ様を放っておいていいの?」
「ああ、あいつは俺がいなくても大丈夫だからさ」
「そんな言い方をするなんてひどいわ。リリエッタ様はいつもトラヴィスのために一生懸命なのに」
挨拶もしたことのない少女がリリエッタの名を呼んだ。そして、トラヴィスの名も親し気に呼び捨てにする。
「あれは僕のためではなくて、自分をよく見せるために一生懸命なのさ。今日は誰に挨拶をする、明日は誰に挨拶をしなきゃならないってやいやい言われてさ。挙句に挨拶に行く前には相手がだれでどんな趣味を持ってるか、なんてことをあのよく通る声で囁き続けるんだ。おかげで僕一人では満足に社交もできないと言われてしまう」
聞いたこともない嫌悪感の込められた声が、聞いたこともない蓮葉な口調でリリエッタのことを「あれ」と呼んだ。
リリエッタは柱の陰でこぼれてしまいそうな声をこらえた。
幼いころ、互いに助け合ってずっと一緒にいようね、と約束した。貴族名鑑や人の顔を覚えるのが苦手なトラヴィスを助けるために、トラヴィスが伯爵家を継いだ時に堂々としていられるようにという思いでやっていたことがこのように思われているなんて。社交界にデヴューしてすぐのころは「助かるよ、ありがとう」と言ってくれたのに。
「リリエッタ様のお声はよく通るものね」
「そう、昔は綺麗な声だと褒めたこともあったけど、こうなるとうるさいばかりだ」
「先日のダービー男爵家の舞踏会でも、トラヴィスは見事に社交をしてましたもの。リリエッタ様もトラヴィスを尊重してくださればよいのに」
ダービー男爵家の舞踏会などは、リリエッタは聞いたことがない。それにトラヴィスは行ったのだろうか。婚約者であるリリエッタを置いて、カルキン子爵令嬢と二人で。扇を持つ手にきゅっと力が入った。
男爵家の舞踏会でトラヴィスが社交で苦労しないのは当然だ。高位貴族のトラヴィスはその舞踏会では最も爵位が高いはずで、気を使われるのが当然だからだ。一方で高位貴族も参加する舞踏会では、高位貴族で最も爵位の低いトラヴィスは周囲に配慮をしなければいけない立場だ。トラヴィスはそんなことも気づかないのだろうか。
「本当だよ。君のように一歩控えて僕に任せてくれれば可愛げもあるのにな」
「まあひどい。そんなことをおっしゃったらリリエッタ様がお可哀想」
「でも、本当のことだ。澄ました顔で口うるさいばかり。彼女がこんな風になるなんて知っていたら婚約なんてしなかったのに」
「まあ、では私がもっと前にトラヴィスと出会っていれば私をお嫁さんにしてくれた?」
「もちろんだよ、可愛いエリカ」
トラヴィスの手が、エリカの手を握り締めるのが見えた。互いの胸の前で手を取り合って二人は見つめあった。何事か聞こえないほどの声で囁き合ったあと、トラヴィスがエリカに顔を寄せ、ゆっくりと口づけた。口づけが終わると、トラヴィスは感極まったように、言った。
「リリエッタなんかより、君と結婚できたらいいのに」