二章(6)別所村治の思惑
浦上村宗勢が撤退し、がらんとなっていた坂本城(姫路市)に別所・小寺勢は堂々入城した。
土塀の周辺には息絶えた敵勢の死体が多く転がっていて、蠅が群がっている。
火矢によって焼け落ちた小屋の跡は黒い炭の塊となっていて、焦げた匂いを放っている。
凄惨な戦の爪痕を残す城内ではあったけれど、御殿などの主郭はほぼ無傷と言って良かった。城の片づけは雑兵に任せて、別所村治と小寺則職は御殿へと入る。
これからの方針について話し合いをおこなうためだ。
「浦上掃部助(村宗)の軍勢を播磨国から追い払えたことは実に目出度い。」
別所村治が勝利を祝す。
「そうでございますな。されど、これは弔い合戦の緒戦の勝利に過ぎませぬ。勝って兜の緒を締めよと申しますし、気を引き締めて参りませぬとな」
小寺則職はそう言って、兜の緒を締める真似をして見せた。勝利の余韻も残るなか、まだ気持ちが浮ついているところもあるのだろう。
しかし、別所村治に気持ちの浮つきはないのか、愛想笑いで済ました。
そして、おもむろに尋ねた。
「勝利したのはよい。それはそうとて、小寺殿。これから、どう動かれるおつもりじゃ?」
「どうするも何も。わしらは祥光院様(赤松義村)の弔い合戦をしておるのですぞ。まずはここで兵を休ませ、兵装を整える。そして、備前国(岡山県東南部)へ攻め入り、掃部助の首をあげるに決まっておりましょう」
小寺則職がそう言うと、別所村治は呆れたという感じで、頭を抱えた。
「どうかなされたか? 別所殿」
小寺則職が訝し気にのぞき込む。
するとようやく、別所村治は顔をあげた。
その眼には嘲りの色が宿っていた。
「どうかしておるのは、小寺殿じゃ。兵を休ませて、我らが備前国へ攻め入ったとて、本当に掃部助の首をあげることができると思っておられるのか」
唐突に飛び出した、煽り立てるような発言に、小寺則職は怒りを覚えた。しかし、それをグッと堪えて答える。
「わしとて、掃部助に容易に勝てるとは思っておらぬ。彼奴等は余力を残して、播磨から兵を退いた。備前国の三石城(岡山県備前市)は以前も攻めたが、かなり堅い城じゃ。我らの兵も万全ではない。楽に勝つことなど有り得ぬ。しかし、それでも、祥光院様への忠義だけは果たさねばならぬと思っておるのじゃ。その気持ちは、別所殿も同じと思っておったが」
別所村治は小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべて、則職の顔を見た。
「いやいや、立派な御仁じゃ。勝てぬ戦であることも分かっていて、それでも主君への忠義を重んじられるとは。これは武士の鑑。領民たちにも慕われるはずじゃ。わしにはできぬことじゃの」
そこまで言って、村治は真顔になった。
「しかし、それでは青臭すぎるというものよ。掃部助に勝ちきれぬことが分かっているのなら、わしと取引をせぬか」
「取引とは?」
「播磨国をわしと小寺殿で二分するのじゃ。東播磨はわしら別所のもの。西播磨は小寺殿のものとして分け合うのじゃ。勝てぬ戦を続けるのは無益でしかない。それどころか、家臣や領民をも苦しませることになるぞ。それほど、悪い話でもないと思うが、どうかの?」
小寺則職は不満そうな表情で、こう聞いた。
「別所殿は最初から、播磨の二分が目当てで我らへ加勢されたのか?」
別所村治は首を左へ少し傾げて、開き直ってこう言った。
「ご明察」
「ふざけるな!」
小寺則職は怒りのあまり、声を張り上げ、御殿の畳をドンと力強く叩いた。
「酒宴の席で、祥光院様の弔い合戦を共に戦おうと言ったのは、嘘だったのじゃな」
「……まあ、そういうことになりますな。わしは東播磨を浦上掃部助から守ることができれば、それで十分。洞松院様も、浦上家の力を削ぐことができればよいと仰っておられた。その目的は既に果たしもうした」
「悪びれもなく抜け抜けと……」
「申し訳ないが、わしはそれほど祥光院様(赤松義村)の御恩を受けた覚えはないのでな。とはいえ、浦上掃部助の専横も許しがたい。そういったところで、小寺殿と利害が一致したということでございます」
別所家が、赤松家内で重く用いられていたのは事実である。
しかし、それは洞松院との関係があってこそであり、小寺家のように赤松義村に近しいわけではなかった。
赤松政則死後の家督争い、いわゆる「播磨東西取合合戦」の時。別所氏が支持をしていたのは、赤松義村の家督相続ではなく、洞松院による執政であった。
赤松義村が当主となってからは、別所家は領内に独自の税を課したり、加東郡の郡代を指名するなどした。浦上村宗が備前国の支配を固めていたのと同様に、別所家も東播磨での支配を固め、自立傾向を強めていたのである。
永正十六年(1519年)から十八年(1521年)にかけて、赤松義村は何度も浦上村宗を攻撃した。小寺家は義村を支持し、行動を共にすることが多かった。しかし、別所家はこの戦いを静観することに終始した。
であるから、別所村治の立場というのは実に一貫しているのだ。
東播磨での別所家の権益を守る。
洞松院を支持する。
この二つに合致したからこそ、今回の浦上村宗との戦いに参加したのだ。祥光院(赤松義村)の弔い合戦とは、反浦上村宗勢力がまとまるための方便に過ぎない。別所村治はそう割り切っていた。
しかし、小寺則職は納得がいかない。
「度し難い悪党じゃな」と罵声を浴びせる。
「随分と手厳しい物言いでございますなあ。しかし、小寺殿も悪いのでございますよ。わしとて、浦上掃部助は大嫌いじゃ。主君であるはずの祥光院様(赤松義村)を騙し討ちにする暴挙。これは許しがたい。……とはいえ、祥光院様の嫡子である政村様が、三石城の掃部助の手元にある。これでは、弔い合戦にはなり得ませぬな。せめて、小寺殿が政村様を引っ張ってくだされば、弔い合戦になったでしょうが」
「……」
小寺則職は押し黙った。
赤松政村を浦上村宗にとられた。この失着の大きさは身に染みて分かっていたからだ。
「一旦、ここで矛を収めませぬか。しっかり、我々で播磨国を押さえて、力を蓄えることができれば。いずれ、掃部助を討つ機会も訪れるやもしれませぬぞ」
別所村治はそう諭した。
相変わらず、小寺則職は口を固く閉じて押し黙っている。
「別所としては多くは望まぬ。今の東播磨八郡がもらえれば結構。それより西は小寺殿にお渡しいたす。居城である御着城は勿論のこと、御屋形様を迎えるための置塩のお城も、播磨随一の港である室津もすべて、小寺殿のもの。如何でござろうか」
東播磨八郡とは、美嚢・明石・加古・印南・多可・神東・加東・加西の八郡である。およそ、明石から加古川流域くらいまでといった地域である。加古川という大規模河川もあり、平野もあって、それなりに実りの多い地域ではある。しかし、それを確保したとて、別所村治にとっては現状維持にしか過ぎない。
一方、小寺家にはそれより西をすべて渡すと言う。姫路から赤穂まで、播磨平野の中心部の最も米の収穫量が多い地域を全部。これは破格の条件と言ってもよいものであった。
ただし、龍野城(たつの市)の赤松村秀など、諸勢力を抑え込むことができればの話だが。
現実的に考えれば、今すぐに浦上村宗を討つことはできない。
であるならば、播磨一国をまず押さえる。それを目標としてもよいのではないか。
そう思いながら、小寺則職は幼君赤松政村の言葉を思い出す。
昨年のえびす舞の折、「そなたらさえいれば、千人力、いや、万人力じゃ」との言葉をもらった。
淡路へ渡る時も「一所懸命戦うことを信じておる」との書状をいただいた。
悩む小寺則職はなお押し黙ったままだ。
別所村治はその様子を見て、矢継ぎ早に言葉を繰り出す。
「忠義を重んじる小寺殿が悩まれるのはよく分かりもうす。しかし、我々は赤松家の臣下であるとともに、領民たちの主君でもある。民の安寧を守るのは、主君の務め。勝てぬ戦を続けて、民を疲弊させるよりも。ここで手をうつのが「徳」ある主君の為すべきことと思いますが。如何かな」
淡路を離れて、福泊に戻ってきたときの領民の喜びようを、小寺則職は思い出した。
民を苦しませてまでも、小寺家は戦いを続けてきた。
しかし、別所家は備前国まで攻め入る気はさらさらないようだ。
主君の赤松政村を擁していない以上、「弔い合戦」の名目で別所家を引き留めることはできない。
小寺家が単騎で備前へ乗り込んでも、負けるは必定。
播磨国を二分するのは、あくまでも浦上村宗を倒す力を得るため。
「弔い合戦」を諦めたわけではない。
今の主君である、赤松政村を裏切るわけでもないのだ。
そうやって、自身の思いを無理やり整理する。
ここは「取引」を受けるしかないのではないか。
小寺則職は苦渋の決断に至った。
「そこまで譲っていただけるのならば。一度、父の政隆に話を通してみましょう」
小寺則職はようやく提案を受け入れた。
主君の期待を裏切ることになってしまった。やるせない気持ちで則職の表情は歪む。
「是非、よいご返事をお待ちしておりますぞ」
別所村治は満足の笑みを浮かべる。
小寺に播磨の穀倉地帯を渡す。勿論、これも彼なりの目論見があってのことである。
別所家としては東播磨八郡を維持できればよかった。不必要に多くの土地を抱え込んでも統治が困難になるだけである。
小寺家に渡した西播磨は、浦上村宗との緩衝地帯にさえなってもらえば、それでよいのだ。
いずれ、浦上村宗は備前国を出て、再度の反攻に転じるだろう。
その時に攻撃の第一波をすべて被るのは、西播磨をおさえる小寺家だ。
もし、浦上村宗勢が思いのほか強かった場合は、小寺家を裏切って、村宗の軍門に降ることも厭わない。そして、小寺領を東西から挟撃し、分割すればよいとすら考えていた。
播磨の東、摂津国(兵庫県東南部・大阪府北部)を押さえる管領、細川高國の動きは懸念材料ではある。浦上村宗と同心して、別所領を攻めてくる可能性はある。
とはいえ、細川高國の重臣である香西元盛やその弟の柳本賢治と、別所家は密に連絡を取り合っていた。細川京兆家に不穏な動きがあれば、そこから情報は来るだろう。
別所家は自領を守ることを第一と考え、小寺家を捨て駒にしても良いと考えていた。
一方の小寺家は西播磨全てを手にできるとはなったものの、別所家への不信感を持つことになった。
浦上村宗の思っていた通り、小寺と別所の思惑は大いに違っていた。
亡き赤松義村の弔い合戦などは夢のまた夢。結局、互いの利を優先し、現実を見て妥協する。そのほころびは既に顕在化していた。
両家の様々な思いが交錯する中、ともあれ、当座の盟約が結ばれることとなった。
播磨国は別所家と小寺家で二分されることになったのである。
「春日社司祐維記」によれば、この時点で別所氏と小寺氏で播磨国の半分を領するという状態だったそうです。播磨国二分割という話へいくには飛躍がありますが、相当な勢力であったことはうかがえます。
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