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帰り道の誘惑 ~白い提灯のある駄菓子屋~  作者: ウチダ勝晃
第二章 患者続々と……?
4/15

その一

 真樹と酌み交わした酒の効果か、坂東医師の記憶から奇妙な駄菓子屋の一件は薄れつつあった。ところがその矢先、思いもよらない形で坂東医師はその出来事を再認識するに至ったのである。

 それはちょうど、季節外れの曇り空が朝から街を覆いかぶさる、水曜日の正午のことだった。午後からの休診を幸いと、看護師たちを早々返した坂東医師は書斎へ上がり、読みかけの小説の世界へどっぷりと漬かり込んでいた。

 と、主人公が二度目の窮地に追いやられたところで、机の隅に置いたコードレスがけたたましく鳴った。見れば、小さな液晶画面には市内にいる開業医の先輩、とある老医師の名前が載っている。

「はい、坂東です。どうも、ご無沙汰しておりまして……」

 椅子から離れ、立ったまま頭を提げつつ、坂東医師は老医師の用件を聞いた。用事自体は大したものではなく、家の建て替え中で駅前のホテルに引っ込んでいるから、碁の相手でもしてくれないか、ということだった。

 ――たまには顔を出しとかないと、あの人むずがるからなぁ。よし、出かけるとしようか。

 断る理由も見当たらなかったので、坂東医師は簡単に返事をすると、軽い身支度ののち医院を出た。

 老医師・音更の仮住まいは傘岡駅の東口、山を背にした側の高級ホテルだった。フロントで内線を取り次いでもらうと、坂東医師はボーイに案内され、最上階の日当たりの良い部屋へと通された。

「音更先生、しばらくでした」

 部屋へ入ると、坂東医師はカーテンを開いた窓際で、ガウンを羽織って碁盤に向かう老医師へお辞儀をした。髪という髪、顎の髭がすべて白々と染まっている音更医師は、穏やかな老爺、という趣の人物であった。

「すまないね、急に呼び出して……ま、かけなさい。――ボーイさん、すまないがコーヒーと、何か適当にケーキでも見繕って運んできてくれるかい」

 坂東医師の座ったのを見て音更医師が命じると、詰襟の制服を着たボーイはかしこまりました、と一礼ののち部屋を出て行った。

「――リタイヤしたら、ひとつ家も引き払ってこのホテルに住みたいね。家内もなくなってずいぶん経つし、子供らももう手がかからんからなぁ」

「またまたそんなことを……ほかの人がまたからかいますよ」

 白の碁石をもてあそびながら、坂東医師はオールバックに撫でつけた髪を輝かせて言う。対する音更医師も、まったくだな、と肩をすくめて、

「若い連中は、また音更の年寄りの引退詐欺がはじまったと馬鹿にするだろうなぁ。ま、そのくらい、気ままに構えても許されるような、そんな年になってきたということなのじゃろう。さて、どういくかな?」

 盤上に碁石を配置しながら、音更医師は坂東医師へ勝負を持ち掛ける。

「――ひとえに、先生がお元気であればこそ為せる業ですね。さて、こういきますかな」

「ほほう、そう来たか……」

 互いの石が順繰りに置かれ、盤上の格子縞がどんどんと埋まってゆく。将棋に比べると、陣地取りの知能戦といった趣のある碁は、医師に愛好者の多い遊びであった。

「ときに坂東くん、妙なことを聞くがね」

「なんでしょうか?」

 勝負が中盤に差し掛かったころ、坂東医師は音更医師に呼びかけられ、カップを持つ手を宙に止めた。運ばれた銀のコーヒーポットは、もう半分ほどしか残っていない。

「守秘義務に触れるような問いにはならんと思うが、この頃君の医院に食べ過ぎでかつぎこまれてくるような患者はいないかね? 三度の食事ではなくて、買い食いが原因の小学生なんかは……」

 その問いが、坂東医師に先ごろの不思議な患者のことを思い起こさせた。駄菓子屋がないはずの学区で、駄菓子屋での買い食いでお腹を壊したというあの少年のことを、坂東医師は音更医師に打ち明けた。

「――そうか、やはりほかのところにもいたのだな。実はな坂東くん、これと同じような話が、傘岡駅周辺の開業医の間でかなり聞こえてきておるんじゃよ」

「じゃ、まさか先生のところにも?」

 音更医師は黙って顎をしゃくり、そっと黒の碁石を盤上へ置いた。

「なにせ夕飯時の、そろそろ診察終了の時刻になって担ぎ込まれるものだから、わしのような年寄り連中はすっかり参ってしまってな。これくらいなら、朝早くから来て長々と待合室で世間話をしてくるじいさんばあさんたちの方がよほど楽なんだが――」

 それはそれとして、と音更医師は話を続ける。

「問題なのは、その辺りには駄菓子屋がないのに、なぜか子供たちが駄菓子屋で買い食いをした、というところなんだよ。念のために小売業の組合にも問い合わせたが、そんな店はないという返事だった。これがもし、きちんとした衛生管理のなされていない怪しげな店だとしたら、この次は集団食中毒などが起きかねない」

「――たしかに、それはおおごとですね」

 老医師の心配に、坂東医師は自分の見識の浅さを悔いた。終戦直後から高度経済成長期に至るまでは、不衛生な店舗が原因の食中毒というのがずいぶんあったという。そうした時期を知る老練の音更医師の言葉は、重みが違った。

「そこでだ坂東くん。ひとつ君にも、該当学区におけるヤミの駄菓子屋問題解決に手を貸してもらえたらと思うのだが、どうだろうな。近いうちに小学校を訪ねて、先生方とも打ち合わせてみようと思うのだが……」

「なるほど、それで僕をお呼びになったんですね。――さて、ここでどうでしょう」

 話を聞きながら進んでいた囲碁の局面は、面倒ごとを振られたのと対照的に、坂東医師に有利だった。やられたか、と肩を落としながらも、用事の果たせた音更医師は、

「ひとまず、そういうことだからよろしく頼むよ。詳しいことはまた、二、三日ののちに……」

「わかりました。――音更先生、もう一勝負と参りますか?」

 ロイド眼鏡を拭きながら好戦的な表情を覗かせる坂東医師に、老医師はそうしようか……と力なく返すのだった。

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