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一章(3)公方様御出奔

 永正(えいしょう)十八年(1521年)二月某日。赤松義村(よしむら)の挙兵はまたもや失敗した。


 味方であったはずの広岡氏が裏切ったからだ。義村軍は瓦解し、義村は亀王丸(かめおうまる)を伴って、玉泉寺(ぎょくせんじ)加東市(かとうし))に籠った。小寺氏や龍野赤松氏はそれぞれ、態勢を立て直すために城に戻った。赤松家の威風を回復させるための、義村の試みは結実しなかった。


 これを受けて、播磨には一時の平和が訪れた。


 赤松政村(まさむら)洞松院(とうしょういん)、そして松は、浦上村宗の強い影響下にある室山城を離れ、播備作(ばんびさく)三カ国太守の居城である置塩城に入った。



 同年三月某日。

 あの傀儡師(くぐつし)たちによる、(えびす)まわしがおこなわれる少し前。


 置塩(おきしお)城麓にある自身の居館にいた洞松院のもとに、京都からある知らせが届いていた。


「公方様、当月七日二御出奔(しゅっぽん)アソバサレ(そうろう)儀二付キ。亀王丸様、播磨ヨリ御上洛ノコト頼ミ申シタク候」とは、時の管領、細川右京大夫(うきょうだいぶ)高國(たかくに))からである。


「公方様が都を御出奔されたから、亀王丸を播磨から寄越してこいとの右京大夫様の仰せじゃ。しかし、あんなに都にこだわっておった公方様が出奔されるとは、実に面白いことですね」

 書状を読んだ洞松院は、「カカカ」と尼姿には似つかわしくない高笑いをする。


「私のもとへも、右京大夫様から書状が届きましたが、そんなに面白うございますかな。都は一大事かと存じまする。そもそも、御屋形様(おやかたさま)のご気分を慰めるため、摂州(せっしゅう)の西宮より傀儡師を呼んで忙しい折。また厄介事が増えました」


 傀儡師を出迎える準備のため、数日前から置塩城下に入っていた浦上村宗。彼のところにも、細川高國から同じ内容の書状が届いていたため、洞松院のもとを訪ねてきていた。


「いやいや、これほど面白きことはなかなかありませんよ。夷まわしを見るよりもよほど面白いことです。この公方様はわらわや死んだ弟と、実に因縁深いお人でありますからね。感慨もひとしおですよ。巷間では「流れ公方」と言われているとか。下々の者の申すことは取るに足らぬことが多くありますが、これについては言い得て妙、といったところでございます」


 この「流れ公方」と呼ばれている人物とは、十代将軍足利義稙(よしたね)のことである。


 京都から脱出して地方へ下ったり、また復権したりを繰り返す波乱万丈の人生を送ったことから、別名を「流れ公方」とか「島公方」とかいう。


 ちなみに、義稙は時期によって、その名を義材(よしき)義尹(よしただ)・義稙と三度変えているが、面倒なので以降も「義稙」の表記で統一する。


「しかし、公方様も京都を出られるとは。右京大夫様とそりが合わなかったのでしょうな」


「あの「流れ公方」は我が強すぎました故、致し方ないところでしょう。己の意見が通らぬとなると、へそを曲げて家臣を振り回すことも多々ありました。神輿は軽い方がよいとはよく言ったものです。わらわの弟、大心院(だいしんいん)(細川政元(まさもと))も、あれにはかなりてこずったようですし」

 とは、洞松院の述懐である。


 さて、義稙の父は八代将軍足利義政の弟、義視(よしみ)であった。

 義視は、応仁の乱で西軍の総大将、山名宗全に担がれた人物である。応仁の乱は勝敗がつかずに終わるが、その遺恨から義視と息子義稙が旧東軍側から嫌われるようになったことは想像に難くない。                                              

 九代将軍足利義尚(よしひさ)が嫡子を得ずに亡くなったことを受けて、延徳二年(1490年)、足利義稙が将軍職を継いだ。旧東軍側の幕閣との遺恨はあったが、義尚生母である日野富子の口添えもあり、将軍への就任がなった。


 さて、日野富子と言えば、八代将軍足利義政の妻で、金の亡者であったということで知られている人物である。


 応仁の乱のさなか、対立する東軍・西軍両方に金を貸し付け、利益を得たことから、そういった悪評が定着している。しかし、そこで儲けた金は朝廷などの支援や政治工作にも用いられた。その豊富な資金力は、衰え行く室町幕府を支える武器ともなっていたのだ。そんな彼女の支持を背景に義稙は将軍になった。


 ただ、義稙は「我が強い」将軍であった。彼は自身の主導で政治を行おうとし、対立する幕閣との意見の調整を怠った。特に、東軍総大将であった細川勝元の子、政元との対立は激烈を極めた。


「そこで、弟は公方を変えることにいたしました。わらわが播磨に嫁ぐことになったのも、赤松を味方につなぎ留めておくためでした。随分と昔の話にはなりますが、今もよう覚えております。掃部助もよく存じておるでしょう」


「……。父から多少は聞き及んでおりまする」


 明応(めいおう)二年(1493年)、細川政元を中心とした当時の幕閣による政変が発生した。いわゆる「明応の政変」である。


 義稙に変えて足利義澄(よしずみ)を十一代将軍に据えたのだ。この政変を日野富子も支持していたというから、義稙への失望の深さがうかがえる。

 命の危険を感じた義稙は京都を脱出して、地方へ下った。そして、細川政元を追い落とし将軍位を奪還するための長い闘争を始めた。


 ちなみに、洞松院はこの時まで、京都で尼僧生活を送っていた。彼女の容姿は端正ではなかったらしい。その容姿では公家や大名の妻女には向かないだろうということで、弟の細川政元に寺に入れられたとのことである。事実であるならば、なかなかにひどい話だ。


 しかし、明応の政変の数日前、弟の政元によって洞松院は還俗(げんぞく)させられた。


 ようするに尼僧生活を終えて、俗世間に戻されたのである。そして早速、堺(大阪府堺市)に在陣していた赤松政則のもとへ彼女は嫁ぐことになった。


 なぜ、姉の「美醜」にこだわっていた政元が、洞松院の結婚を進める気になったのか。それは、姉を思う家族愛などではなく、純粋に政治的な意図によるものであった。


 政元は「明応の政変」という稀代の事件を起こす前に、自身の支持者をできるだけ増やしておきたかった。そこで目をつけたのが播磨(はりま)備前(びぜん)美作(みまさか)三カ国守護だった赤松政則であった。


 還俗した洞松院を赤松家の正妻として嫁がせることで、彼を細川政元の与党に組み入れたのだ。これは、典型的な政略結婚と言っていいだろう。


 このことを揶揄する落首が、当時の京都で流行した。

天人(あまびと)と思ひし人は鬼瓦 堺の浦に天下るかな」と。


 洞松院を天人、つまりは京都の貴婦人と思っていたら、それは大いなる勘違いで実は「鬼瓦」のような醜い容姿の女性であって。その彼女が「堺」に在陣している赤松政則のもとへ「天下る」、つまり嫁いできたという落首。皮肉というには度を越した、あまりに侮蔑的な歌である。


 洞松院は容姿が端正でなく、結婚した年齢も三十代前半と当時としては遅い。そして、完全な政略結婚である。その出来事は、京都の人々の好奇の目に晒され、面白おかしく触れ回わられた。


 いつの世の人々も下卑た話題には飛びつくもので、洞松院がそういった「巷間」の噂を嫌うようになったのも当然のことと言える。


 浦上村宗も、この落首については知っている。赤松家中でも裏で洞松院のことを「鬼瓦」の蔑称で呼ぶ者もまだいる。しかし、当たり前のことではあるが本人の前でそれを口にする者などもはやいない。それほどまでに、洞松院の力は大きなものとなったのだ。


「しかし、あの「流れ公方」もなかなかしつこかった。弟の死後は右京大夫と結んで、公方にも返り咲きましたしね。人としてはなかなか好きにはなれませんが、あの胆力は見習わねばと常々思います」と齢六十前にして、赤松家中に多大な影響力を持つ洞松院が言う。


 どの口が言うのかと苦笑しそうになるのを必死に堪えて、「左様でございますな」と浦上村宗は応じる。


 京都から逃れた後、足利義稙は越中(えっちゅう)国(富山県)・越前(えちぜん)国(福井県)と自身を支持する大名を頼って、地方を転々とした。そして、旧西軍系の大大名、大内義興(よしおき)を頼り、周防(すおう)国(山口県)まで渡った。


 全国を渡り歩くその様は、まさに「流れ公方」といった感じで、その動きに京都の細川政元は翻弄された。政治のいざこざに嫌気がさしたのか、政元が京都を離れ、山に籠ることが段々と増えていった。山に籠り、「天狗になる」ための修行を繰り返すようになった政元への家臣の求心力は次第に低下していった。


 さらに、政元には実子がなかったため、一族や公家から計三人の養子を迎えていた。しかし、確たる後継者を定めなかったため、それが家中の争いの種となった。


 永正四年(1507年)、細川政元が暗殺され、政元の養子たち(澄元(すみもと)・高國など)の間で争いが発生した。約二十年にわたる「両細川の乱」のはじまりである。この細川家の分裂、そして、それより前からあった将軍家の分裂が、十六世紀はじめの畿内政治史を規定する。


 さて、この争いで当初優位に立ったのは、将軍足利義澄を担いだ細川澄元であった。


 しかし、劣勢を挽回したい細川高國はあろうことか、義父が目の敵としていた足利義稙と結んだ。これを好機とした義稙は逃亡先の周防国から、大内義興の助力を得て上洛した。永正五年(1508年)のことである。将軍足利義澄と細川澄元は京都から脱出し、義澄は同年死んだ。


 そして、足利義稙は将軍位にも復帰し、京都に帰ってきた。義稙政権は、細川澄元の攻撃に苦慮しつつも、政治を続けることができたのだ。


 しかし、である。「我が強い」足利義稙は、またもや自身の手で政権を崩していく。まず、永正十五年(1518年)、義稙の我儘に耐えかねた大内義興が地元の周防へ帰ってしまう。さらに、細川高國との対立も先鋭化するようになり、義稙の不満の度はより高まる。


 そんななかの永正十七年(1520年)、細川澄元が阿波国で息を引き取り、跡を七歳の息子、細川六郎(ろくろう)(六郎は幼名、元服後は晴元(はるもと))が継いだ。


 翌年、高國との関係に嫌気がさした将軍足利義稙は自分から京都を抜け出し、細川六郎に与することにした。幼い六郎であれば、手懐けることもできるだろうという下心も足利義稙にはあったかもしれない。


 それが永正十八年(1521年)のこと。ようやくではあるが、細川高國から、洞松院に当てられた最初の書状の話につながる。


「しかし、あれですね。右京大夫と対立したからといって、阿波(あわ)国(徳島県)の細川六郎を頼るというのはあまりに節操がない。そうは思いませんか、掃部助」


「己の意を叶えるためならば、都をも抜け出すような御方に節操を求めるというのも無茶な話にございまする。とはいえ、法住院様(足利義澄)が亡くなられて、早や十年。担ぐ神輿がなくなっていた細川六郎方には捲土重来の好機と言ったところでしょうな。逆に、右京大夫様の手元には、足利将軍家の血筋を引く者が一人もいない。それはそれはお困りのことでしょう」


「そうです。それに加えて、先の屋形(赤松義村)の動きも封じねばなりません。出家して性因(しょういん)と名乗ったと聞いたから、少しは落ち着いてくれるかと思っていたら。案の定、細川六郎方と結んで、蜂起しました。あれには困ったものです」


 赤松義村は先年に隠居させられた後、再度兵を挙げるも味方の裏切りにより、敗北していた。しかし、その闘志はまだ衰えていなかった。二月に玉泉寺へと逃れた後も、近在の寺に書状の発給をおこなうなどして、自身の権威を誇示し続けていたのだ。


 度重なる敗戦で、義村の勢力はひどく弱体化していた。だが、足利将軍家の血を引く亀王丸をまだ保護している。これは、洞松院、浦上村宗らにとって懸念すべき事柄であった。


「さればこそ、亀王丸様を先の屋形様の元からお救いし、我らの手で上洛させねばならないと。そういうことでございますかな」


「そういうことです。まあ、此度の謀は掃部助に任せるつもりですよ。上手くいけば、そなたの益も大きいですからね」

 洞松院は意地の悪そうな笑みを浮かべる。


(汚れ役をわしに押し付ける気か。この鬼瓦め。)

 村宗はすぐに洞松院の目論見を看破した。


 しかし、上手くいけば、中央の細川高國とのつながりを深めることができ、利益が大きいのも事実。この誘いに乗らない手はなかった。


「お任せください」簡潔に村宗は応じた。

「我らの目論見が漏れぬよう、うまくやるのですよ」

「承知仕りました」そう言って、村宗は平伏した。


「流れ公方」、足利義稙が京都を出ていく経緯について、作中では雑に書いています。

今までも義稙は何回か出奔騒動を起こして京都へ連れ戻されているんですが、今回は後柏原天皇の即位礼を放棄して出奔しちゃったので、朝廷の怒りを買って戻れなくなったんですよね。

足利義稙は近くにいたら迷惑だけど、その人生は破天荒で面白い人物です。


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