二章(13)悩ましい年の瀬
大永二年(1522年)十一月某日。
宇喜多能家と浦上村国を中心とした、「赤松軍」およそ二千は備前国三石城(岡山県備前市)を発った。
そして、播磨国(兵庫県西南部)へ入り、兵を糾合しながら東進した。
宇喜多能家は、播磨随一の港で、浦上家の播磨支配の拠点であった室津(たつの市)を確保。
その後、龍野城(たつの市)で、龍野城主の赤松村秀や、小寺政隆・則職父子と合流した。ここで、浦上村宗派と反村宗派が共闘する「赤松軍」の兵数は四千を超えた。
揖保川東岸地域は、山名誠豊の支配下にある。
まずは揖保川西岸にある龍野や室津を確保し、長期戦を覚悟しながら、山名軍と対峙する。宇喜多能家の当初の計画はほぼ滞りなく進んだ。
とは言え、宇喜多能家の悩みは深い。
まず、播磨衆の被った打撃が思いのほか酷い。
「当国衆ハ悉以退散畢」と『鵤庄引付』にあるように、山名軍の攻撃は激しかった。小寺兵を中心とした播磨衆は敗北を重ね、龍野城にいる兵も負傷している者も多かった。山名への反転攻勢の前に、軍の陣容を立て直さなければならないのは明らかであった。
そして、烏合の衆ゆえの統率の取りづらさ。
宇喜多能家が龍野城に入った時、赤松村秀や小寺則職から嫌味を言われた。
龍野城の御殿にて。
上座には、城主の赤松村秀が座し、その脇には居候の小寺政隆・則職父子が控える。
挨拶にやってきた宇喜多能家に対して、城主の赤松村秀は言い放った。
「そなたが大将とは。舐めたものよ!」
「舐めているとは、どういうことにございますか?」
宇喜多能家は下座にて尋ねる。
「分からぬか? この戯け者が。山名と赤松が一戦交える。その大事な戦の大将がそなたとは、荷が重いとは思わなんだか? 御屋形様(赤松政村)の家宰である浦上掃部助(村宗)様が直々に参られると思ったが。家臣を送ってくるというのが舐めているというのじゃ」
赤松村秀は、齢三十。赤松惣領家九代当主である赤松政則の妾腹の子である。
庶子であるため、赤松惣領家の家督を継ぐことはできなかったが、血統としては赤松家の直系に近い家柄である。浦上家やその家臣に対し、敵対的な態度に出るのも仕方がないことではあった。
(播磨衆が、山名に負けて助けを請うて来たくせに何を偉そうに……)
宇喜多能家は憤りを感じるが、家格では自身が圧倒的に下であるのは確かである。怒りをおくびにも出さず、彼は飄々とした様子で答える。
「下野守様(赤松村秀)が仰ることはよく分かります。されど、三石城にある御屋形様をお守りすることこそ、己の務め。そう思うて、我が主浦上掃部助は、拙者を代理として播磨へ送ったのでございます」
「御屋形様をお守りする……か。笑わせる」
脇にいた小寺則職はそう言って失笑し、口元を扇子で隠す。しかし、顔を上げて、能家を見る目はガンを飛ばすような鋭さ。明らかな敵意を感じる。
前当主赤松義村に供奉し、ずっと浦上村宗に敵対してきた彼である。張り詰めた空気が御殿の中を支配する。
「掃部助も命が惜しいか。それとも、まだ何か企みがあるか……。いずれにせよ、今はそなたらと結んでおる。まあ、仲良くやろうぞ」
「お願いいたす」
そう言って、宇喜多能家は頭を下げた。
対面の時から、気まずい空気。
どう考えても、山名家に一致団結して向かえるとは思えない。
最後に、浦上村国が信用ならない。
山名軍が播磨へ侵入してきた折、高峰城(神河町)の戦いで伊豆孫次郎の兵は全滅した。それなのに何故、伊豆孫次郎と一緒にいた村国勢はほぼ無傷なのか。その時点でおかしい。
そして、山名支配域へ放った間諜からは、その疑念を裏付けるような情報もあった。
浦上村国は山名誠豊と「同心」しているとの噂があると。
とは言え、浦上村国の様子を見ていても、山名氏を利するような行動をしている素振りはない。むしろ、山名と戦うための献策をしてくる始末である。
「高峰城にござった時、山名の様子を探っておりましたが。四天王と称される重臣たちは、当主の山名誠豊に服しておらぬようにございます。特に、竹田城主の太田垣宗寿は播磨攻めに反対していたようで、城に籠ったきり出兵もしておりません。その辺りを切り崩すことができれば。播磨におる山名勢も先細りになりまする」
竹田城(朝来市)は、雲海のなかに浮かぶ城の荘厳さから、現在は「日本のマチュピチュ」としても知られている。但馬国(兵庫県北部)の南を押さえる要の城である。
太田垣宗寿がそこに籠ったきりであるのなら、それに越したことはない。
春になって、援軍として播磨へ攻め来れば、面倒なことになることも予想できる。
宇喜多能家が放った間諜からも、山名家内の不和は聞こえており、浦上村国のこの情報は有益なものに思えた。
「山名不利の報を竹田城に回すか。春になって、播磨に兵や兵糧を回されては困るからの」
宇喜多能家は早速、但馬国撹乱に動くことにした。
反村宗派のなかで、宇喜多能家にもっとも協力的な姿勢を示しているのは浦上村国である。赤松村秀や小寺則職は嫌味ばかりで、あまり指揮に従ってくれない。
火のない所に煙は立たぬと言う。
しかし、「赤松軍」の分裂を誘うために、「浦上村国が山名と同心している」などという虚報を、山名氏が流している可能性も否定できない。
どちらにせよ、「赤松軍」のなかで、宇喜多能家と浦上村国が内輪もめを起こしてしまえば、山名氏を利することに変わりない。
山名との戦が終わるまでは。
余程、浦上村国に怪しい動きが無い限り、彼を討つことはしない方がいい。
宇喜多能家はそう考えた。
「赤松軍」は内輪もめと疑心暗鬼に満ち溢れていた。
揖保川東岸の山名氏の守りはそこそこ固い。
小競り合いはするものの、本格的な戦いに打って出る余裕は「赤松軍」には無かった。
それは、播磨に入り戦線を拡大させた山名家も同様のこと。
いくら、烏合の衆とは言え、四千の「赤松軍」に向かっていく余裕はなかった。
それに、家臣の垣屋氏や田結庄氏等も、唯々諾々と主君である山名誠豊の言いつけに従っているわけではない。まずは、占領した播磨の土地を分け与えて、利を与えねばならない。
そう言ったわけで、一進一退。戦線は全く動かないまま。
激動の大永二年はひっそりとその幕を閉じることとなった。
龍野城主赤松村秀の出自については諸説あります。『鵤庄引付』では、龍野赤松氏の家柄に生まれており、大永五年(1525年)に実祖父の赤松則実を殺害して、家督を継いだとされています。
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