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二章(14)幼君の鍛錬

 さて、年が明けて大永三年(1523年)正月。

 三石(みついし)城(岡山県備前市)の宇喜多館の矢場。


 少年の手元から放たれた矢が、的に吸い付けられるような真っすぐの軌道で飛ぶ。


 パーン。

 心地よい音が矢場に響く。


 的中だ。


 それを見届けた少年は心静かに残身より、弓倒しにうつる。

 そして、右足と左足を揃えて、姿勢を正し、息を調えて静かに射場を離れる。


 この少年こそ、第十一代赤松惣領家当主、赤松政村(まさむら)である。齢十歳となった。

 白の道衣に黒の弓袴姿。寒さで息は白んでいるが、達成感で口もとは少しゆるんでいる。


 射場の後ろで離れて、この様子を見ていた者たちが、一斉に彼へ声をかける。

 三石城主で、赤松家を実質的に牛耳っている浦上村宗(むらむね)もその一人。


御屋形様(おやかたさま)(赤松政村)、腕を上げられましたな。流石にございます」

 諸手を挙げて、主君を褒めたたえる。


「父親代わりとして、これほど嬉しいことはございません」

 と二の句を続けるが、浦上村宗は、政村の父を殺した男でもある。

 これには、赤松政村も愛想笑いで返さざるを得ない。


「弓馬の道を究めるは、武家の基本にございます。ようやく、御屋形様にも赤松家の棟梁としての器量が育ってまいりましたなあ」

 そう言って喜ぶのは尼姿の洞松院(とうしょういん)である。


「これも四郎の指南のお蔭じゃ!」

 赤松政村も誇らしげに答える。


 浦上村宗や洞松院、そして家臣たちの山の後ろに宇喜多四郎の姿もあった。

 若年ゆえ、なかなか前に出てこられないようだが、満面の笑みを浮かべている。矢がなかなか的に当たらなかった「弟子」の成長を喜んでいるようである。


「館にいる母上様にもお伝えせねばな」

 小姓の定阿(じょうあ)に弓を預け、赤松政村は布で汗を拭く。非常に上機嫌である。

 その脇で小姓の定阿も嬉しそうにウンウンと頷く。


 浦上家の三石城に来て、半年余り。

 恵まれた環境と育ち盛りの年頃ということもあって、赤松政村の能力は文武共に向上していた。


 「文」においては『四書五経』などの儒学の教え、『孫子』の兵法などの漢籍を継続して学んでいた。これに加えて、『万葉集』や『伊勢物語』・『源氏物語』などの和歌や文学作品も少しずつ読むようになってきていた。和歌・連歌が公家・武家社会の教養である以上、ここのところは避けては通れない。


 そして、「武」。これは先程の弓に加えて、乗馬の鍛錬にも励んでいた。


 当時の馬の走り方は「側対歩(そくたいほ)」と言われるもので、今はあまり見られないものである。右側の前足と後足を同時に出し、次は左側といった動きをする。現代一般的にみられる走り方を「斜対歩(しゃたいほ)」と言う。これは、右前足と左後足が同時に出るものである。


 「側対歩」の利点は速度を上げても、上下動が少なく水平に動くことが可能であることだ。流鏑馬などに見られるように、騎馬武者の戦いの基本は騎射である。乗り手も上下動が少なければ、馬上からの狙いも定めやすい。そう言ったわけで、戦国時代は馬に「側対歩」を調教していた。


 上下動が少ないとはいえ、馬の高さや速さへの慣れ。そして、「軽速歩(けいはやあし)」と言われる馬上で立ったり座ったりの動作や体重移動、そして的確な手綱さばき等々、習得すべきことは多々あった。


 赤松政村は持ち前の粘り強さで、これらも何とか習得した。そして、三石城から、馬で野を駆けることができるようになるまでに成長していた。


「御屋形様は、馬術も上達しておると聞き及んでおりまする。来月にでも和意谷(わいだに)(岡山県備前市)へ鹿狩りにでも参りませぬか?」

 浦上村宗は、主君を巻狩(まきがり)に誘った。


 巻狩とは。軍事訓練や神事祭礼を目的として、鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止める大規模な狩猟のことある。特に、鎌倉時代に源頼朝・頼家父子を中心にしておこなわれた富士の巻狩りが有名である。


掃部助(かもんのすけ)(浦上村宗)にしては、良い考えですね。御屋形様が巻狩で獲物を射ることができれば、赤松家の武威を示すこともできます」

 洞松院にしてはめずらしく、浦上村宗の提案を褒めた。


 この巻狩は勿論のことながら、遊びではない。軍事訓練だ。


 播磨に侵入した山名氏と対峙して、二か月余り戦線は膠着している。

 ここで、赤松政村がしっかりと獲物を射ることができれば、赤松家の幼君も武家の棟梁としての資質ありということを示せる。それで戦がすぐ有利になるということはないが、家臣たちの励みになるはずだ。


「もう御屋形様は元服しておいでですが、もし巻狩で獲物を射ることができれば、矢開(やびらき)などしてもよいかもしれませんね」


 「矢開」とは、武家の男子の成長を祝っておこなわれた儀礼の一つである。


 武家の男子が、狩りではじめて鹿・鳥などを射た時、その手柄を披露して祝い、これを「矢開」と称した。時代が下るにしたがって、その内容は儀礼化された。

 三代将軍足利義満が八歳で鵙を射て矢開の儀をおこなったことから、足利将軍家の子弟は八歳で矢開きをおこなうことを例とするようになった。


 ちなみに、洞松院の亡夫である赤松政則(まさのり)は『矢開記』という書物を公家に所望している。室町幕府の侍所所司(しょし)(京都防衛の長官)も務めた彼は、武家儀礼などの有職故実(ゆうそくこじつ)に通じておく必要があったのだ。


 矢開では家臣たちも儀礼に動員される。それは、浦上村宗一派とて例外ではない。赤松惣領家と浦上村宗の家格の違いを顕然たるものとする。そのために、洞松院は矢開の実施を提案した。


「公方様は鳥を射て、矢開をおこなっておられますが、遠き昔の鎌倉武士は鹿を射て、矢開をおこなったと聞き及びまする。古式ゆかしき矢開をするのも良きお考えと存じまする」

 浦上村宗はにこやかに答える。


 村宗とて、対山名戦を行うにあたって、赤松家中の団結は示しておきたい。洞松院の提案を蹴ることは特に考えていなかった。


「決まりですね! 巻狩で獲物を捕らえられるように励むのですよ。御屋形様」

 洞松院はそう言って、赤松政村の肩に穏やかに手を置いた。


「で、出来るか……じゃなかった。勿論でございます」

 トントン拍子で話が進んでいくことに動揺を隠せない赤松政村。


 弓矢も乗馬も最近ようやくできるようになってきたというところで、巻狩など上手くいくのだろうか。心配でしかない。

 遠くにいる宇喜多四郎に(また指南を頼むぞ)と念を送る。


 その念が届いているのかいないのか、四郎はやはり満面の笑みであった。

側対歩については、今も海外の繋駕速歩けいがそくほ競技(※ローマ帝国の戦車レースみたいなもの)などで見ることができるそうです。モンゴルの馬は今でも側対歩が多いのだとか。漫画の『みどりのマキバオー』でもあったなと、調べていて思い出しました。

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