その三
「坂東先生、ひょっとすると一歩前進かもしれませんよ。ごらんなさい――」
行きがけに持って出た懐中電灯の明かりを、真樹啓介がざらついた歩道の上へと向ける。坂東医師はおそるおそる光の輪の先を覗き込み、おやと声を上げた。
「子供がよくやる、ケンケンの輪ですね」
ロウ石で描いた白くか細い円の行列を、坂東医師は眼鏡を直しながら覗き込む。
「その通り。しかし、子供だからこそやらない、こんなことがあるのはどうにも気にかかるんです。――ほら、置きっぱなしでしょう」
「あ!」
そうやって真樹が明かりが動かした先に、坂東医師は意外なものを発見した。鉛筆を二回りほど細くしたような、ぬめった色味の蝋石である。
「ポケットに入れていたおもちゃとか小銭が不意に落ちたならともかく、最前まで遊ぶために使っていた道具を忘れるっていうのはちょっとおかしい。もしかすると、ここで遊んでいるときに何かがあったのかもしれませんよ」
腕を組んだまま、懐中電灯の光を向ける真樹の神妙な面持ちに、坂東医師は背筋を冷たいものが伝うのを感じた。
「――真樹さん、これは一度、消防団の人たちに伝えた方がいいかもしれません。場合によっては人手が……」
ほんの一瞬、坂東医師が向かいの歩道にいた法被姿の方へ目をくれたその時だった。路面を小突く下駄の歯の音に続いて、何かがアスファルトへ転げる音に振り返ると、最前までいたはずの真樹啓介の姿がどこにも見当たらない。ただ、落ちたはずみにヒビの入った懐中電灯が、蝋石の輪を不気味に照らしているばかりである。
「ま、真樹さん!」
思いがけず響いた坂東医師の声に、対岸の消防団の数人がわらわらと寄ってくる。ひとまず冷静に事情を打ち明けると、大の大人の顔がだんだんと青くなってゆくのが坂東医師にもわかった。
「冗談じゃない、子供だけじゃなくて、古本屋の真樹さんまで消えちまったなんて……」
「なんかあった時に、っていうんで、無理を承知で真珠堂さんを補給所にしたんだぜ。これじゃどうしろっていうんだよっ」
焦る消防団の面々を前に、坂東医師は策士の不在を少なからず呪った。
「坂東先生、真樹さんがいなくなる前に、なんか変なことがなかったですか」
「変なこと、ですか?」
熊のような髭を生やした中年男の問いかけに、坂東医師はここまでの経緯を逆向きに思い起こした。真樹がいなくなる――その前に懐中電灯が落ちる――下駄の歯を打ち鳴らすような音がする――。
「そうだ、そういえば下駄の音がしましたよ。急いで出た時に履いていったやつが、小気味よくカン、カンと……」
ちょうど足元に円のあったのを幸いと、坂東医師は子供のように片足立ちで二、三度飛び上がった。と、その時であった。
暗がりに慣れた両の目を潰さんばかりのまばゆい光が、声を上げる間もなく視界を奪ってしまった。やがて、足元のふわりと浮かぶような感覚とともに、坂東医師の体はそっと、宙を舞う羽のように下へ下へと沈み込んでゆくのだった――。