その二
うちのじいちゃん、という言葉に真樹はとっさに、
「あなた、あそこの家のおじいちゃんの……?」
と、何もかも知っているような素振りをみせる。四十過ぎの、首まわりにもでっぷりと肉のついた、アロハ姿の陽気な風貌の中年男性は真樹の返事にすっかり警戒を解き、嬉しそうに手を差し出してきた。
「棚橋健吾の孫の、ジョニー・タナハシと言います。母が留学先で日系人と結婚したもんで、この前までずっとハワイの方にいたんです」
「そうでしたか。棚橋のおじいさん、たしか……」
思い出すような仕草を真樹がすると、案の定、アメリカ住まいのジョニーは陽気な、しかしどこか寂しげな調子で、
「半年前に亡くなりました。周りにも友達は多かったから寂しくなかったと思うけれど、残されたあなた達――」
名前を聞きそびれたジョニーに真樹が助け舟を出す。
「僕は古本屋の真樹啓介、こちらはドクター坂東。まあ、ちょっと離れたご近所さんでしてね。なんといいますか……お悔やみを申し上げます」
「――こちらこそ、おじいちゃんがお世話になりました。それより、ずいぶん驚かせてしまったようで申し訳なかったです」
「と、いいますと……?」
ジョニーの不思議な言葉に、坂東医師がそっと眼鏡を直す。
「この家のことですよ。すぐ近くの人たちにはお伝えしたんですが、真樹さんや坂東さんが漏れちゃってたから……。だいぶガタが来てたのもあって、取り壊すことにしたんです」
「――なかなか、趣のある家でしたがねえ」
水道管が錆びているのか、いやに鉄臭い香りのするのを鼻で受け止めながら、真樹はどんどんと小さくなってゆく件の廃屋を物憂げに見つめる。
「おじいさん、元々はどういう御商売をなさってたんですか。あまり昔のことは話してくれなかったから……」
廃屋から少し離れた場所にある、煙草屋の軒先の雁木の下で、坂東医師はスタンド灰皿を囲み、ジョニーへ棚橋老人の経歴を問うた。
「母に聞いた話じゃ、定年まではずっと、自動車会社の設計部で仕事をしてたんだそうです。ところが、今度祖父が亡くなっていろいろと調べてみたら、戦後の一時期だけ、家を改装して駄菓子屋をやってたそうなんですよ。これには驚きました――」
ラッキーストライクをふかしながら、棚橋老人について語るジョニーを前に、真樹と坂東医師は驚きを隠せなかった。
「しかし、機械畑の人が駄菓子屋さんというのは、ちょっと意外ですね」
動揺を隠しながら灰を落とす坂東医師に、おじいちゃんは足が悪かったからねえ、と肩をすくめて答える。
「どうやら戦地か、軍隊での訓練中に足を負傷したみたいでしてね。物心ついた時にはもう、おじいちゃんはいつも杖をついてる人、って認識でした。勤め先はもともと、戦闘機なんかを作ってた会社だったから、そこへの就職の話がまとまるまでのささやかな生活の糧だったんでしょうね」
「なるほどなあ……」
ジョニーの話に真樹はある程度、一連の騒動の構図が透けて見えたような気がした。かつてそこにあった駄菓子屋とその店主が、何の悪意も持たず、ただ純粋に子供たちとふれあいたいという気持ちから、神隠しめいた具合で子供たちを招き入れた――。
……死期の近い棚橋のじいさんが最後に見たかった、微笑ましい夢、ってのが真実なのかもなあ。
騒ぎにこそなったが、邪気の香りの微塵もしないのを真樹啓介は口元へゆるやかな笑みを浮かべて、あの日の不思議な光景を脳裏に描いた。と、
「――棚橋さーん! でてきましたよっ」
不意を突く、作業員の胴間声に真樹たちもつられて振り返る。見ると、道路を挟んだ向かいの重機の陰から、ヘルメットをかぶった作業員が何か松脂色をした細長い看板を振ってみせている。
「ああ、やっと出てきた! お二人とも、一緒にきてください。これできちんと、その駄菓子屋が閉店出来るんです」
「き、きちんと?」
ジョニーの意味深長な言葉に首をかしげながらも、真樹と坂東医師は件の看板へと目をやった。年月を経て、すっかり表面が松脂色になってしまった四角いそれには、「傘岡市食品販売衛生組合加盟 第一一一四号 許可証明」という太い白字が達者に躍っている。
「真樹さん、こんな市域の組合がありましたっけ。県の食品衛生組合なら、知り合いがつとめていますが……」
広い意味では個人商店主どうしではあるものの、そうした方面に疎い坂東医師は真樹に聞き馴染みのない組合のことをたずねる。すると真樹は、過去にはあったんですよ、と目をぎょろつかせながら看板をにらむ。
「戦後の混乱期、各地じゃ闇市あがりの素人じみた飲食店で食中毒が多かったそうでしてね。その対策の一環としてGHQ指導の下、県各地の事情に精通し、なおかつ小規模な飲食店を監督するため、非常にローカルな食品販売の組合が各県の主だった市や町に組織されたことがあったそうです。もっとも、それから二、三年のうちに我が国が独立を果たしたので、そうした監督下の店はほとんどが現行の開業届けに切り替えたりしてしまったようですが……」
「よくご存じですね! それでは真樹さん、その廃業手続きに面倒な条文があるのはご存じでしたか?」
ジョニーの問いかけに、真樹はいいえ全然、と首を振りながら答える。
「おそらく、看板そのものを悪用させないための対策だったのでしょう。その組合加盟の飲食店や食品小売りの店は、廃業の際にこの札を組合に返納しないと完全廃業、とならなかったそうなのです。その規則――というよりは慣例が現在も引き継がれているせいで、おじいちゃんの店は戦後この方ずっと、書類上は営業中という扱いになっていたんです。もっともそれは、おじいちゃん自身が届け出を出さなかったから、というのもあったんですが……」
「ところがそれが、お祖父様が亡くなった後にとんだことになってしまった。肝心の営業許可証の現物がどこに行ったか分からない――こんなところでしょうかね?」
坂東医師の問いかけに、ジョニーは黙ってうなずく。
「でもなんだか、寂しい気もしますね。どうなんでしょう、何かこの看板を温存させるような手立てがありはしないものでしょうか」
「――まあ、ないことはないですよ。なに、お役所というのは案外、研究機関相手には融通を効かせてくれる場合もありましてね。この看板を市の歴史博物館へ譲り渡したい、と申し出てみたら、うまくゆくかもしれません。そういう方面はちょっとばかり通じているので……」
「それはありがたい! どうでしょう、ここで立ち話というのもなんです、どこか涼しいところでいろいろご相談できないでしょうか。――きっとこれも、天国のおじいちゃんが叶えてくれた巡りあわせでしょうね」
申し出に感激するジョニーとともに、真樹と坂東医師は微笑みを浮かべ、廃屋の真上にかかる小さな虹と、晴れ渡った空を見上げるのだった。