一章(2)同床異夢
才松丸が父と別れて数日後。
彼は播磨国室山城(たつの市)の広間にあった。
「よくぞ室津まで参られました才松丸様。これからは、この掃部助を父親代わりと思って、頼りにしてくださいませ」
新しい主君に対して、浦上村宗は深々と頭を垂れた。村宗の口角は少し上がっていて、不気味な笑みをたたえていた。
「そうか。掃部助がわしの父親代わりか……。宜しく頼む」
気の抜けた表情で、そう答える赤松政村。
その前で、「有り難き幸せ」などと宣い、また深々と頭を下げる浦上村宗。恭しく振る舞う、その姿に赤松政村の思考は懊悩とした。
才松丸や浦上村宗、そして洞松院らは室山城に集まっていた。
この城は、播磨随一の港町、室津を見下ろす山の上にある。入り組んだ湾内に多くの船が行きかう姿を、広間から見ることができる。
空には墨色の雲が重く垂れ込み、光が差さない。海面は昏く、波もわずかで気味の悪いほど穏やかである。
室津は天然の良港で、神武東征の折に造られたとの謂れもあるほど、長い歴史を重ねてきた。
当時、「室津千軒」とも称された街は海と山とに囲まれていた。その間のわずかな空間にひしめき合うように商家や寺社などが立ち並んでいる様は、見る者に圧迫感すら与えるほどであった。この港町は播磨における浦上家の拠点であったし、そこから生まれる商業利権は浦上家の富の源泉でもあった。
「先の応仁の乱において、先代の浦上則宗は松泉院様(赤松政則)に忠節を尽くしました。そして、山名家から播備作三カ国を回復するという大いなる功績を残した。その褒美として、拝領した土地がこの室津にございます。いわば、室津は浦上家の忠節の証とも言える場所。その場所において、それがしが才松丸様を新たな主君としてお迎えいたすこと。これには深い縁があるのではないかと感極まっておりまする」
浦上村宗は気分が高揚しているのか、長々と赤松家との縁を語った。
応仁の乱において、浦上則宗が赤松家のために比類なき貢献をしたのは事実である。浦上家が主家赤松家を凌ぐ力を有する今の状態になった原因の一つもそこにある。
それに対して、同席していた洞松院が怪訝な表情を浮かべる。
「弁が立ちますね、掃部助。まあたしかに、則宗の活躍は見事でありました。私もあの時代から生きていますから、よく存じておりますよ。しかし、あれですね。掃部助。才松丸の父親代わりとは、なかなか大きく出たものですね」
最初に村宗の口から飛び出た「才松丸様の父親代わり」との言葉はつまるところ、これから赤松当主を上回る権勢を奮うことを宣言したようなものであり、洞松院にとっては不安材料でしかなかった。村宗と赤松義村の追い落としでは一致した洞松院ではあったものの、村宗の権勢がより拡大していくことについては深い懸念を持っていた。
「八歳で家督を継ぐ才松丸様の不安を少しでも和らげようとの一点のみにございまして、他意はございませぬ。先代の則宗がそうであったように、私も才松丸様のために忠節を尽くすということにございます」と弁明をする村宗。
「他意はないと申しますか。……とんだ戯言を。まあ己の分を弁えているのであれば、とやかく申すことはありません。精々励みなさい」
嘲るような顔で村宗を見る洞松院。
「ははっ。心得てございます」
村宗は頭を垂れ、高らかに申し述べた。
同床異夢。
決して、浦上村宗も洞松院も一枚岩ではない。それぞれがそれぞれの利害で動いているだけのこと。この息の詰まるような空気のなかで、これから生きていかねばならぬことを考えると、それだけで気分が滅入る。
赤松政村は広間を発って、居間へ移った。そこは城主の間であり、ここであれば村宗の目を気にする必要はない。室津の入江を見ながら、独り言ちる。
「父上が言っておられたなあ。円心様の時代に、この室津へ等持院様(足利尊氏)が来られたと」
幕府の初代将軍となる足利尊氏が、室津に立ち寄ったのは建武三年(1336年)のことだ。いわゆる宮方(後醍醐天皇側)の武士に敗れた尊氏が、京都を追われて逃れた先がこの室津だった。
当時、播磨国を支配していたのが、赤松円心だった。円心は室津に逃れてきた尊氏を迎え、劣勢を挽回するための策を二つ提示したという。
一つは尊氏軍の疲弊が著しかったため、一旦西国へ撤退して再起をはかるべしということ。
もう一つが、朝敵という汚名を被ったままで戦うのは不利なので、尊氏方も別の天皇をかついで錦の御旗を掲げて戦うべしということであった。
この献策に従って、足利尊氏は九州まで撤退。そこで軍勢の立て直しに成功する。さらに、光厳上皇の院宣を得て、西国の武士の支持を集め、再び東上。かの有名な湊川の戦いで楠木正成の軍を打ち破って再入京を果たすに至った。そして、暦応元年(1338年)、尊氏は京都に室町幕府を開くことになる。
尊氏が西国へ逃れ態勢を立て直している間、円心は播磨国の白旗城(上郡町)に籠り、宮方の軍勢を食い止め続けた。この功績により、赤松家は播磨国の守護職を認められるようになったのだ。
同じ赤松家の家督として室津に入ると言っても、幕府成立に大きな功績を上げた円心と比べると、今の政村の立場は情けない限りであった。
尊氏と円心の輝かしい未来を導いた室津の海。しかし、今やその地は浦上村宗の支配する場所となっている。室津の海は、赤松政村にとって前途を塞ぐ暗い海に見えた。
彼は広間での息苦しさと己の行く末への憂鬱から、深い溜息をついた。ふと脇に目を移すと、優しい微笑みを浮かべる一人の女性の姿があった。
「才松丸、どうしました? 物憂げな顔をして」
その女性が、政村に問いかける。
「母上。私は家督を継ぐことになりましたので、もう才松丸ではありません」
「では、何というお名前になられるのですか?」
「……知りません」
政村の言葉に対し、山吹色の小袖を着た、その女性は手で口元を隠しながら、笑った。
「では、まだ才松丸でよろしかろう。」
政村と和やかに話す、気品あるこの女性、名を松という。齢四十近くで赤松政村の母である。柔らかい物腰ではあるものの、一本芯の通った女性でもあった。
先ほどまでの黒い感情が、静かに凪いで行くのを、政村は感じていた。これが母の力というものなのだろうか。
「あまり暗い顔をしていてはいけませんよ。お天道様のように笑うのです。才松丸!」
そう言って、松は我が子を抱きよせ、頭を愛でるように撫でた。
「やめてくだされ。もうすぐ髷を結うというのに、髪がぐしゃぐしゃになります。母上」
困惑して嫌がるような素振りを見せながらも、母親にされるが儘の政村。
「思い悩んでも仕方がないことは、悩まぬが吉です。家督を継ぐとはいえ、まだまだ子ども。子どもらしくすることも、時には必要ですよ。」
「では、子どもらしく。……洞松院様のお顔を真似致します。「鬼瓦」です」
政村は顔の両側を親指と人差し指で挟み込み、あごをしゃくれさせて、祖母の顔を真似た。
「それはやめなさい。洞松院様の御心が深く傷つきますからやめなさい」
「あの洞松院様が傷つかれるとは。まさに「鬼の目にも涙」というやつですね」
「いい加減にしなさい。仮にも洞松院様は私の義母ですよ。」
子に愛情を注ぐ母と、それを感じ甘える子。柔らかくて微笑ましい親子の情景がそこには広がっていた。
その後、元服を済ませた才松丸は、赤松政村と名乗り、家臣の浦上村宗と祖母の洞松院の庇護を受けながら、政治を開始することとなった。
永正十七年(1519年)の年の瀬。父赤松義村は若君様(亀王丸)のお供をすると称して、置塩城を出立した。
翌永正十八年(1520年)正月、衣笠氏の端谷城(明石市)に入った義村は再び兵を挙げた。衣笠氏に加え、御着城の小寺氏、龍野赤松氏の赤松村秀、そして、太田城(太子町)の広岡氏がこれに味方した。義村軍は賀古(加古川市)まで進出し、さらに御着城へと入った。
そこまで来ると、政村らのいる室津まで、あまり距離はない。
二月二日、浦上村宗は備前国三石城から、室津へ入り、「反乱」の鎮圧を、政村に誓った。
室山城の居間で政村は、冬の海を見ながら独り言ちた。
「父と戦わねばならぬとは……。わしは、とんだ親不孝者じゃのお」
父と分かれて、一か月余り。
実際に兵を動かすのは、浦上村宗だとしても。父と戦うことに抵抗は隠せない。
ましてや、まだ元服を済ませたばかりの身。限りない心細さと、世の流れにあらがうことのできない非力さを政村は感じていた。
「しかし、父上も若君様のお供をしながら戦われるとは。まるで、幼き日の鹿苑院様(足利義満)を保護された宝林寺殿(赤松則祐)のようじゃ」
康安元年(1361年)、足利義満は南朝勢力によって、京都を追われた。その時、義満はまだ三歳。勿論、元服はまだである。その義満を播磨の白旗城に迎え、保護したのが赤松則祐であった。この時、義満の無聊を慰めるため、家臣に命じて風流踊り「赤松ばやし」で接待した。
翌年、幕府軍が京都の奪還に成功すると、義満は都へ帰った。しかし、「赤松ばやし」を大いに気に入った義満は将軍になった後も毎年赤松邸を訪ねてこれを見たという。
将軍家の若君を保護することで、赤松家は幕府での地位を確かにしたという先例がある。父の義村もその先例と同じく、将軍家の若君を保護することで、赤松家の威風を取り戻したいとの思いがあるのだろう。
今は事の成り行き上、父子敵同士となっている。
しかし、父の思いが叶えば、また親子が手を取り合っていけるはずだと、政村は思った。
洞松院が鬼瓦と言われる理由を知りたい方は、次の話を読んでいただければ分かります(誘導)
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