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序章(1)動乱の影

 時は戦国。

 といっても、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康など三英傑が活躍する四十年以上も前の時代。


 日本は旧時代の秩序を残しながらも、「下剋上」が蔓延る、極めて混乱した時代にあった。


 その混乱は、現在の近畿地方を中心とした経済的に豊かな地域で顕著だった。


 親と子が争い、家臣が主君を裏切る。昨日まで敵だった者が結び、昨日まで仲間だった者が対立する。


 旧時代には、守護大名として、室町幕府の中で重責を果たしてきた赤松家もその混乱の例外ではなかった。


 -----


 永正(えいしょう)十八年(1521年)三月某日。

 播磨国置塩(おきしお)城(姫路市)の麓にある城下町。


「おお、山上に建物が沢山ござる。流石、置塩城は聞きしに勝る名城じゃの」

 作兵衛(さくべえ)傀儡師(くぐつし)一行は眼前に広がる大城郭に感嘆の声をあげた。


 置塩城は播磨(はりま)国(兵庫県西部)・備前(びぜん)国(岡山県東南部)・美作(みまさか)国(岡山県東北部)、いわゆる「播備作(ばんびさく)三カ国」を治める守護大名家赤松氏の居城であった。


 標高三百七十メートルの置塩山に築かれ、本丸・二の丸・三の丸を主要な曲輪として、東西約六百メートル、南北約四百メートルにわたって広がる播磨最大の山城。


 山上には庭園や、茶室、家臣たちの屋敷などもあって、空中都市と言っても過言ではない壮大な規模を誇っていた。


「ここまで来るにも遠かったが、傀儡を担いで山道を登るのはえらい難儀じゃの」

 傀儡師一行の一人、助六(すけろく)が愚痴る。


 傀儡とは、操り人形のこと。

 また、傀儡師とは、人形遣いを生業とする者達のことを言う。


  傀儡という漢字を書くと、今では「かいらい」の読みが一番に出てくるわけであるが、それも操り人形の意であろう。

 昔は人形のことを傀儡と書いて、「くぐつ」と読んだ。


 さて、彼ら傀儡師は普段、神社所属の雑役神人として活動をしていた。そして、時々諸国を流浪し、人形を操る旅芸人として、その信仰を広げる活動をしていた。


 特に、えびす宮総本社である西宮神社(西宮市)は彼らを多く抱えており、傀儡師たちは「(えびす)まわし」を演じて、えびす信仰を広める役割も担っていた。


 人形操りは元来、大衆向きの娯楽であったのだが、しだいに技術も進み、広く人気を博すこととなった。


 戦国時代に天皇の側近に奉仕していた女官が宮廷生活について書きつづった日記『御湯殿上日記(おゆどのうえにき)』を見ると、永禄十一年(1568年)に西宮の「ゑびすかき」が宮中に入り、人形操りを上覧したことが記録されている。


 永正十八年はそれより五十年ほど前にあたるが、人形操りの技術が進歩する時期にあたっていたのは間違いない。


「我らの夷まわしを、三カ国太守たる赤松のお殿様がご覧になりたいとの仰せ。これほど誉れ高きことがあろうか。無駄口叩かずにさっさと歩け」

 そう言って、作兵衛は、不満を漏らしていた助六の尻をつねった。


「痛え」と助六が野太い悲鳴をあげる。


 さて、彼ら傀儡師を招いたのが、三カ国太守たる赤松家であった。


 播磨随一の名族とされる赤松家の系譜は、平安時代の村上天皇にまで遡る。


 その子孫は源姓を賜って臣下に下り、数代にわたって京都の朝廷で重責を担った。しかし、師季(もろすえ)の代になり政変に敗れて播磨国佐用(さよう)荘へと流れてきたという。


 鎌倉時代になり、師季の後裔が赤松村の地頭職に任じられたことから、「赤松」と名乗りだしたそうだ。この赤松家初代の人物を、赤松家範(いえのり)というが、この家が大いに飛躍したのは四代の赤松円心(えんしん)のときであった。


 赤松円心は足利尊氏に高く買われて室町幕府の創設に貢献し、播磨国の守護職を任されるようになった。


 円心の亡くなった後も赤松家はその威勢を拡大させた。長男の範資(のりすけ)は惣領家をついですぐ急死したが、家督を継いだ三男則祐(そくゆう)の活躍は目覚ましく、備前国守護職を獲得した。


  則祐の子、義則(よしのり)も四代将軍足利義持(よしもち)の宿老として、幕府の安定に貢献した。この義則の代に赤松家は美作国守護職も獲得し、播磨・備前・美作三カ国を治める守護大名としての地位を得た。


「しかし、その赤松様も公方様(くぼうさま)にたてついて、一度は滅んだ家でしょう。たしかに、大名様に夷まわしを見ていただくことは滅多にない。しかし、忠義も守れぬ家のお殿様に、夷まわしを披露することが誉れ高いとは、作兵衛様もなかなか面白いことを仰る」とは、同じく傀儡師の次郎。


「……今から伺う大事なお客様に対して、滅多なことを申すものでない」と、作兵衛は次郎を注意する。


 たしかに、赤松家は一度滅んだ。嘉吉の変で、将軍を弑逆してしまったからだ。


 赤松義則の後を継いだ満祐(みつすけ)はいささか気性の激しい人物であった。六代将軍足利義教(よしのり)に疎まれていることを感じた満祐は、あろうことか、将軍義教を自邸に招き暗殺をしてしまう。


 下剋上のはしりとも言える事件であったが、当然幕府は満祐を許さなかった。幕府は、赤松追討軍を用意して播磨を攻撃。満祐をはじめとした赤松惣領家の大半は城山(きやま)城で自害に追い込まれた。そして、播備作三カ国も没収され、山名家の手に移る。


 ただ、そこで終わらないのが赤松家のすごいところである。


 実は千代丸という人物が、幕府軍の攻撃のなか、ひそかに逃がされていた。彼は赤松満祐の甥にあたり、滅びたはずの惣領家の血を引いていた。赤松遺臣はその千代丸の存在を一族の希望とし、赤松家を再興させるために奔走した。


 千代丸(ちよまる)は志半ばで亡くなったが、その子赤松政則(まさのり)の代に家名の復活がなる。


 後南朝に盗まれていた神璽(しんじ)八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のこと・三種の神器の一つ)を赤松遺臣が奪回した功績により、加賀(かが)半国を領する大名家として、赤松家は復活。


 そして、応仁の乱では、細川勝元を大将とする東軍について転戦し、山名家から播備作三カ国を取り戻すことに成功したのだ。


「なかなか、大きい町にございますな」

 傀儡師一行は城へとつながる町の大道に入っていた。


 置塩城の麓、夢前(ゆめさき)川沿いの細長い平坦地にその城下町は広がる。


「餅屋がある。餅が食いたい」とは助六。

 歩き疲れて、腹がすいたようだ。


 城下町には、都の風情を取り入れたいという政則の趣向により、大道や小道とよばれる道が整備されていた。その道沿いには板葺き屋根で粗壁塗りの家が並ぶ。


 餅屋だけでなく、かご屋や茶碗屋など日常品を売る店。鼈甲(べっこう)屋や紅、白粉などの化粧を売る華やかな店。様々な店が軒を連ねていて、人々の往来もそれなりにある。少し離れたところには、鉄づくりのためのタタラ場であるとか、鋳物場などがあって、鋼を叩く甲高い音も時折聞こえる。


 この置塩城とその城下町の建設を、赤松政則が命じたのは文明元年(1469年)のことだ。戦乱による中断もはさみながら、二十余年かけて大城郭と都に負けない町づくりがおこなわれた。一度滅びた名族は、また文化的な黄金時代を迎えたのだ。


 そして、置塩城の完成から数えて、およそ三十余年の歳月が経った。

 最盛期に比べれば見劣りはするものの、城下町の賑わいはまだ続いていた。


「これだけ大きな町を見るのも久しぶりだ。不忠云々はさておき、赤松様も沢山の銭をお持ちに違いない。我々への銭払いの方もとんと弾むのでございましょうなあ」

 次郎が親指と人差し指で輪っかをつくって、欲深い笑みを浮かべる。


「がめついのう、次郎は。勿論、銭払いも良かろうよ。とはいえ、我ら傀儡師の仕事の第一は、えびす様の福を日本国中津々浦々へ広めること。それを忘れてはならんぞ」

 作兵衛は次郎をあらためて嗜める。


「えびす様の御利益で我ら傀儡師は飯が食えているわけですから。そこは感謝しないとって、とこですな。しかし、話によれば、赤松家中も最近また物騒だそうで。御家来衆によって先のご当主が隠居させられたとか聞きますよ。新しいご当主も、始終不安で、えびす様にもすがりたいという心持ちになったのでございますかね」


「いい加減に口を慎め。次郎」

 発言がいちいち軽い次郎に対し、作兵衛はピシャリと叱った。


「わしもそういった類の話は聞き及んでおるが、滅多なことを言うもんではない。それに、隠居されたご当主様が戻ってこられるという話も聞いたぞ」


「ああ、それなら、平和な話でよいことでございますな。家来と仲違いして、都を飛び出しちまった公方様とはえらい違いだ」と惚けた返しをする次郎。


 とそこに、陣笠を被った男が駆け寄ってきた。

 置塩城の番兵であった。


「方々、お待ち申しておりましたぞ。摂津(せっつ)国(大阪府北部・兵庫県東南部)西宮から、播磨国までは、さぞ遠かったでしょう。あと少しです。山上までお連れ致します」


 山上につながる大手道の脇にはブナやケヤキなどの広葉樹が茂っている。差し込む陽の光が青の葉を照らし、穏やかな影ができる。


「こちらです」と案内する番兵の足取りは軽い。


 作兵衛たち傀儡師は所々休憩をはさみながらも、番兵に付いていく。歩くこと四十分ほど。彼らは二の丸へ入るための門の前まで来た。


 そこで、来訪者を出迎えたのは、浦上村宗(むらむね)であった。

「遠路はるばる、よく参ってくださった。さあさあ中へ」


 浦上村宗は、赤松家の家臣筆頭であり、赤松宗家をも凌ぐ力を持つ大人物である。備前国を守護代として支配するとともに、美作国にも多大な影響力を持っていた。


 そんな実力者にもかかわらず、生年が不明であって、なかなかに謎の多い人物であった。この当時の年齢も不詳であるが、三十代の脂が乗った時期といったところだろうか。数々の修羅場を乗り越えてきたと見え、傑物としての風格が漂っている。


「こちらこそ、お招き頂き有難うございます。私共、傀儡師の仕事は諸国を廻り、えびす様の有り難い福を配ることでございます。赤松家の方々に福を配ることができれば幸いです」

 浦上村宗は彼ら傀儡師を城内の二の丸南面の広間へ案内した。


「この広間は二代前の松泉院(しょうせんいん)様(赤松政則)が能をご覧になったり、猿楽を披露されたり、茶会や連歌会を行ったりするために作られたものだ。とはいえ、ここ暫くは戦続きでなかなか、その暇がなくてのう。大体は戦の評定に使うということしか出来なかった。この度、夷まわしを行うことができて、とてもうれしく思っておる」


「それは有り難いお言葉にございます。しかし、山上にこれだけの広間を作られるとは、流石、赤松様にございますな」

 傀儡師の長、作兵衛はそう応じた。


「左様、三カ国太守の力たるや、というところだが。そなたらも聞き及んでおるように、御屋形様も幼くして、赤松の家督を継いだため、心労が重なっておる。少しでも、御屋形様のお気持ちを軽くできればと思う。それに本日は赤松家中の者も大勢そろっておる。その者たちへの饗応もせねばならん。準備がなかなか大変じゃ」

 浦上村宗は軽くため息をつきながら、そう述べた。


「それは大変なことでございますなあ。しかし、隠居された先のご当主様が戻ってこられるという良い噂も耳にしました。そうであるならば、幼いご当主様も肩の荷が軽くなるのではありませんか」


「その噂、真の話と思うか?」

 村宗は鋭い目つきで、作兵衛を見た。その真に迫る勢いに作兵衛は耐え難い恐怖を感じた。唾をグッと飲み込む。


「恐がるでない。戯言じゃ」

 村宗は、先程と打って変わって、カラリとした明るい表情。

「今日は宜しく頼むぞ」と言って、作兵衛の背中を二度ほど叩く。


「……ご当主様のためにしっかり勤めさせていただきまする」

 作兵衛は底知れぬ恐れを感じつつ、そう答えた。

 そして、彼ら傀儡師は夕刻まで、準備に励んだ。

序章(1)をお読みいただき有難うございます。

後書きは調べたけれど、小説には書いてないこと。など、私の雑記コーナーです。


作中では、浦上村宗は三十代ということにしています。ただ、『二水記』を参考にすると二十代前半の可能性が……。まあ、作中の主要人物ということで、大物感を出すために少し年齢を水増ししております。


その他、文章評価や史実チェックなど、ご指摘あればお願いします。


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