その一
「先生、そろそろ時間ですよ」
「――おや、もうこんな時間でしたか」
診察室の机に向かい、届いたばかりの医学雑誌に目を通していた坂東医師は、年配の看護師の声に置時計をにらんだ。秒針が真上をゆっくりと過ぎ、あと一分もすれば診療終了の七時になる。夏特有のしぶとい茜色の夕焼けが、曇りガラスのてっぺんを染め上げる心地の良い夕暮れのことである。
「まあしかし、こういう時に限って駆け込みで現れたりしますからね。僕が様子を見てますから、おトキさんは帰りの支度をしててください。今日、お孫さんのお誕生日なんでしょう」
「あら、よく覚えてらっしゃいましたわね――」
丸い顔に笑みを浮かべながら、おトキさんこと朱鷺野看護師は坂東医師の計らいを喜び、更衣室へと消えていった。残った坂東医師はスタンドの明かりを消すと、白衣へ片手を突っ込んだまま待合室を抜け、入り口のガラス戸の良く見える椅子へ腰を下ろした。雪国・渟足県傘岡市の名物、雁木造りとよばれる小さなアーケードが、西日を受けた道路の向かいで赤く輝いている。実にのどかな、夏の光景であった。
しかし、そんな平穏な光景は一組の患者の来訪によって崩れ去った。
「すいません、まだ診てもらえますか?」
ゆっくり開いたガラス戸の隙間から、お腹を抱えた小学校低学年くらいの、制服制帽といういでたち男の子と一緒に、仕事帰りの装いの母親らしき女性がおそるおそる声をかけてきたのである。
「どうかしましたか。まだ診察はできますが……」
スーツ姿の女性はそれを聞くとほっと胸をなでおろし、
「子供が、学校から帰ってきてしばらくして、お腹が痛いと言い出したんです」
「――それは大変だ。ひとまず中へどうぞ、すぐに看護師を呼びますから」
事情を把握すると、坂東医師は更衣室の戸越しに急患の旨を伝え、すぐさま母子を診察室へ招き入れた。
「どうでしょうか、先生……」
子供の隣で問診票を書いていた母親は、お腹へ聴診器と指をあてる坂東医師へおそるおそる問いかけた。すると、坂東医師は聴診器を外して、ご心配なさらず、と母親をなだめる。
「大丈夫、軽い食べ過ぎですよ。――きみ、どこかで買い食いしてきたね? ベロが真っ青だったよ」
「ま、そうだったの……!」
驚く母親と、にこやかな笑みを浮かべる坂東医師を前に、子供はあらいざらい白状した。なんでも、学校の帰り道にやっていた駄菓子屋が恐ろしく安い値段だったので、たまたまランドセルに入れてあった小銭であれこれ買い食いしたのだという。
「どうしてそれを言わなかったの! ――先生、ご面倒をおかけしました」
子供の頬を軽くつつきながら、母親は坂東医師へ頭を下げる。
「まあまあお母さん、あまり怒らないでやってください。子供たちも大人同様、付き合いってもんがあるんですよ。市販の胃腸薬でも十分こと足りますから、もうお帰りになって構いませんよ。――きみも買い食いはほどほどに、ね」
ロイド眼鏡越しに軽いウィンクをしながら子供の頭をなでると、坂東医師は二人が診療室を出たのち、深呼吸をしてから椅子に深々と背を預けた。
「先生、お疲れさまでした」
朱鷺野看護師が現れたのは、会計が済んで母子が帰ったあとだった。
「やあ、どうもすいません。――お孫さんに恨まれそうですね」
すっかり時間を食ってしまったことを詫びると、こういう仕事なのは娘も孫も承知ですから、と朱鷺野看護師はけろりとした調子で答える。
「さすがおトキさん、この医院はあなたあってこそです。――問診表の住所と診察券の紐づけ、あとは明日にまわしてもうお帰りになってください」
「ああ、あれならもう済んじゃいましたわよ。お心遣いありがとうございます、じゃあ、先生もあまり遅くならないようになすってくださいね」
それだけ言うと、朱鷺野看護師は一礼ののち診察室を出た。あとに残った坂東医師は、戸締りを確認したのち、建物の二階にある居住区画の、心地の良いミニバー付きの応接間へあがった。昼休み以来、慌ただしさで吸う暇もなかったキャメルへ火をくべると、坂東医師はカウンターへワイシャツの肘をつき紫煙をくゆらせた。
……駄菓子屋で食べ過ぎて、か。かわいいもんだなぁ。
冷蔵庫から出したコーラの栓を抜きながら、坂東医師はふと、そんな事を思った。親の立場になれば迷惑な話ではあるが、駄菓子屋での買い食いなど、大人の鯨飲馬食に比べればたかが知れている。
――あの子、あれからあんまり叱られてなきゃいいけれどなぁ。
グラスの中ではじける炭酸に目を落としながら、坂東医師は灰皿を手近に寄せる。ブラインドの隙間から流れ込む風は、だんだんと夜の冷たい気配をまといつつあった。