二章(9)山、動く
大永二年(1522年)十月某日。
但馬国(兵庫県北部)日光院。
日光院(養父市)は、但馬国と播磨国を南北に結ぶ但馬街道から少し離れた山奥にある。
日光慶重が開いた真言宗の古刹で、樹齢二百有余年の大銀杏がその威容を示している。
「長らくの山名家の悲願、播磨国奪回の時は来た!」
時の山名家当主である山名誠豊は大銀杏の下、高らかに叫んだ。
「えいえいえい」大将山名誠豊のかけ声に、兵たちは「おう」と応じる。
垣屋続成などを主力とした山名軍は総勢三千。
その鬨の声は鬱蒼とした森の木々を揺らすほどに力強く響いた。
全盛期に比べて衰えた山名家の威勢を、播磨国奪回によって取り戻す。
誠豊は兵とともに、高く拳を上げて、その決意を固くしていた。
過去の山名家は、室町幕府の将軍に比肩する力を持った大大名であった。
そして、その歩みにおいて赤松家とも浅からぬ因縁がある。
山名家には二度の繁栄期がある。
一度目が、日本に六十六の国があるうちの(実際は六十八か国)十一か国の守護職を務め、「六分の一殿」と呼ばれた時期である。
南北朝の動乱のなかで、うまく立ち回った山名家は多くの領国を支配するに至った。往時の勢力は足利将軍家を凌駕するほどの強勢を誇った。
その十一か国とは、伯耆(鳥取県西部)・因幡(鳥取県東部)・出雲(島根県東部)・隠岐(島根県隠岐)・若狭(福井県西部)・丹波(京都府中部・兵庫県中部)・丹後(京都府北部)・美作(岡山県西北部)・備後(広島県東部)・紀伊(和歌山県)・和泉国(大阪府南部)であり、その支配地域は山陰地方を中心に西日本各地に点在していた。
しかし、出る杭は打たれる。
一族の大黒柱であった山名時氏を失った後、山名家の結束は乱れた。跡を継いだ惣領の山名時煕と、庶家の山名氏清・満幸が対立したのである。
三代将軍足利義満は、この絶好の機会を見逃さなかった。
明徳二年(1391年)、いわゆる明徳の乱が勃発。
室町幕府軍は惣領の山名時煕に与し、庶家の氏清・満幸軍を京都内野にて撃破した。
足利義満の狙いは見事に嵌り、山名家の勢力を但馬・因幡・伯耆の三カ国まで制限することに成功したのだ。
ちなみに、当時の赤松家当主、赤松義則は幕府軍として参戦。論功行賞で、美作国の守護職を得ている。
山名家が弱体化する影で、赤松家は勢力を拡大させたわけである。
さて、辛酸をなめた山名家であったが、不死鳥のように復活する。
二度目の繁栄期、山名宗全の時代だ。
彼が勢力を拡大させるきっかけとなったのが、赤松満祐が六代将軍足利義教を暗殺したことで起きた嘉吉の乱(嘉吉元年・1441年)である。
将軍が殺されたことで混乱していた幕府軍をまとめあげ、叛逆者である赤松満祐討伐に一番活躍したのが、誰あろう山名宗全であった。
山名家は、赤松家が領有していた播磨(兵庫県東南部)・備前・美作三カ国をまるごと手中に収めた。
その後、応仁の乱で、山名宗全が西軍大将となって、細川勝元と天下を二分したことは、よく知られていることである。
その応仁の乱において、赤松政則とその家臣たちは旧領奪回のため東軍に与し、よく戦った。そして、応仁二年(1468年)までに、山名家から播磨・備前・美作三カ国を奪回することに成功したのだ。
しかし、山名家も黙ってはいない。
応仁の乱後の文明十五年(1483年)、山名政豊(宗全の子)が播磨へ攻め込んだ。一時は劣勢に立たされた赤松家であったが、浦上則宗らの活躍で、山名軍を追い出すことに成功し、そして今に至る。
山名家は二度の繁栄期を経験し、赤松家との戦いの歴史も長い。
とはいえ、それは既に過去の話。
山名惣領家は、今や但馬国を一国支配することがやっとの小大名に落ちぶれていた。
赤松政則の反攻によって、播磨・備前・美作三カ国を失ったのは前述のとおりであるが、それに加えて、元来山名領であるはずの因幡国や伯耆国、そして備後国でも庶子が独立傾向を示し、惣領である山名誠豊の権力が及ばない地域が増えてきていた。
そもそも、惣領である誠豊も、垣屋氏や太田垣氏といった国人衆に擁立された身であった。確固たる権力基盤を持たない彼も、既に齢三十。何か目に見える実績を求めていた。
そんな時、播磨国の守護であった赤松義村が家臣によって弑逆された。
そして、浦上村宗と、反村宗の勢力が擾乱を始めた。
これを好機と捉えて攻めずして、どうするのか。
播磨奪回を山名家復活の狼煙とする。
あの西軍大将、山名宗全の孫として、三度目の繁栄期を山名家にもたらす。
その熱い意欲に彼は燃えていた。
日光院での咆哮の後、山名誠豊はさっそく軍を南に進めた。
山名勢三千は、播但の国境であった真弓峠をやすやすと越え、十月二十四日に播磨国の法楽寺(神河町)に着陣した。
法楽寺の前に越知川という小さな川が穏やかに横たわっている。
そして、その小川の向こうに伊豆孫次郎の居城である高峰城が見える。
「彼奴の話通り、山上の詰城は使えんようだな」
山上にあったはずの城は焼け落ち、山麓の居館に数百の兵が見える。
「ひねりつぶせ」
山名誠豊は家臣に号令を出した。
三千の兵が一気呵成に越知川の浅い流れを越える。
山名軍の前衛、足軽部隊は長槍を構えて密集する槍衾の隊形。
槍の林が、伊豆孫次郎部隊に襲い掛かる。
圧倒的な数の暴力。二百の兵は為す術なく後退を余儀なくされる。
「赤松の者ならば、山名なんぞに背中を見せるな! 進め」
伊豆孫次郎は馬上にあって、太刀を振るい、逃げる味方を鼓舞する。
「浦上因幡守(村国)め。死んでも許さぬ」
既に浦上村国は高峰城を後にして、南へ逃げ去っていた。赤松の家臣を名乗るのであれば、山名が播磨へ進む道を開けるなど有り得ないことだ。
伊豆孫次郎は激しい怒りを覚えていた。
しかし、その思いとは裏腹に目の前ではどんどんと家来が敵兵の凶刃に倒れていく。
それを悲しんでばかりはいられない。一心不乱に太刀をふるう。
振り払っても、振り払っても敵の槍兵がイナゴの如く、次から次へ湧いてくる。
このまま、戦場にとどまっては、死は避けられないだろう。
伊豆孫次郎はそう思った。
大将が足軽の槍兵風情に討たれるのは恥である。
しかし、山名に背中を向けて逃げるのは己の誇りが許さない。
ならば、ここで命果てるまで戦い、赤松の将として矜持を示すべきである。
伊豆孫次郎の周囲をわらわらと槍兵が囲む。
まともに戦っては勝てぬと悟ったか。足軽たちは馬の脚を狙って攻撃を繰り返す。
馬はよろめき、飛び上がる。
遂に耐えきれなくなった伊豆孫次郎。
宙に舞い、野辺に放り投げられる。
起き上がった彼が最期に見たものは、自分へ向けられた幾重もの槍の穂先。
勝敗は決した。
山名誠豊は骸転がる、高峰城の居館に堂々入城を果たす。
「さあて、冬になる前に南へ兵を進めるぞ」
城の南には播磨平野へとつながる市川の揺蕩う流れがある。
山名誠豊はそれを見ながら、満足そうに柿をほうぼる。
彼の心は既に広大な播磨平野と穏やかな瀬戸内海へと飛んでいた。
「赤松には内通者がおるからの。今回こそ、播磨国を我が手におさめる」
そう言って、誠豊は柿を右手で握りつぶした。
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播但国境の真弓峠を越えて、山名誠豊勢およそ三千が播磨国へ侵入した。
この報はまず、坂本城(姫路市)にいた小寺則職と別所村治のもとへ伝えられた。
「「はあ?」」
別所村治と小寺則職はお互いの顔を見合わせて、こう叫んだ。
「浦上因幡守(村国)と伊豆孫次郎は何をしておるのだ!」
特に憤慨をしたのは別所村治であった。
小寺政隆も説得して、播磨国の東西二分を合意させた矢先。交渉を終わらせて、三木城(三木市)へ戻ろうとしていたのに、全てはご破算になった。
「昔の強かった頃の山名ならいざ知らず。国人衆に擁立されて弱体になった山名の進軍を許すとは、一体全体どうなっておるのだ。阿呆めが」
怒りに任せて悪口雑言が止まらない。
「特に浦上因幡守よ。あやつは今まで、浦上宗家に敵対して三度すべて負けてきたという。それでも生き残っているのだから、気骨だけはあるのだろうと思ってみれば、このざまよ。しかし、それを見抜けなかった己の愚かさも恨めしい」などと恨み言が次から次へと飛び出す。
「上様! またもや、大変でござる」
坂本城の御殿に慌てて走ってくるのは、別所家臣の後藤新左衛門。
「何じゃ。山名が攻めてくること以上に大変なことなどあるものか」
別所村治は容易に憤りが収まらないのか、重臣にも感情的な態度に出る。
「香西元盛様からの急報でございまして。細川右京大夫(高國)様が、浦上掃部助(村宗)と結んでの播磨攻めを決断されたとの由にございます」
後藤新左衛門は伏して、報告をする。
「何じゃと? そんなことをされれば、真っ先に狙われるのは我が三木城ではないか」
香西元盛とは、細川高國の重臣で、別所村治とも交友の深い武将である。
香西元盛と弟の柳本賢治は、細川高國の播磨攻めを押しとどめてきた。しかし、細川高國は、浦上村宗が小寺・別所連合に敗れ播磨国を奪われたのを重く見たらしい。
「香西様も力至らず申し訳ないとの仰せでございまして」
「申し訳ないで済むか! 香西様は悪くはないが……」
報告によれば、摂津国(兵庫県東南部・大阪府北部)の越水城(西宮市)に兵を三千ばかり集めているということだった。十一月はじめには、細川高國勢が播磨国への侵攻を開始する手筈らしい。
それを受けて、東条谷に拠点を置く依藤氏などの反別所勢力も、東播磨での活動を活発にしているということであった。
細川高國がすぐに播磨へ兵を送ることはないだろう。
別所村治は高を括っていた。
そう考えるのは至極当然の事であった。
第一に、細川高國重臣の香西元盛は別所村治と関係が深い。
播磨攻めの話が出ても、彼が主君を止めてくれるはずであった。
第二に、細川京兆家出身の洞松院が赤松家にいる。
この洞松院の意向を無視して、細川高國が動くことはないはずであった。
実際、洞松院は浦上村宗の専横を快く思っていない。だからこそ、村治は反浦上村宗の兵をあげた。それを無視して、細川高國が動くということは。
「細川右京大夫様は、洞松院様より、浦上掃部助を選んだという事か……」
「細川高國が動き出せば、自然、備前国の浦上掃部助もまた播磨へ攻めてくるということになりましょうな」とは、小寺則職。
小寺氏が西播磨を押さえたとて、浦上村宗の反攻がここまで早く始まってしまっては抑える術もないことは理解していた。
北からは山名誠豊が市川を下って、播磨を蹂躙しようとしている。
東からは細川高國が別所領の東播磨八郡への侵攻を企図している。
西からは浦上村宗が再度の播磨進行を進めようとしている。
小寺・別所連合はまさに絶体絶命。四面楚歌。
その勢力は風前の灯火といったところであった。
「三方から攻められては、我らは終わりじゃ。完全に詰みじゃ」
別所村治は絶望感に打ちひしがれて、頭を抱え、しゃがみこんでしまった。
小寺政隆・則職父子も難しい顔で黙り込んでしまう。
為す術なし。万事休す。勝負あり。
坂本城の御殿には重苦しい雰囲気が垂れ込めていた。
しかし、御殿の外がやたらと五月蠅い。兵たちのざわめき声が聞こえる。
彼らも動揺しているのだろうか。無理もない。
そう思いながら、別所村治は御殿の外に目を移した。
すると、兵たちのど真ん中を、まるで海を割るように突っ切って、悠々と歩いてくる一団があった。その先頭にいるのは鎧を着こんだ髭武者である。
「この程度で詰みとは笑わせてくれるわ。若造めが」
髭武者は大声で、村治を喝破した。
この髭武者、高峰城から逃げ帰ってきた浦上村国である。
「誰かと思えば、臆病者の浦上因幡守ではないか。よくもまあ、のうのうと生きて帰ってこられたな」
絶望にさいなまれても、減らず口だけは止まない別所村治。髭武者へ悪口をまき散らす。
「罵詈雑言だけは立派なものじゃ。一軍の将たる者、虚勢くらい張れねばのう」
「何をしに参った。この落武者風情が」
「そなたらを助けに参ったのよ」
村国のこの言葉に呆気にとられ、別所村治はあんぐりと口を開けた。
「……この窮地を打開する方策がそなたにはあるというのか?」
小寺則職はおもむろに尋ねた。
「左様」
「如何なる方策があるというのだ?」
則職の問いに、浦上村国はことも無げにこう答えた。
「浦上掃部助に頭を下げればよいのです。それで万事解決にございます」
予期せぬ言葉に、小寺則職もまた言葉を失った。
浦上村国による「策」が情勢を大きく動かすことになる未来を、彼らはまだ知らない。
日本の旧国名は68です。それが、2国除かれた理由としてはいろいろな説があるそうです。
陸奥・出羽が守護不設置国のため除かれた。対馬・壱岐が島嶼部であることから除かれた等々。
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