その三
「――坂東先生、坂東先生!」
「……おやぁ?」
耳馴染みのある真樹啓介の声に目を醒ますと、坂東医師は自分の尻がひどく冷たいのに気付いた。見れば、着ていた服はじっとりと夜露に濡れ、ひんやりとした深夜の空気が彼の眼前にありありと横たわっていた。
「なかなか目をお醒ましにならないから、奥の手を使おうかと迷ってたとこなんですよ――」
自分より先に起き上がったらしい真樹は、土ぼこりのついたままの格好で意地悪く笑って見せる。その意味の分かった坂東医師は、
「やだなぁ、鉄拳制裁はごめんですよ」
と、ややオーバーに応答してのけた。
「いやあ、ひとまずみんな無事でよかった。おかげで、徹夜は免れましたよ」
隣に控えた消防団員のほっとした顔に頷き返すと、坂東医師は眼をしばつかせ、真樹の差し伸べた右手を借りて立ち上がった。激しい運動をしたわけでもないのに、体の節々がひどく痛む――そんな感覚が体全体を覆っていた。
「――あ、そうだっ」
途端に、頭の中に立ち込めていた靄が晴れたのか、坂東医師は声を張って真樹の方を見やった。
「真樹さん、あの子たちはいったいどうなりました」
汚れたままのロイド眼鏡越しに真剣な視線をみせる坂東医師に、それなら大丈夫ですよ、と真樹はなだめにかかるジェスチャーで返す。
「ついさっき、消防団のバンにのって、小学校で待ってる親御さんの元へ送られていきました。全員無事に、帰ってこれたんですよ」
「そうか、それはよかった……」
「あ、危ないっ」
不安が一掃されたせいか、坂東医師は膝から路面に崩れかかったが、そばにいた真樹と消防団員に肩を支えられ、どうにか平静を保つことが出来た。
「しかし驚きましたなぁ。そこのボロ家の前を通りかかったら、先生や真樹さん、子供たちが倒れて唸ってるんですから……。ここの前は何度か通ってるんですがねえ」
不思議な顔の消防団員の言葉に、坂東医師は視線の先、自分の背後へ目を向ける。見れば瓦の落ちて、漆喰の中の竹格子が露わになった廃屋が、軒先一杯に草を蒸した状態でひっそりと佇んでいる。
――おかしいな、真樹さんと蝋石を見つけた時に、こんな建物があっただろうか。
坂東医師が不思議そうに建物を見上げていると、消防団長らしい壮年の男が声をかけた。
「まあ、ひとまず子供らも見つかったことだし、今夜はこれでお開きにしようや。――あ、そうそう。坂東先生と真樹さんに、警察の方がいろいろ事情を聴きたいそうですよ。多分、明日あたりにどっちかに連絡が行くと思いますから、あとはまあ頼んます」
「え、えっ」
不意の言葉に驚く坂東医師に、真樹がいささか不満げな顔のままため息をつく。
「……我々が消えて、戻った時に一緒に子供たちが出てきたんで、怪しまれてるようです。ま、せいぜいお互いの身の潔白を証明しあいましょう」
「……そうするしか、ないみたいですね」
一人、また一人と散ってゆく消防団の面々を前に、坂東医師と真樹啓介はそれぞれの顔に刻まれた、疲労とささやかな怒りの印をそっと見やるのだった。