二章(7)東へ西へ
大永二年(1522年)十月某日、同年十月某日、播磨の国の東。
摂津国(兵庫県東南部・大阪府北部)西宮。
西宮は「えびす大神」を祀る西宮神社の門前町として、そして中国街道と西国街道の要衝として栄えていた。
当時の西宮神社は浜辺近くにあった。
現在も表大門近くに残る松林は、浜辺近くに神社が存在していたころの名残である。
神社の境内は大練塀とよばれる、泥と土を突き固めた黄褐色の塀で囲まれていた。
昭和二十五年の大修理の際に、築土のなかから宋銭三枚、元銭一枚が見つかったことから、この大練塀は室町時代に建造されたと考えられる。その堅牢な構造から、熱田神宮と京都三十三間堂のものと並び、「日本三大練塀」としても知られている。
境内にある本殿は、厳かな切妻の屋根が三つ連なり、千木が天を指す。三連春日造、通称「西宮造」とよばれる珍しい構造をしたものである。「えびす大神」を主祭神として第一殿に祀り、第二殿には天照大神と大国主命を、第三殿には素戔嗚尊を祀る。
海に近いこの神社は、航海・漁業の神として、そして、七福神信仰が広まった室町時代には「福の神」として、人々の崇敬を集めるようになった。
その立役者となったのが、西宮神社の北隣、散所(現、産所町)に住む傀儡師たちであった。彼らは夷様の人形操りをおこなって神徳を説き、全国を廻った。
傀儡師の作兵衛は、その散所の自宅で、傀儡を入れる箱を布でせっせと拭いていた。
「商売道具」である傀儡や箱をきれいにするのは日々のつとめの一つである。
心静かにおこないたい作業ではあるものの、外は何やらうるさい。
街道を行く馬のけたたましい鳴き声。
ゴロゴロという車輪の音。
人々が話す声。
街道沿いにあって、人の往来も激しいこの場所である。普段から、静かなことはないのだけれども、ここまでうるさいことはなかなかない。
これは、戦支度だな。
作兵衛は思った。
西宮神社の近くには越水城(西宮市)がある。
越水城には細川高國の家臣である瓦林氏が入っていた。瓦林氏のもとに兵や武器、そして兵糧が集められているのだろう。そう考えれば、馬のけたたましい鳴き声。車輪の音。人の話し声。その喧騒にも合点がいく。
では、どこで戦がおこなわれるのだろうか。
そのように作兵衛が考えているところに、同じく傀儡師の次郎が走りこんできた。
「作兵衛さん、大変だ。兵が城に集まってきてやがる」
相変わらず口が悪いな、と思いつつ、作兵衛は答えた。
「それは察しがつく。何のための戦準備だ」
「はっきりとは分からないが、播磨攻めだとか言ってましたぜ」
「播磨か……」
播磨では、浦上村宗勢が、別所氏と小寺氏と戦っていると聞く。
ということは、管領の細川高國が、浦上村宗へ加勢しようとしているのだろうか。
「播磨といやあ、二年前に夷まわしに行きやしたが。あの後に、隠居した当主様は討たれたし。また、戦とはなかなか荒れてますなあ」
そう言う次郎は何が楽しいのか、ニヤニヤしている。性格の悪さがにじみ出ている。
「もう二年前になるか……。あの幼い当主様は元気でおるかのう」
作兵衛は二年前の夷まわしを思い出した。
幼い当主、赤松政村が子どもらしくはしゃいでいた姿が思い出される。
あの後、播磨国にいた亀王丸が京都に迎え入れられ、足利義晴と名を変え、将軍となった。そして、浦上村宗と敵対していた、前当主赤松義村は殺害された。
福を配りに行ったつもりが、とてもかわいそうなことになった。播磨という言葉を聞く度、作兵衛は心が痛くなる。
彼を救いたいのは、やまやまである。
しかし、傀儡師はあくまで「夷様」の傀儡を操ることしかできない。
聴衆から拍手喝采浴びることがあったとて、それは「夷様」に対する歓声。
所詮、傀儡師は傀儡師。神ではないのだ。
「あの幼さで父親は殺され、家は家来が牛耳っていて、戦はやみませんからな。流石にかわいそうですわな」
次郎にも人の心が残っていたのか。
作兵衛は、そう感慨深く思った。
「おいたわしいよな……。とはいえ、わしら傀儡師のやることはいつも同じ。夷様の福を配ることだけじゃ」
そう言って、作兵衛は西の空に目をやった。
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同じ頃、播磨国の西。
備前国(岡山県)三石城(備前市)内の宇喜多家の館。
「うーん。どうしても、前矢になるのう」
赤松政村はそう言って、溜息をついた。
彼は、弓矢の稽古をつけてもらっている最中である。
白の道衣に黒の弓袴姿はとても様になっている。しかし、矢が的に当たらず、右側に逸れてしまうことが目下の悩みである。
政村の年齢は九歳。段々と逞しい筋肉も付き始めてきた。
とはいえ、筋力が未だ足りず、弓を引く力の強さに弓手(弓を持つ左手)の親指が負けてしまっている。そうなると角見(弓手の親指の付け根)が弱くなり、どうしても弓の当たり所が的の右側に逸れる「前矢」になりやすい。
政村の額から流れる汗を、小姓の定阿が手ぬぐいでそっと拭う。
「四郎よ。どうすれば、矢はまっすぐ前に飛ぶかの」
政村は隣にいた背格好の大きい少年に尋ねた。
「角見が利いていないと、前矢になりやすいです。弓手(左手)の親指は力を入れずにまっすぐに。矢を引く馬手(右手)手の内の親指は弽(指を守るための手袋)の内で反り返っているのがよいですね」
少年はそう答えて、自身も矢をつがえ、弓をゆっくりと押し開いた。
しばしの静寂の後、弦音高く矢が放たれる。その軌道はまっすぐ。
見事、的中である。
「流石、四郎じゃ! わしは鍛錬しておるつもりじゃが、全く、矢が中らんというのに……。どうすれば、いいのじゃ」
「まず御屋形様は体を鍛えられることです。そして、ちゃんとした射法を身につければ、これくらい簡単ですよ。御屋形様も上達はお早いから」
四郎とよばれた少年は額の汗を拭きながら、爽やかな表情で答えた。
この少年、名を宇喜多四郎という。
浦上村宗第一の家臣、宇喜多能家の次男で歳は十二歳と、政村よりは三歳年上である。元服は済ましていないが、父親譲りなのか幼い頃から利発であった。赤松政村が三石城に逃れてきてからは、戦に出ていない四郎が弓術を教えるようになっていた。年が近いため、赤松政村も心を許したのか、話し方も人懐っこいものとなっている。
ちなみに、宇喜多家の嫡男を興家という。彼は英名で知られる父に比べれば、性格は優しいものの能力は凡庸であり、父の能家も家督を誰に譲るか決めかねていた。
三石城に逃れてきた赤松政村の生活は、可哀そうな生活でもなく、案外に落ち着いたものであった。
傀儡にしているとはいえ、当主として仰いでいるのだから、浦上村宗も彼のことを無碍にはできない。ましてや、洞松院の眼もあって、浦上村宗は赤松政村を厚遇した。そして、三国太守赤松家の家督にふさわしい教育を彼につけることにした。
結果、政村は三石の寺で学僧から学問を受け、宇喜多館で武芸を身につけることになった。学問は『四書五経』と総称される儒家の教え、『孫子』の兵法などの漢籍を中心に学んだ。武芸は弓術だけでなく、馬術なども学んだ。
三石は山あいにはあるものの、山陽道の宿場町として栄え、人の往来が大いにあった。
赤松義村との戦で城下に被害を受けたとはいえ、光明寺など、奈良時代からの歴史を持つ古刹も多く、文化的な雰囲気もあった。そういった意味では、政村の学びにとって、それほど悪い環境でもなかったのである。
その宿場町を見下ろす山上にあるのが、三石城だ。
城は標高三百メートル弱の天王山山上にあるのだが、その姿はまさに堅城。
中腹には岩盤が至る所で露出しており、白い山肌が見える。山頂近くにくると今度は幾重にも連なる石垣が築かれている。山全体がまるで、一つの大きな岩のようだった。
登城路も細く、また険しいが、山上の本丸、二の丸などに大きな削平地が広がっており、ここに浦上家当主の邸や家臣団の屋敷もいくつかあったものと考えられる。
余談だが、三石周辺は明治時代以降、蝋石の一大産地として繁栄した地域である。
蝋石は、石筆と呼ばれる筆記具の原料である。コンクリート面や鉄筋に字を書くための道具として、現在も用いられている。それ以外にも、蝋石は溶鉱炉に必要な耐火レンガなどの原料でもあり、日本の近代化に一役買った。三石城跡の向かいにある山では、現在でも露天掘りがおこなわれており、中心を一番底として段々の削平地が幾重にも連なっている様が見てとれる。
さて、この山に囲まれた石の街に、戦で敗れた浦上村宗勢が戻ってきた。
その軍勢は敗残兵とはまるで思えぬほど、意気揚々と城下に入ってきた。浦上村宗はじめ、宇喜多能家、島村貴則らはまるで凱旋してきたかのように堂々とした様子で馬上にあって、城下の者に手を振っている。
山上の宇喜多館からは、城下に戻ってきた兵の顔までは見えないが、その様子は何となしに分かる。
「父上様が戻られた! しかし、小寺や別所との戦で負けたと聞いたが、様子が明るい」
宇喜多四郎は父の帰りを喜びつつ、不思議なことだと首を捻っている。
「たしかに」
赤松政村は弓を置き、一考した。
使者から、三木城の戦で別所氏に敗れた話は伝わってきていた。しかし、坂本城での話はまだ聞いていない。意気揚々な軍勢の様子はまるで勝ったようにすら見える。彼もいまいち状況を掴めないでいた。
細川高國の加勢が望める状況になったのだから、村宗勢がそれだけの余裕を持っているのは当然のことだ。しかし、山上の赤松政村や宇喜多四郎はそのことを全く知らない。
「弓袴姿で、父上をお迎えするのも失礼に当たりますゆえ、直垂に着替えてまいりまする」
そう言って、宇喜多四郎は館の奥へと入っていった。
「わしも着替えるか。定阿、直垂を頼む」
彼らが身支度を整え、出迎える準備をして待っていると、宇喜多能家が家臣たちを引き連れて、館に戻ってきた。
四郎は館の門のところまで走って行って、父親を出迎える。
「父上! ご無事の御帰還。おめでとうございます! 戦の話を聞かせてください」
「そうそう急くな。四郎よ。鎧が重くてたまらん。まずは脱いでから話をしよう」
宇喜多能家はそう言って、四郎の頭を軽く撫でた。鎧は重いけれども、息子の出迎えは嬉しいようで笑顔である。
「はい! 父上」
四郎も素直に応じる。
このような父子の何気ないやり取りを、政村は館の柱の後ろから遠巻きに眺めた。
父がいる四郎が羨ましい。そのように、政村は思った。
とはいえ、それは純粋な羨ましさではない。
宇喜多能家は、父の仇である浦上村宗の第一の家臣であるからだ。
その子、四郎の人柄の良さはよく分かっている。しかし、仇の子である。憎いとは思わないが、妬ましかった。
おそらく、仇とはいえ宇喜多能家も人柄は良いのだろう。そうでなければ、戦から帰ってきて疲れているなかで、子どもの頭を撫でるなどということはしない。
自分の父も彼と同じように優しかった。
しかし、どこかの誰かのせいで、既にこの世にはいないのだ。
羨望と絶望が彼を襲った。
父の死から、一年間堪えてきた。父が夢に出てくる頻度も少なくはなってきていたが、それでも、このような場面を見ると思い出してしまう。彼には込み上げてくるものがあった。
「御屋形様、大丈夫ですか?」
小姓の定阿が心配そうに、政村を見る。
「父子の再会じゃ。わしは心から、それを悦んでおるだけよ」
そう言って、政村は直垂の袖で顔を覆った。
「今日は屋敷に帰りましょう。母上様もいらっしゃいますし」
いたたまれなくなった定阿は主君に声をかけた。
政村は小さく頷いた。
定阿は主君の肩を抱いた。そして、門番にだけ声をかけて、宇喜多館から出た。
「あれー、御屋形様? どこに行かれましたか」
赤松政村を探す、宇喜多四郎の甲高い声が館から聞こえてくる。
しかし、後ろを振り返ることなく、二人は館をあとにした。
赤松政村の生活は荒んだものではなかったが、その心の傷は深く、未だ癒えぬままだった。
現在の弓道につながる流派として、日置流が誕生したのは15世紀後半のこととされます。戦国前期にこの日置流が全国へ広がっていくわけですが、始祖の日置弾正正次も非実在説があったりして、伝説上の人物です。はっきり言って、弓の練習描写も正しいのかよく分からない……。
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