その三 大団円
二〇二三年の夏以来、だらだらと続いていたお話がいよいよ幕を閉じます。
ひとまず簡単な手続きの相談を済ませると、真樹啓介と坂東医師はそろって真珠堂へと戻った。奥で本の整理をしていた蛍が、小走りに店先へ出てきたのはその直後のことである。
「やあ、どうしたんだい。なにか急な電話でもあったの?」
「いいえ、電話じゃないんですけどね……」
一息つくべく、茶の間のほうへ彼女を戻しながら真樹が問いかける。小さなちゃぶ台を囲んで三人が腰を下ろすと、蛍はおもむろにこんなことを聞いた。
「店長、お知り合いに足の悪いお方がいませんか?」
「足の悪い……?」
最前までジョニー棚橋とやりとりをしていたせいか、真樹の脳裏に、あの日迷い込んだ奇妙な空間の駄菓子屋の、杖をつく青年の姿がちらついた。
……まあ、他人の空似ということもあるけどなぁ。
単なる偶然かもしれない。そう思いながらも真樹は例の青年の風貌や服装を蛍へと伝えてみることにした。すると、
「なんだあ、やっぱり店長のお知り合いだったんですね。数分くらい前にふらっと現れて、言伝を頼まれたんですよ」
「彼、なんて言ってた?」
背格好と服装の一致に驚く真樹へ、蛍が彼の伝言をつたえる。
「『おかげさまでどうにか見つけてもらえましたので、行くべきところへ行きます。もう変な現れ方はしませんから、お連れのお方にもどうぞよろしく……』って」
「見つけてもらえましたので、ねえ……。ほかには何にも?」
「はい、それだけです。古いお友達なんですか? あまり店長と違わない感じの人でしたけど……」
帰り支度を済ませた蛍に、真樹はまあそんなところかな、と曖昧に返しておいた。
蛍の自転車が店の裏から出たのを見届けると、二人分のコーヒーを淹れていた真樹啓介は、どうやら終わったようですね、と力の抜けるような声を上げた。
「そのようですね。しかしまあ、棚橋のおじいさんも律儀な人だ。わざわざあいさつに来るなんて」
スティックシュガーの封を切りながら坂東医師が呟くと、真樹啓介はかぶりを振って、
「いや、あれは棚橋老人じゃありませんよ。蛍ちゃんの伝言が間違っていたことがないのを思えば、おそらく言葉通り、『見つけてもらえた』お礼にやってきたんです」
「見つけてもらえた……といいますのは、どういうわけです真樹さん」
言葉の端に奇妙な含みがあるのを坂東医師は見逃さなかった。それに応えるように、真樹啓介は壁から背をはがし、おそらくこういうわけだと思うんですがね、と前置いて話を始めた。
「一連の騒動の主は棚橋老人の霊魂ではなくて、長らく廃業もされず、かといって商品を仕入れて店を構えるわけでもなかったあの営業許可証の主――駄菓子屋そのものだったと思うんですよ。坂東先生、あの許可証に店の名前がなかったのを覚えていますか」
あの長ったらしい、「傘岡市食品……」と始まる文字列の中に、たしかに店名が入っていなかったことを思い出し、坂東医師はそういえば、と眼鏡を直す。
「もしかすると、組合で管理している元帳には屋号か店主の名前が記載されていたのかもしれませんがね。周りの人で店の名前を思い出せている人がいないのを見るに、元から『駄菓子屋』という素っ気ない名前だったのかもしれませんよ。あるいは、そう――」
ぎりぎりまで沈めていたドリップパックを引き上げると、真樹啓介はそれを屑籠のビニール袋の中へと放り投げる。
「『棚橋さんのとこ』、なんて具合に呼ばれているうちに、店そのものが棚橋老人と一心同体、そんな風にして人知及ばぬものへとなっていった。それが何十年も経った現代、慌ただしい子供たちの心からのSOSに応じて姿を見せた……。そう思えば、実に無邪気な話じゃありませんか」
湯気を二、三度吹き飛ばすと、真樹啓介はブラックコーヒーへ口をつけ、しみる……と心地のよさそうな声を上げた。そんな真樹の顔を眺めながら、坂東医師はややけだるげに、
「でも、それにしたってちょっと手加減はしてほしかったですねえ。結局僕は、音更先生の気まぐれに巻き込まれてしまったんだから。ただ働きですよ、ただ働き」
と、老医師の気まぐれに巻き込まれたことのやるせなさを吐露してみせる。
「まあ、こればっかりはしょうがないですね。無邪気な子供の夢を叶える駄菓子屋と、いやでも注射をする、苦い薬を飲ませるお医者さんじゃあ、軍配はどっちに上がるか見えそうなものじゃありませんか」
「そもそも負けが見えてる、ってことですか。そりゃあないですよ真樹さん……」
こっちはやることやってるだけなのに、と悔しげに言いつつも、坂東医師はどこかすっきりとした、晴れやかな表情を見せている。
ひと騒ぎあったものの、それが悪意ある大人や団体の仕業でなかったこと。また、現れたその相手が日々を忙しく過ごす自分にも、束の間の童心を蘇らせてくれたことが、坂東医師に憎らしい感情を与えなかったのが大きかった。
夕空へ淡い色をした月がゆっくり身をもたげ、涼しい夜風が少しずつ足元へ忍び寄る。どこかの軒先で盛んに風鈴が鳴り、爽やかな夏の夜が幕を開けようとする、七月下旬の夕べのことであった。
次回、夏のホラー二〇二四にもご期待ください。