二章(12)不屈
浦上村宗と反村宗勢力の仮初の和議が成立したころ。
坂本城(姫路市)にあった別所村治は自領の東播磨防衛を最優先として、居城の三木城(三木市)へと戻ることとなった。
北部からの山名勢の侵攻に加え、細川高國勢三千騎ほどが摂津国(兵庫県東南部・大阪府北部)に集結しているという情報もあったからだ。浦上村宗との共闘が成立したとしても、今後の情勢が読めないなかで、別所村治の行動はいたって合理的であると言えた。
「小寺殿。申し訳ないが、拙者たちは三木へ帰らせてもらう。浦上因幡守(村国)殿が援軍を連れてくるまで、できるだけ耐えてくだされ」
別所村治は、別れ際、小寺政隆・則職父子にそう声をかけた。
「申し訳ないということはござらん。別所殿には東に睨みを利かせていただかねばなりませぬ。山名はできるだけ、こちらで引き受ける所存にございまする。されど、無理と見切れば、龍野でも三石でも逃げる腹積もりにございます」
小寺則職は笑顔で、山名に負けそうなら逃げると言いのけた。
「逃げるのも良い。お互い、命あっての物種じゃ!」
それには、別所村治も破顔一笑。小寺則職らを気遣いつつ、二千の兵を率いて、坂本城を後にした。
それを見送る小寺則職はしみじみと呟いた。
「御屋形様(赤松政村)を裏切ることにならずに、本当に良かった」
さて、十月二十四日に高峰城(神河町)を落とした山名誠豊勢は、市川に沿って南を目指して行軍を続けていた。
山名誠豊の兵は勢いに乗っていた。坂本城に残った小寺政隆・則職勢も撃破され、兵の損耗を極力抑えながらの漸次撤退を強いられた。
そして、最終的に小寺氏は自領を放棄。居城である御着城(姫路市)、次いで姫路城も空にして、龍野城(たつの市)の赤松村秀を頼ることとなった。
十一月十一日、山名誠豊は増位山(姫路市)まで進出して、中部播磨を押さえるまでにいたった。
十月半ばの但馬日光院(養父市)での挙兵から、わずか一か月で、播磨の北から南まで一気呵成に貫いた。山深く重なる木々に囲まれた但馬から、収穫を終えた田畑が広がる播磨へ入った。
増位山には随願寺という天台宗の古刹があり、山一帯にその坊舎が多く建ち並んでいた。
聖徳太子が高句麗の僧に建てさせたのが起源、という由緒正しき歴史を持つこの寺の本堂に、山名誠豊とその家臣数名があった。
本堂からは、増位山の山裾と広大な播磨平野、そして、その先に広がる穏やかな瀬戸内海を眺めることができる。
「この播磨国を押さえれば、我が山名の威勢もまた戻るというものよ」
山名誠豊は折烏帽子に甲冑姿で満足気に柿をほおばる。
播磨国(兵庫県西南部)は豊かな地だ。
律令制が敷かれた時代には、その税収入の高さに応じて、諸国は「大国」・「上国」・「中国」・「下国」と分類されていた。
播磨国は農業がさかんで「大国」に分類され、その地の国司の座を得ようとする者が後を絶たなかったという。
また、瀬戸内海は当時の物流の要。
塩や海産物、壺や材木などの商品を乗せた船が各地から出港し、京都の市場を目指して、この瀬戸内海を移動する。
米と物流による富。これを手中に収めることができれば、山名家再興への夢は現実のものとして近付いてくる。
「御屋形様(山名誠豊)は呑気にございますな。備前では浦上掃部助(村宗)と因幡守が兵を集めておるというのに」
重臣の垣屋続成が半ば呆れた様子で、柿をほおばる主君に話しかけた。
垣屋続成はいわゆる「山名四天王」の一人で、国人として主家を凌ぐ力を持っていた。それは当主をも容易にすげ替えることができるほどの力。実際、国人衆の垣屋続成や太田垣宗朝が前の当主、山名致豊に引退を迫った結果、お鉢が回ってきたのが山名誠豊であった。
山名誠豊にとっては、同じ戦場で戦っていても、安心して背中を預けることはできない相手である。
「備前の動きなど、存じておる」
ため息交じりに誠豊は応える。
十一月半ばともなった、このころには誠豊も勿論知っている。
浦上村宗と反村宗派が共闘するため、一時休戦したことを。しかも、山名家の播磨国侵入を手引きした浦上村国の手によって。
この報は、誠豊を混乱させるものではあった。
浦上村国の思惑がどこにあるのか、誠豊には理解できなかった。
高峰城での戦いでは山名方にあった村国が翻意したというのは何故なのか。
村国は浦上村宗を嫌っていたのではないのか。
しかし、そんなことを考えても意味はない。
浦上村国は、浦上村宗と結んだ。その事実が全てである。
今更、但馬国(兵庫県北部)に退却などできない。
それをすれば、国人衆に見限られて、自分の地位が脅かされるだけだ。
腹を括って、為すべきことをする他ない。
まずは、播磨国の一部だけでも支配を固めて、赤松軍を迎えうつ体制をとることだ。
破竹の勢いで攻め進んだ山名家にも攻勢限界が見えてきている。
但馬から播磨の南端までおよそ十里(約四十キロメートル)を突き進んできた。
兵数三千でこれ以上の広域支配を維持するのは難しい。まずは、ここで進軍を一旦打ち止めにする。
もともとは、浦上村国の協力を得て、支配域を広げていく腹積もりだったが、それは考えても詮なきことである。
手持ちの兵数は足りないが、雑兵として現地の百姓を徴発すれば、当座は何とかなる。春になって雪が融ければ、但馬から増援の兵を送らせることも可能になる。それまで持ちこたえればいい。
一揆を起こされない程度に、兵糧米を徴収すれば、飢えを起こす心配もない。何より、ここまで続いた勝ち戦で、山名軍の士気は高い。
国人風情に侮られる筋合いはない。
「浦上掃部助が出てくれば、迎えうつのみ。そなたも励めよ」
山名誠豊は家臣に静かに力強く、言葉を返した。
「……承知。まあ、御屋形様の手並み拝見と参りましょうか」
主君を一瞥して、場を立ち去る垣屋続成。
家臣の忌々しい態度に、苛立つ山名誠豊。
しかし、播磨を押さえることができれば、舐められこともなくなる。ここが踏ん張りどころだ。屈してなるものか。彼は、そう自身を奮い立たせる。
その後、山名誠豊は播磨国の支配を早々と展開させた。
十一月十四日には、鵤庄(太子町)を支配するために、山名家臣の田結庄左馬助が配置されたことが『鵤庄引付』にみえる。
この他にも、山名家臣の垣屋氏や田公氏らが現地で兵糧米を徴収するなど、苛烈な侵入者としての行動を山名氏はとった。
兎にも角にも、播磨中部は山名家の支配下に収まったのである。
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一方、備前国三石城(備前市)本丸書院。
備前国(岡山県東南部)では、播磨国から山名家を追い出すための、軍編制の準備が進んでいた。
そんななか、浦上村宗は、有力家臣である宇喜多能家、島村貴則と戦況についてなどを本丸書院で話す機会をもった。あまり格式ばった場ではないのか、村宗は上段に座らず、下段で家臣たちと談笑をするようなかたちであった。
「別所や小寺などを楽に倒すことができれば良かったが。急いては事を仕損じるという言葉もある。まあ、多くを望み過ぎてはいかんな」
この頃には、浦上村宗もだいぶ冷静になってきていた。
浦上村国に言いくるめられた直後は、周囲に当たり散らすことも多かった彼だが、数日経って本調子を取り戻してきた。
「急いては事を仕損じる。上様の仰る通りにございます。されど、山名攻めは急がねばなりませぬ。山名に播磨での地歩を固められては、厄介なことになりますゆえ」
角ばった顔をした島村貴則が、浦上村宗に上申する。
「たしかに。山名のみ見れば、攻め急ぐのも良い手かもしれん。されど、我らが戦う敵は山名のみでない。今は仕方なく和を結んでいるとは言え、因幡守(浦上村国)、小寺や別所も所詮は敵。彼奴らとの争いも有利に進めねばならぬ」
浦上村宗は深慮遠謀を巡らしているのか、眉間にしわを寄せる。
「となれば、急戦は好ましくないと言うことですかな?」
整った髭に細面の宇喜多能家がおもむろに尋ねる。
「そういうことじゃ」
腕組みをして考えながら、浦上村宗は答えた。
「今、山名勢が押さえているのは、小寺などが知行していた土地。山名勢が長く居座れば居座るほど、弱るのは我らではなく、小寺ということになりますなあ」
主君の考えに合点がいった宇喜多能家。ほくそ笑む。
たしかに、山名誠豊が支配をおこなっているのは、播磨中部の市川沿い地域。
北部については、亡くなった伊豆孫次郎など諸勢力の支配域であった。しかし、下流域の御着城や姫路城がある辺りは小寺家の支配地域である。
山名誠豊がそこを長く占領すればするほど、小寺政隆・則職は地元支配から遠ざかることとなり、その足元が弱くなるのは確かであった。山名との戦を終えた後の情勢を見据えると、小寺氏の弱体化は、浦上村宗の有利につながるのである。
「それは分かります。されど!」
そう声を張ったのは、島村貴則である。
「山名に時を与え、年をまたいで春になれば、但馬国から援軍が送られてくることでしょう。さすれば、山名を容易く打ち破ることができなくなる。それでは本末転倒ではございませぬか」
これもいたって正しい主張であった。勝利後を見据えるのは良いが、そもそも山名氏への勝ち筋を見失っては元も子もない。
しかし、浦上村宗。泰然としている。今後の策を閃いたようだ。
「そうじゃ。わしもそこを悩んでおった。しかし、山名との戦いを早く終わらせすぎると、欲しいものも貰えなくなるやもしれぬ」
「「!?」」
浦上村宗が何を閃いたのか。家臣二人は全く分からなかった。
「和泉守(宇喜多能家)! そなたは浦上因幡守らと播磨へ行き、山名と戦え。小寺領は取り返さんでよい。じわりじわりと押さえ込めばよい」
「ははっ」
主君の命に、宇喜多能家はすぐさま平伏する。
「弾正左衛門(島村貴則)! そなたは京都の細川右京大夫(高國)殿との交渉をおこなえ。右京大夫殿に口添えしていただき、是非とも頂戴したいものがある」
「頂戴したきものとは?」
「ハハハ。急くのう。わしが「松之下草」でなくなるために、必要なものじゃ」
島村貴則の問いに対して、少し焦らす浦上村宗。
不屈の精神を持つ浦上村宗の思惑もありながら、一時共闘の赤松軍と、山名軍の戦いが始まる。
「山名四天王」とは、室町時代から戦国時代にかけて山名氏に重きをなした垣屋氏、太田垣氏、田結庄氏、八木氏を指します。戦国時代については山名惣領家と「山名四天王」はしばしば対立し、「四天王」勢は自立傾向を強くしていきます。
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