その二
都合三回の勝負がすべて自身の勝利で済むと、坂東医師は悠々たる足取りでホテルを出た。そして、駅前の市電乗り場とタクシーロータリーを見るうちに、
「そうだ、ひとつ真樹さんにも話を通しておかないと……」
と、真珠堂との距離がさほどないのを思い出し、よく磨かれた革靴の先を真樹の店へと向けたのだった。数分ほど歩き、大きな遮断機のある踏切を超えると、坂東医師は新幹線の高架下に古書店・真珠堂の古ぼけた外壁を見出した。軒先ではいつものように、エプロン姿のアルバイト・陰山蛍が棚へはたきをかけている。
「こんにちは。真樹さんはいらっしゃいますか?」
「あ、坂東先生。いつもどうも……」
耳にかかった髪を軽く直しながら、店のマスコットである女子大生、蛍は坂東医師にお辞儀をする。
「いますけど、今あんまり機嫌がよくないんですよ。珍しく甥御さんが来てましてね」
「あ、それはまた……」
評判を知っているだけに、二人の表情は冴えない。ともかく、用事だけは果たそうと中へ入ると、真樹啓介は助けが来た、と言いたげな表情で、
「やぁ、坂東先生」
と、声をかけてきた。
「おい新司、焼き鳥ばっかり食べてないであいさつしたらどうだ」
三分刈り頭の少年、羽佐間新司は真樹に促され、のそりと頭を下げる。
「――いつも叔父がお世話になってます」
「そうじゃなくってなぁ……」
頬についた焼き鳥のタレを指で拭いながらあいさつをする甥に、真樹は苦い顔を覗かせる。一方、このやりとりに慣れていた坂東医師はそんなことなど気にもせず、悠々たる調子で二人のそばへ腰を下ろした。
「久しぶりだね、新司くん。学校の方はどうだい?」
「相変わらずですね。で、こうやってたまに啓介兄さんとこに来て、焼き鳥を食べるわけでして……」
そう言って四本目、塩の効いたハツへ手を伸ばそうとした新司だったが、真樹の食らわせたデコピンでそれは阻止されてしまった。
「ひどいなぁ兄さん、まだ四本目だぜ」
「馬鹿、お前が夕飯食えなくなると、オレが姉貴に叱られるんだっ。――どうもすいません、御見苦しいところをご覧に入れて」
新司の額が硬かったのか、真樹は人差し指へ吐息をあてながら詫びる。そこへ、はたき掛けの済んだ蛍が戻り、ちゃぶ台を囲む人数は一挙に膨れ上がった。
「あれ、そういえば先生、今日は何のご用事だったんですか?」
コップにお代わりの麦茶を注ぎながら蛍が尋ねてきたので、坂東医師は話を切り出した。
「実はさっき、同業の先生から変わったことを頼まれましてね。ほら真樹さん、前に話した例の買い食いの件……。あれをその先生が、不衛生なヤミの駄菓子屋でもあるんじゃないかと言って問題視してるんですよ。もっとも、肝心の店の居場所がわからないのでは学校側も対応しにくいと思いますが……」
「ヤミの駄菓子屋、ねえ。買い食いする子供の腹痛をそういう風に捉えるというのはいかにもお医者さんらしい発想だ。――新司、駄菓子屋なんかの事情には詳しいほうか?」
叔父の質問に、新司はまあね、と肩をすくめて返す。すかさず、真樹はこの近所に店が出来たような話は知らないかと、一連の経緯も簡単に伝えつつ尋ねたが、
「まさかぁ、この辺に店はないよ。そもそも、あの界隈だと赤ちょうちんとラーメン屋ばっかじゃないか。小学校の通学路って、そういう繁華街は避けるんじゃなかったっけ」
「じゃあやはり、そういう店はないわけか」
「オレはともかく、啓介兄さんもその手の情報を掴んでないならそういうことになるね。だいいち、そんな安売りしてる駄菓子屋があったら、いの一番に駆けつけてるよ」
芳しくない反応に、真樹は力なく、そうだよなぁ、と答えるばかりだった。