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二章(4)宴のはじまり

 大永二年(1522年)九月早朝。

 淡路国岩屋(淡路市)から、百隻あまりの大船団が出航した。

 浦上村国(むらくに)、小寺政隆(まさたか)則職(のりもと)父子、そして伊豆孫次郎(まごじろう)らは「関船(せきぶね)」とよばれる中型船に乗る。その周囲を「小早(こばや)」とよばれる小型船が取り囲む。

 穏やかな瀬戸の海を大船団は悠々と進む。

 漁に出た船は、船団の姿に怯えて航路を急いで変える。

 安宅(あたけ)氏が用意した船団の錚々たる姿。魚鱗の陣形を維持しながら、上陸予定地の播磨国(兵庫県東南部)印南(いんなみ)郡へと向かう。


「ようやく、掃部助(かもんのすけ)(浦上村宗)から播磨国を取り戻す時が来たわ」

 浦上村宗勢による妨害も一切なく、小寺則職らは印南郡の福泊(ふくどまり)(姫路市)への上陸を果たした。


「一戦交えることもあるかと思ったが拍子抜けであったな。浦上因幡守(いなばのかみ)殿(村国)」

「百隻の小早をかくも容易に準備できる者など、なかなかありませぬからな。掃部助が、児島(こじま)(岡山県倉敷市)や塩飽(しわく)(香川県・岡山県境)辺りの水軍を引き抜こうとしても、播磨までと言われれば遠すぎて従う者などおらぬでしょう」

「それもそうか」

 ハハハと大きな声で笑って、小寺則職はいたって上機嫌である。


(安宅水軍とまともにかち合って、いたずらに兵を摩耗させるほど、掃部助が愚かなわけなかろう)

 浦上村国は内心そう思ったが、当然口には出さない。


 小寺家のお膝元である福泊には、政隆・則職父子への加勢を望む五百を超える人々がいた。

「お殿様の御帰りじゃ」

「これからの大戦、腕が鳴るわい」

 粗末な陣笠を被り、鍬を掲げる百姓たち。貧弱な兵装でも、主君のために戦おうという意気に溢れている。

 腹当(はらあて)で一応の防御を固め、長槍を持った足軽たち。彼らは戦働きでの褒賞狙いだろうか。

 

「足軽に百姓共、忠義を忘れず、よくぞ参った」

 小寺則職の呼びかけに、男たちは拳を高く振り上げ、雄々しい咆哮で応える。

「しかし、戦場はここではない。伊豆孫次郎殿の居城へ入り、そこで陣容を固める。付いてまいれ!勝てば、褒美は弾むぞ」

 その呼びかけを受けて、足軽や百姓たちは喜々として、小寺軍へと加わった。


 景気がよい呼びかけに反して、小寺軍の内実はそんなに調子のよいものでもない。


 福泊は播磨平野の最南部にある。小寺軍の兵数は増えたとはいえ、装備が脆弱な雑兵揃い。万が一、播磨に進出した浦上村宗の急襲を受けるようなことがあれば、兵装の差で負けは必定。


 しかし、山がちな播磨北部まで進むことができれば、地の利により、劣る兵装も幾分かは補うことができる。そして、播磨北部には、伊豆孫次郎の居城である高峰城(たかみねじょう)(神河町)がある。そこまで、早急に行軍し、防衛上安心できる場で陣営を固めたい。その思いが小寺則職たちにはあった。


 そうこうしている間に、淡路を発った小寺及び浦上村国・伊豆孫次郎勢の全てが福泊の港へ無事に着いた。百隻あまりの小早から五百人ほどの兵がぞろぞろと下りてくる。弓や刀などの武具を船から下ろして、軍の隊形を整えていく。


 安宅水軍を操っていた安宅活興(あたけかつおき)も、小寺則職のもとへ別れの挨拶に訪ねてくる。

「小寺様の兵を一兵も損ねることなく、無事お送りできました。拙者が案内できるのも、ここまで。我ら水軍は淡路に帰らせていただきまする」

「我らが再起できたのも、細川六郎(晴元)様と、そして陰に陽に支えてくださった安宅殿のお蔭。本当に感謝しておりまする」

「赤松家の復興のため、御武運を祈っておりまするぞ」

 安宅水軍の百隻余りの大群が福泊を発つ。

 その勇壮たる姿を、小寺則職らは深い感謝とともに見送った。

 

「さて、行くか」

 福泊から、但馬(たじま)国(兵庫県北部)との国境に近い高峰城まではおよそ十里(40キロメートル)ほど。行軍は丸一日かけておこなわれた。


 播磨平野の豊かな水をたたえた水田地帯を抜けて、山に囲まれて鬱蒼とした木々の茂る谷筋の道へと入っていく。その立ち寄る先々で兵を糾合し、兵数は千五百近くまで膨れ上がった。兵列はどんどんと細長くなっていった。

 細長い兵列を攻撃され、分断されてはひとたまりもないと、小寺則職は内心ハラハラし、兵の歩みをできるだけ急がせた。急いだ甲斐もあってか、浦上村宗による攻撃を受けることもなく、兵は無事に播磨北部までの進軍を果たした。


そして、伊豆孫次郎の居城である高峰城に着いた頃には月も天上高くに光を放つ真夜中。小寺兵らはそこに陣を張って、ようやく穏やかな休息へ入った。


 この動きに呼応する形で、東播磨の三木城(三木市)城主である別所村治(むらはる)も、浦上村宗に敵対する姿勢を示した。



 小寺・別所の動きに対する、浦上村宗の反応は早かった。

置塩城(おきしおじょう)(姫路市)は戦場からあまり離れておりませぬ。御屋形様(おやかたさま)(赤松政村)に何かあってはいけませんので、私の居城へ入られませ」

 ということで、まず赤松政村や母の松、そして、洞松院(とうしょういん)らを備前(びぜん)国(岡山県東南部)の三石城(みついしじょう)(岡山県備前市)へ移動させた。


 名目上は、三人の命を守るためということである。しかし、勿論それだけが狙いではない。

 赤松家当主を確保しておくことによって、自らの立場の正当性を担保すること。さらに、洞松院も自身の監視下に置くことで、洞松院と別所氏の連携を妨害する意図もあった。


 その後、浦上村宗は播磨国へ二千の兵を率いて進軍。三木城の別所氏を攻撃した。



 さて、迎え撃つ別所氏の三木城であるが、本丸は標高五十八メートルの小高い丘の上にあった。二十メートルの切崖に囲まれ、北方と南方に空堀があり、守りは堅い。本丸の辺りに矢倉や御殿があって、北側にはかんかん井戸と呼ばれる井戸もあり、長期の籠城戦の備えも万全であった。

 また、城の周辺にも小高い丘がいくつかあって、別所氏の兵を埋伏させることもできた。さらに、城から向かって西方には美嚢(みのう)川が横たわり、敵の行軍を抑える役割を持っていた。


「掃部助め、返り討ちにしてくれるわ」

 籠城側の別所村治勢およそ七百は血気盛んであった。

敵の来襲を見越して、兵は甲冑で身を固め、弓矢や投石用の(つぶて)の準備も万端である。三木城城下の住民は城内に避難させている。


 九月で収穫には幾分早い時期だったが、領内の稲は既に刈り取って城内の蔵に入れてある。早めの収穫だったので米の粒は小さいが、食料に困ることはない。何より、苅田狼藉(かりたろうぜき)といって敵に兵糧を奪われる心配もない。しかも、城内には干しわらびやかんぴょうなどの非常食も豊富にある。城の備えは万全だ。

 そこに、浦上村宗勢およそ二千がわらわらと攻め寄せてきた。


「放て!」

 別所家臣の後藤新左衛門の命により、城内西方に並んだ弓隊が一斉射撃をおこなう。

 当時の弓の射程は四百メートル以上。

 小高い丘の上から放たれた矢は放物線を描き、黒い雨のように村宗勢のもとへと降り注ぐ。


 大量の矢の雨を浴びた村宗勢。

 矢が刺さり、悶え苦しむ者もあれば、掻楯(かいたて)で矢を防ぐことに成功する者もいる。しかし、掻楯は人の背丈ほどある大きな木製の楯である。支えとよばれる棒を持ちながら、進軍するのだが、如何せん楯そのものが大きい。行軍の速度も自然遅くなる。


 村宗兵の行軍がゆるんだ隙を狙って、城近くの丘に埋伏していた別所の兵があらわれる。

 前方の矢の対処に追われていた村宗軍の横っ腹に、打刀を振りかざした別所の足軽隊が猪突猛進襲い掛かる。隙をつかれた村宗の兵は大混乱。掻楯を捨て、蜘蛛の子を散らすように一斉に走って逃げる。そこを好機と見た別所の兵は、背中を見せ逃げる敵勢を追いかけて、バッサバッサと情け容赦なく後ろから斬りかかる。


 村宗勢の前衛はまさに総崩れ状態。その惨状を後方の本陣で伝え聞いた浦上村宗は、即座に撤退を決意した。


 勇猛な武将として知られる宇喜多能家(よしいえ)を、自軍の撤退を支えるための殿(しんがり)として置き、村宗勢は退却を始めた。兵数で劣る別所勢は野戦による兵の損耗を抑えるため、積極的な追撃戦には出ず、村宗勢の撤退は成功裡に終わった。


 手負いの者も一定数でたが、別所領の東播磨にいては攻撃される危険性も否定できない。村宗勢は大きく後退し、遠く書写山下の坂本城(姫路市)まで戻った。

 ここに、村宗の三木城攻めは完全なる失敗に終わったのである。


「案外、掃部助の兵は脆いものだったな。さて、小寺殿と合流し、彼奴等を播磨から駆逐するか」

 別所村治は想定以上に完璧な勝ち戦で終わったことに気を良くした。そして早速、家臣の後藤新左衛門に命じて兵の進発を準備させた。


 別所軍およそ千五百騎は三木を出て、後に「ひめじ道」と言われることになる街道を西へ進む。この街道は、播磨の巨大河川である加古川と当たるところで南に方向を変えて、賀古(かこ)及び姫路につながる街道である。大きな山もなく、道は平坦で馬も使えるため、行軍も速い。


 一方、小寺父子の軍およそ千余騎も播但国境の高峰山城を出て、市川沿いの谷筋を南へ向かう。こちらも別所軍と向かう先は同じで姫路方面である。谷筋の道は細く、行軍は遅い。ただ、高峰山城である程度、武具を整えることができたので、兵たちの士気は高くなっている。


 ちなみに、浦上村国及び伊豆孫次郎はというと、播但国境の高峰山城に留まったままである。


 但馬国には山名誠豊(のぶとよ)がいて、内乱中の播磨を虎視眈々と狙っているとの噂が絶えない。そのため、山名への警戒要因として配置されている。

 城内には五百ほどの兵しかおらず、国境警備の任に堪え得るかは聊か疑問であったが、いないよりマシだということだろうか。


 大永二年十月初旬になって、別所・小寺両軍は姫路城で合流した。その兵は合わせて三千騎ほどに達していた。


「別所殿の御活躍聞いておりますぞ! 三木城で掃部助の兵を蹴散らしたそうではございませぬか。実に目出度い。その武勇は播備作(ばんびさく)三カ国に鳴り響いておりますぞ」


 姫路城は小寺則職の居城である。その御殿で則職は別所村治のために酒宴の席をもうけ、手厚く歓待した。秋めいて少し肌寒くもなってきた季節。御殿の外にはススキが月に照らされて、穏やかな風に身をまかせている。


 小寺家臣団も別所家臣団も長い行軍を経ての久しぶりの酒席。気分も高揚している。

 小寺則職も酒席の主宰として、精いっぱいの愛敬を振りまきながら、別所村治の盃に酒を注いだ。


「小寺殿直々に注いでいただけるとは、実にかたじけない」

 別所村治は盃に注がれた酒を一口で飲み干した。


「別所殿もなかなかいける口でございますな」


「一杯程度でいける口などと。拙者はまだまだ飲めまするぞ。そんなことより、小寺殿も淡路国からの堂々たる御帰還。実に目出度い。福泊では小寺殿の出迎えのために領民も多く集まったと聞いておりまする。戦働きも大事ではあるが、我ら武士は領民に慕われることこそ、最も肝要。徳のある仁政を心掛けておいでなのでしょう。ささ、小寺殿にもお注ぎ致す」


「仁政とは有難いことを言ってくださる。別所殿の盃も空になってしまいましたから、またお注ぎ致す」

 小寺則職、別所村治の二人は、不自然なほどに互いを褒め合い、互いの盃に酒をなみなみと注いだ。


 向かい合い盃を天に掲げて、一気に飲み干す。

「掃部助を討ち果たし、亡き祥光院(しょうこういん)様(赤松義村(よしむら))の弔いと致しましょうぞ」

「無論」

 二人は右手を握り合い、浦上村宗と戦う意志を確かめあった。

別所氏の三木城ですが、後に「播磨三大城」と称される堅城となります。

羽柴秀吉率いる兵に抵抗した結果、「三木の干殺し」と呼ばれる壮絶な籠城戦を強いられます。

籠城期間はなんと1年10か月。

その間に、城兵の死が相次ぎ、時の城主別所長治が自害して開城したのは有名な話です。

羽柴秀吉を手こずらせるほどの堅城になるには、それなりの戦歴が必要となるわけで。

今作が進めば、また三木城の話も出てくることでしょう。

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