一章(4)蜘蛛の糸
その謀議の数日後、玉泉寺(加東市)の赤松義村のもとへ、浦上村宗の使僧が訪ねてきた。
「掃部助(浦上村宗)はこれまでの不義を詫び、赤松家の家臣として忠節を尽くして参りたいとの所存にございまする」
「掃部助から詫びを入れてくるとは、どういう了見じゃ」
義村が玉泉寺に籠ってから、一月ばかり経つ。
味方だった広岡氏の裏切りで敗れ、義村軍は雲散霧消していた。小寺政隆・則職父子も軍勢の立て直しのため、御着城に入ったきりで、それ以来使者のやりとりもない。
義村は書状で近在の寺に安堵状や禁制の交付などはおこなっていたものの、核となる軍事力もなく、入ってくる情報も少ない。そういった状況にあった。
玉泉寺の庭園では、十歳の亀王丸が竹馬で無邪気に遊んでいた。今の竹馬とは違ったもので、一本の竹を掴み、馬に乗るように跨いでひきずるようにして遊ぶ。玉泉寺の稚児も亀王丸に付き合って竹馬遊びをし、楽しそうな声をあげていた。
その様子を見守るのは、亀王丸に近侍する若い男女二人である。
男は、幕府申次衆で播磨国印南郡に所領を持つ、三淵晴員。穏やかな表情を浮かべている好青年である。この時、二十一歳とまだ若い。
申次衆とは、将士が将軍へ拝謁する際に、それを取り次ぐ職掌である。簡潔に言えば、将軍に近侍する存在であった。ちなみに、北条早雲も、戦国大名になる前は室町幕府の申次衆として活動をしていた。
重ねて余談だが、この晴員の息子が細川和泉上守護家に養子に入り、後に細川幽斎と名乗る。
細川の惣領家は京兆家であるが、典厩家、野州家、阿波守護家など有力な分家が多くあり、和泉上守護家もそのうちの一つであった。
幽斎といえば、江戸時代の大名、肥後細川家の祖であり、古今伝授を受けた文化人としても知られる人物である。さらに、その子孫の細川護熙は自民党による「五十五年体制」を崩し、総理大臣となった人物であるが、それはかなり先の話である。
女は晴員の姉、佐子局。生年不詳だが、二十代前半といったところ。黄地の小袖に裾が濃紅の裳袴をはくといった装い。少しふくよかな顔立ちから、柔和さと芯の力強さがにじみ出ている。
この二人をはじめとした数名の近習が亀王丸のもとに仕えていた。将来の室町幕府将軍となる人物を養育する身であるから、家柄も良く、学問や武芸に秀でた人物揃いである。とはいえ、人数は決して多くない。いざ戦となれば、心許ないどころか全く戦力になりえないのも確かであった。
将軍の御子である亀王丸は、赤松義村の手にあったが、それを生かす術はない。そのなかで、浦上村宗から「詫び」が入った。疑いながらも、義村の心は揺れる。
「掃部助は御屋形様(赤松義村)への不義となる行いをしましたことを悔いておりまする。例えば、御屋形様の許しを得ずに備前国(岡山県南部)へ帰ったこと。また、洞松院様の命に従って、御屋形様へ隠居を求めたこと。これは全て誤りであったと申しております」
玉泉寺の堂内に使僧の声が響く。
「我らの兵へたてついたことへの詫びはないのか。長年にわたる戦で多くの者が死んだ。赤松の家名も傷ついた。それに対する詫びが無ければ、掃部助の言葉など到底信じることはできぬ」義村は静かに答える。
「無論。戦で赤松家中を割ってしまったことも悔いておりまする。されど」
ここで、村宗の使僧は語気を強めた。
「掃部助が先に兵をあげ、御屋形様に反旗を翻したこと。これまで一度でもございましたでしょうか」
ないのだ。
永正十六年、十七年、十八年、計三度にわたって赤松義村と浦上村宗は刃を交えている。しかし、全て義村が村宗を攻撃したもので、実は村宗は防戦に努めていた。
浦上村宗が備前国に籠り、防戦一辺倒であった理由。それは、敵を待ち受けて自身の勢力圏で戦闘をする方が有利だ、という彼の戦略上の判断によるものでしかない。
とはいえ、それを義村が知る由もない。
何より、赤松義村が全ての戦を仕掛けたことは紛れもない事実。
義村の心は大きく動いた。使僧の言うことを、そして「浦上村宗の忠義」を信じてみようという気になった。
もし、この玉泉寺に、京都で将軍不在の異常事態が起きているとの報が伝わっていれば、浦上村宗の目論見を看破できただろう。味方の裏切りが無ければ、村宗の甘言に心が揺らぐことすらなかっただろう。しかし、孤立して情報が届かなくなると、希望的な言葉を信じたくなる。
「たしかに。お主の言う通り、今までの戦はわしが仕掛けたものばかりであった。そこは反省せねばならぬな。して、掃部助が赤松家への忠義を示したいとのことじゃが、一度腹を割って彼奴と話をしてみたい。さすれば、真の気持ちが分かるだろう」
「話を聞いていただき、有難く存じます。では、御屋形様には英賀の遊清院に来ていただきたい。掃部助が謹んでお迎えいたしまする」
英賀(姫路市)は、置塩城下を流れる夢前川が播磨灘に出る場所にある。海辺の村で、英賀御堂が開かれたことから播磨における浄土真宗の中心地ともなっていた。英賀城を押さえる城主の三木村通も、浦上村宗の息のかかった人物ではない。村宗との会談場所としては悪くないと義村は思った。
「分かった」と即座に答える。
「有り難き幸せにございます。加えまして、亀王丸様をこのような片田舎に置いていかれるのにはご心配もございましょう。遊清院までお連れなさるのが宜しいかと存じます」
「そうだな」
「また、将軍家の御子息である亀王丸様が来られるということであれば、こちらも歓待の準備がございます。時間を少しばかりいただいて、四月初めということで宜しいでしょうか」
「うむ。そちらに任せる」
義村の言葉に対して、使僧は深く深く頭を垂れた。話が計画通りに進んだことで自然と浮かぶ、うすら笑いを必死に隠すために。
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さて、浦上村宗はこの義村との「和解」を喧伝した。そして、今まで敵対していた小寺氏などの勢力にも協調を求めた。
この唐突な協調姿勢について、みなが半信半疑であったのには違いない。そこで利用したのが、夷まわしである。
夷まわしの興行に、義村の味方をしていた勢力を呼ぶことによって、「和解」の意思を示す格好の舞台を設定したのだ。
小寺則職はじめ、義村の与同勢力たちは、二月に敗戦をしている。そのため、村宗に刃向かう戦力などもうない。そのなかで、敵対していた村宗の方から和解を持ちかけられたのだ。怪しい誘いだとは重々承知でも、誘いに乗った方が得策だとの判断を彼らがしたとして不自然なことは何もない。
この夷まわし。もともとは、赤松政村の不満を解消するため、珍しい見世物として傀儡師を呼んでいただけだった。しかし、折しも亀王丸を奪取するという謀略の決行と時期が重なった。
亀王丸の奪取が成功するまでは、この赤松義村との協調の雰囲気を維持しておかねばならない。真の目的が亀王丸の奪取であると、小寺氏などの敵対勢力に悟られてはいけないのだ。義村やそれに味方してきた勢力に対する虚偽の「和解」の演出、そして、真の目的を見えにくくするための目眩ましとして、夷まわしの興行は利用されたのであった。
仮に村宗の亀王丸奪取の意図に気づいた者があったとしよう。しかし、赤松義村と村宗の間で協調的な雰囲気が続いている限りは、敵対勢力も動くことはできない。
そして、亀王丸を奪取するという目的が果たされた後は、今度は浦上村宗が次期将軍の外護者となる。そうなれば、また誰も村宗には手を出せないということになってくる。
そこまで見越した上で、村宗は策を巡らしていたわけだが、当の赤松義村はそれを知る由もない。進む先に蜘蛛の糸が張り巡らされているとも知らず、ただ花を求めて舞う蝶のように、彼は自ら死地へと向かっていった。
玉泉寺を出た赤松義村と亀王丸一行は、英賀の遊清院に向かった。そして、永正十八年(1521年)四月二日、一行は遊清院に着いた。
寺の門には折烏帽子に素襖姿の武士が立っていて、「掃部助が御屋形様をお待ちでございます。さあさ、こちらへ」と義村を本坊の書院へと案内した。
亀王丸や三淵晴員、佐子局らもその後に付いていこうとしたが、別の武士に止められた。
「亀王丸様は寺内の庭園にお連れ致します。そこで旅の疲れを癒していただきたい」
その武士に連れられ、亀王丸一行は義村と別れた。これが義村との今生の別れとなった。
さて、赤松義村が方丈の書院に入っても、待っているはずの浦上村宗はいない。先程、案内を務めた武士は「ここで暫し、お待ちを」と言って去っていった。
「もしや、謀られたか」
義村が気付いた時にはもはや手遅れ。
書院の周りには槍を持ち、腹巻で防備を固めた武士が複数囲んでいて、逃げ場がなかった。義村はそのまま捕えられて、片島の長福寺(たつの市)へと移された。
一方、庭園に連れられた亀王丸一行。
その前に現れたのが、したり顔の浦上村宗であった。
「一体全体、どういうことじゃ」
警戒する三淵晴員、腰刀の柄に手をかける。
佐子局も、亀王丸を背後に庇い守ろうとした。
「わしは今やそなたらの敵ではない。これを見よ」
そう言って、村宗は細川高國からの書状を見せた。
「京都には公方様が不在。亀王丸様には新しい公方になっていただく。わしはその出迎えに参ったのです」
「しかし、これまで亀王丸様と共にあったのは、掃部助ではない。性因様(赤松義村)じゃ。そなたらは、亀王丸様を自らの手で征夷大将軍とし、その手柄だけ奪い取るつもりか」
未だ警戒の姿勢を崩さない晴員。憤怒に溢れたその目で村宗を睨みつける。
「諦めが悪いな。そなたらも分かっておろう。亀王丸様を将軍に押し上げるだけの力はもはや、あの方にはないことを。つまらぬ拘りを捨てれば、そなたらには都での栄達が待っておる。そうではないか?」村宗は諭すように威圧する。
「戯けたことをぬけぬけと……」
晴員は厳しい表情を崩さない。
「たしかに、掃部助の言う通りです。晴員。柄から手を放しなさい」
佐子局は血気に逸る弟を抑えて、グッと前に出た。
「姉上?」
「我らの第一の役目は、亀王丸様を育て、公方に押し上げること。庇護者が誰であるかなど、些末なことです。公方になれさえすれば、亀王丸様の権勢を超えられる者など一人もいないのですから」
彼女の瞳には覚悟の色が見えた。
「なるほど。強い女子だ。わしが亀王丸様を都へ無事送ってしんぜよう。ご安心召され」
「亀王丸様を頼みますよ」
佐子局は凛とした声で言った。
亀王丸はキョトンとした表情でこの一部始終を見つめていた。
そして、七月。亀王丸は浦上村宗の警護を受けて、上洛を果たした。京都では管領の細川高國による盛大な出迎えがあった。八月には内裏に参上し、天皇への挨拶をすませた。十二月には元服もし、名を足利義晴として、室町幕府の十二代将軍となった。
とは言え、十一歳と未だ幼い将軍である。政治は管領の細川高國を中心におこなわれた。幕閣には義晴を支持していた人物が入り、三淵晴員や佐子局も政務運営に携わることとなった。
都にも新たな「傀儡」が生まれた。
それはさておき、亀王丸を将軍へ押し上げたことで浦上村宗と中央の細川高國の関係はより強くなった。そして、村宗の謀略を知った小寺氏などの諸将は為す術なく、自分の城へと帰っていった。赤松政村も父が家臣に嵌められたことを知りつつも、身動きが取れず置塩城に留まり続けている。つまりは、村宗の思い通り。
これだけ物事がうまく進むと、自身の運の強さを感ぜずにはいられなかった。
傀儡師たちの夷まわしは、赤松家ではなく、浦上家の繁栄につながった。
そして、亀王丸も赤松義村のためではなく、自身の権勢を高めるための「寄り神」であったのだと、浦上村宗は自分に与えられた天運を「自覚」した。
これにより、播磨における「下剋上」の波はより高まりを見せることになる。
佐子局は、亀王丸が将軍になって後、室町幕府の政務にも関与するようになる大人物です。
十三代将軍足利義輝の乳人としても名前が見えるそうです。
個人的には、徳川幕府でいうところの春日局みたいなイメージで書いています。
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