2章 多島海~17 鉄砲水
17 鉄砲水
クローリーががばっと跳ね起きた。
椅子の上で寝ていたようにも見えた意識集中状態から一気に覚醒する。
「シュラさん!行くっスよ!」
動けないクローリーを守るように待機していたシュラハトだったが、さすがに唐突過ぎて驚いた。
「お、おい!?」
「荒事になるかもしれないっスから剣は持って。鎧は……時間が惜しいっス」
沙那に充分に説明しきれないうちに魔法の持続時間が切れてしまったので慌てていた。
急げばまだ近くにいるかも知れないが、時間が経つと行き違いになってしまいそうだったからだ。
「少し急ぐっス!」
クローリーは外套を掴むと足早に部屋を出た。
魔術師でありながら冒険者でもあるクローリーの動きは迅速だ。
筋力も運動能力も並みの男性とは違う。
シュラハトは長剣を握ってすぐに追いかけた。
彼やマリエッラのような者でないと簡単には付いて行けない。
いつもは沙那に合わせてのんびり気味だが本来のクローリーは俊敏なのだ。
シュラハトは状況説明が欲しいところだったが、それは飲み込んだ。
どんな状態なのかも全く分からないが時間が優先する状況なのかもしれない。
そういう時は情報共有する時間よりも仲間を信じて進む必要もあることをシュラハトは知っていた。
なにより。シュラハトはクローリーが軽率な男だとは思っていなかった。
「なんも分かんねえが……」
この少し後に前言撤回したくなる光景に出会うまでは。
「あ。クロちゃーん!」
クローリーが走って来るのを見た沙那がいっぱいに手を振りながら、ぴょんぴょんと跳ねた。
ちゃんとしたブラジャーがないこの世界のせいで、沙那が跳ねると胸が大きく揺れる。
「このおじさんに代金払っておいてー」
沙那は食べかけの甘い焦げの香りが漂うイカの姿焼きを手にしている。
「……なんかゲテモノっぽい食べ物っスな」
帝国人であるクローリーからするとおよそ食物とは思えない水棲生物の焼き物だった。
彼には窺い知れない不思議な調味料と砂糖の焦げた香りがした。
「クロちゃんが来るまでもうちょっと時間あると思って食べてたー」
満面の笑みだ。
味のバリエーションの少ない帝国の食事に飽きていた沙那にはご馳走だった。
隣でマリエッラが嫌そうな顔で小さく手を振ってもいたが。
彼女もやはり帝国の人間なのだ。
イカやタコはゲテモノに見える。
海洋世界である多島海だからこその食べ物かも知れない。
沙那には慣れない香辛料も使ってあったが気にはしていないようだった。
「早くいかないとどっかに移動するかと思って慌てて来たっスよ……」
クローリーは屋台のおやじにエクタ銅貨3枚を渡した。
「結構するっスなー」
「へへー」
「んで……」
「あ。あっちの飴も買ってくれると嬉しいなー」
「……おい」
クローリーは頭痛を感じて額に手を当てながらも言う通りにした。
まるで縁日の子供を見るようだった。
「で、なーに?」
イカの姿焼きを齧りながら沙那がクローリーに訊いた。
「何って……」
「ん。だって。この……人形で、ちょっと待っててって言ってたでしょー?」
「え?……判ったんスか?あれで」
クローリーはシュラハトと顔を見合わせた。
次いでマリエッラを見るが、首を横に振った。
「あ、うんー。なんとなくだけど。クロちゃんって聞いたから、きっとそうかなーって」
パントマイムの途中で動けなくなった泥人形は沙那の豊かな胸の谷間に挟まったまま、くったりとしている。
成程。ポケットやバッグがない時には便利なのかもしれないと、クローリーはぼんやりと考えた。
「イズミちゃんと似た感じかなー?」
沙那の髪の毛の中から顔を出したイズミが、イカの端っこを齧って……そして、ぺっをした。
口に合わなかったらしい。
その様子は沙那以外にはクローリーにしか見えないものだったが。
「さにゃが精霊が見えて話ができることと繋がりそーな話っスな」
魔力を感じるのか。それとも何か特別な能力なのか。
判断は付かなかったが何かがまた一つ見えた気がする。
「そうだ!その精霊にお願いがあるんスがっ!」
「精霊違う。妖精さん」
沙那が片手で小さく手を振って否定する。
「どっちでも同じっス。頼みたいことがあって……」
「……ヤだ」
今度はイズミが嫌々した。
「ちょ……テリラっていうおば…女性が大変なんス。その人に頼まれたんスが……」
「んー?誰?」
「……意味わかんない」
沙那とイズミがユニゾンした。
「……でも、サナのお願いならちょっと考える」
イズミが言った。
どうもいつの間にやら大分懐いてしまったのかもしれない。
「さにゃ。頼むッス。今から皆にも説明するっスよ。実は……」
クローリーはやっと説明する時間を得たのだった。
もっとも彼自身も状況の全貌は全く見えてはいなかったのだが。
「洪水?」
沙那もすぐには理解できなかった。
その言葉の字面からすると辺り一面水浸しになるイメージだったからだ。
この世界の言葉は英語に似ている。
ということは沙那にとっては母国語ではないことには変わりはない。
細かいニュアンスは理解しがたい。
少し細かい話を聞いてやっとなんとなく理解できた。
「局部的なっていうか、小さい鉄砲水ねー」
建物の壁を壊せるくらいの水の塊を叩きつけてもらえれば良いらしい。
「そんなことイズミちゃんにできるかなー?」
この小さい姿の妖精にどこまでのことができるのか。
沙那には判断がつきかねた。
「イズミちゃん。前に最低だと1キロリットルのお湯を出せるって聞いたけどー……最大だとどのくらい出せるのー?」
指先で軽く突く。
「……1ギガリットルくらい」
イズミが答える。
「ふーん。1ギガかあ。大したことはなさそ……ええっ!?」
驚いてイズミをまじまじと見詰める。
この世界の言葉でのギガはただ『大きい』程度の意味しかないが、沙那の世界の沙那の時代では割と良く使う機会の多い言葉だ。
スマホやパソコンで良く使う。
電力や周波数を表すときに使うが、電気などがないこの世界ではピンとこない言葉でもある。
「100ギガリットルの水……は、100万トンの水?」
沙那の世界で言えば巨大な100万トンオイルタンカー1隻分ということになる。
「多すぎ!多すぎ!建物の壁を壊してびっくりさせる程度で良いみたいだよー?それくらいに絞れない?イズミちゃん」
「……ハテナ?」
イズミは首を左右に傾げてみせた。
「……だいたいで良いなら。たぶん。なんとか。自信はあるようなないような」
その様子を見てクローリーは少なからず驚いていた。
彼が良く知っている気まぐれな妖精とはだいぶ違う。
人間臭いのだ。
沙那とイズミの会話は仲の良い友達同士のたわいもない会話に見える。
この少女はいったい何だろうか。
そもそも戦闘力がないと捨てられていた異世界召喚者たちの多くにも同じような能力や才能があったのかもしれない。
もちろんクローリーもそう考えてはいたのだが目の前で起こることに驚きを禁じえなかった。
それは彼の仮説の証明でもあり、彼が夢見ていた未来に光が差した思いがした。
「これは凄いことになってきたっスな。さにゃ、お願いして欲しいっス!」
「あ。うん」
轟音とともに港湾管理事務所の一角が吹き飛んだ。しばらくの間は周囲がお湯で満ち溢れた。
そしてすぐにお湯は低い場所へと流れて引いていった。
が、最も驚いていたのは沙那だったかもしれない。
「少しづつ出るのか思ったら……一瞬で出るんだねー……」
まさに何もない空間に突如としてお湯の塊が現われ、流れになったのだ。
「こいつはすげえな。軍事利用できるんじゃねえか?」
シュラハトも呆れていた。
彼には見えない妖精の仕業と言われても、沙那が超自然的な魔法を使ったようにしか見えない。
確かに今、ここで見せた力だけでも強力な武器になるのは間違いない。
ただ、一つ、彼が見落としてることはある。
イズミは沙那に使役されているわけでもなんでもなく、イズミ自身の気分次第でしか動かないというところだ。
彼女はおそらく沙那の生命の危機とか、あるいは単純に興味を惹かれる場合でもない限り動かないだろう。
そういう意味ではやはり沙那は兵器にはなりえないのだ。
状況にやや茫然自失気味だったいクローリーたちの元に、ずぶ濡れのテリラが近づいてきた。
「精霊の気配がすると思って来てみたけど、どなたが魔法使いくんなのか……な!?」
むしろ驚きはテリラの方が遥かに大きかったはずだ。
「イズミ……?」
彼女が追ってきた精霊の気配、つまりは沙那の肩の上にちょこんと乗った小さい姿の妖精。
それこそテリリンカの温泉の精霊たちの長だったのだ。




