第2話
どれくらいの時間が経ったのだろう。
シンは、朦朧としながらも意識を徐々に取り戻しつつあった。
工業用の油の独特な匂いがする。
部屋には錆びた鉄屑と空の薬瓶が転がっている。どうやら何かの工場の部屋らしい。
時計も窓も無い空間では、今の時刻を知る由もない。
動きようにも手足を縛られていて、横たわったまま身動きが取れない。
コンクリートの冷たさが顔から伝わってくる。
監禁部屋の鍵が外される音がした。
扉が開かれて、ルイが薄ら笑いを浮かべて入ってきた。
「シン……頭は冷えましたか?」
横たわったまま鋭い眼差しでシンはルイを睨みつけた。
「冷やすも何も……俺はなんもしてねぇっつってんだろ……わざわざリーを殺してまで嵌めやがって……一体なんのつもりだ……?」
「私はただ、兄さんの命令に従っただけです」
ルイが勝ち誇ったような顔をして近づいてくる。
(……もう少しだ……もう少し、ヤツの注意を引いて……)
「……あんなヤツが飼い主だと、飼われる方も大変だな」
シンは、ルイを呼び寄せるかのように挑発する。
その言葉に、ルイの目つきが変わった。
「お前に頼まねぇと俺1人好きにできねぇなんて……アイツももうろくしてきたか?」
更にシンはルイを挑発する。
(もう少し……こっちに来い……)
からかうようにシンが言い終わるのと同時に、ルイは近づいて来てシンの前髪を掴んだ。
「いッ……」
(もう……少し……)
「……前にも言ったはずだ……口のきき方には気をつけろ……兄さんのことを悪く言うのは許さん」
ルイがシンの目を覗き込もうと顔を近づけたそのときに──今だ!
シンは、吸血鬼の特徴である長い犬歯を伸ばして、ルイの首筋に噛み付いた。
「なッ!」
不意をつかれてルイは怯んだ。ルイの首から血が飛び散る!
慌ててシンの頭を振りほどいて、シンの顔をコンクリートに叩きつけようとした。
しかしシンは体を回転させて立ち上がった。そのまま復活した筋力によって、手足の縄を引きちぎった。
「忘れてたみてぇだな……俺たち吸血鬼には、仲間の血が一番栄養価が高いってことを!」
「チッ、くそッ!」
首を抑えるルイのみぞおちに膝を入れて、間髪入れずにこめかみに拳を打ち込んだ。
「ガッ……」
あっという間に気絶したルイは、床に倒れ込んだ。
「……ぜってぇ真実を突き止めてやる!」
ルイの持っていた拳銃を奪って、シンは部屋をあとにした。
※ ※ ※
廃工場から抜け出して、なるべく大通りを避けながらシンは歩いていた。
足取りがフラフラとしていておぼつかない。
日差しがシンの体力を奪っていく。
(……もう少し、ルイの血を奪っておくべきだったか……いや、同属の血を糧にする、俺は落ちぶれちゃいない……)
だんだんと意識が朦朧としていく。
(早く、早く日陰に入らねぇと……)
路地裏に入り古い建物がある。一刻も早くどこかの部屋に忍び込むしかない。
手すりを持ちながら階段を上る。息が荒く鼓動も早い。足を一歩踏み出すごとに、吐き気を催す。
2階の廊下に出て、一番日の当たらそうな部屋を目指す。
部屋のドアが何重にも見える。もう限界だ。
シンは、最後の力を振り絞りって、ドアノブを掴んで回した。
幸運にも鍵はかかっていなかった。
(た……助かった……)
シンはそう呟いて、気を失ってしまった。
※※※
アパートの2階の欄干に巻き付いているツタの影は、西へと沈む陽によって背を伸ばしている。黄昏が遙か彼方まで広がっていて、夕闇を連れて来ようと誘っている。
駅から続く古い家が並ぶ道には、井戸端会議をする主婦たちの姿や遊び回る子どもたちの姿もない。閑静な住宅街と言えば聞こえが良くて、実際には駅から少し離れた人気のない所だ。
しんとした帰宅路を、東怜が歩いていた。
道路のアスファルトが剥げた白い部分は、アパートの敷地まで侵食している。境目には塀などは無くて、誰の物か分からない自転車だけがぽつんと1台置かれていた。
建物の一部と化している自転車の横を通り過ぎて、怜は自分の部屋へ向かうために階段を上る。
一段一段足場の鉄の板は錆び付いていて、元の色が何色であったのかは分からない。手すりだけは新しく塗装されていて、建物全体の雰囲気から浮いてる。
(いや……どうして手すりだけ直したの……)
普通の場合とは違って、この階段は上るときの方が気をつけてしまう。
(そろそろほんとにこの階段抜け落ちるんじゃないかな……)
足元に不安を感じながらも階段を上り終えた瞬間に、風が強く吹いた。
「っ……」
風は夕陽の方に怜の顔を向けさせた。
「…………」
いつもと変わらない茜色の景色を、怜はただ見ていた。
階段から移動して続く廊下の先に、怜の部屋があった。
怜は、自分の家の鍵をかけたことがない。怜の故郷では、近所の人は皆顔見知りばかりなので鍵をかける習慣が無かった。
「……あれ?」
怜はドアノブに手を伸ばしたときに、違和感を感じた。ドアが少し開いていたのだ。
(え……誰?)
怜は、思わずその場で立ち止まって部屋の様子を観察した。
(泥棒?……空き巣?……酔っ払いの人かも……警察? 警察呼ぶ?でもこんなことでお巡りさん呼んでも良いのかな……)
その場を動けずに、怜は背伸びをして様子を窺っている。
倒れている男は、ピクリとも動かない。
(全然動かないじゃん……まさか、死んじゃってるとか!?)
頭の方までゆっくりと回り込む。しゃがんで覗き込んで見えた横顔は、想像していたよりも幼かった。
「えっ」
「……うっ……あ……」
驚いて出た怜の声に、シンは目を覚ました。呻き声を出して、瞬きを繰り返している。
「あっ、えと、その……大丈夫?」
声のする方へと顔を上げる。怜の存在に気が付いたシンは、目を見開いて驚いた。
「なッ……に……」
(人間!?)
倒れていた体を素早く起こして、立ち上がろうとする。立ちくらみが起こって、シンは壁に手をついて体を支える。
「あっ、そんな急に立っちゃだめだよ。疲れてるなら座っておきな」
体を支えようと怜が伸ばした手を、シンは無意識に払いのけた。
「「あ……」」
2人の声が重なった。
「……」
「えと……ごめんね。急に触ろうとしたらびっくりするよね」
「いや、その……大丈夫、自分で立てる」
怜の目はシンを見ているのに、シンは怜の顔を見られなかった。2人の視線は交わらない。
「ほんとに? 顔色も良くないけど、大丈夫? 救急車呼ぼうか?」
「……! いや、救急車はいい」
「でも……」
「心配しなくていいから……ほんとに、大丈夫……それより、ちょっと教えてほしいんだけど……ここは、アンタの部屋?」
「……? そうだよ」
「……そうか」
眉間にシワを寄せたシンを、怜は不思議そうに見ている。
「あっ……もしかして、部屋間違えた?」
「あ、あぁー……そんな感じ」
「なんだ、そうだったんだね。だったらお隣さんかも」
「! ……そ、そうかも」
シンは怜の話に合わせることにした。
「そう、だったら、隣さんまだ帰ってないみたいだったし、戻るまでこの部屋で休んでるといいよ」
隣の部屋の住人の知人と分かった怜は、安堵の表情を浮かべた。
「……悪いな、助かる」
※※※
「悪い、トイレ貸してもらえるか」
空腹が続いているからか腹の辺りが少し痛い。シンはトイレを借りようと怜に尋ねた。
「トイレはね、キッチンの後ろの扉だから」
「サンキュ」
シンは腰を上げて、ゆっくりと立ち上がろうとしたときに、腰とローテーブルの間でガコッと重い物音がした。
「?」
立ち上がったあとに、シンは自分の腰へ伝わった感触を不思議に思って振り向いた。
捲れた上着の下には、ルイから奪った拳銃が入っているホルスターが顔を出している。銃がローテーブルに引っかかった音だ。
(しまった!)
「どうしたの?」
目の前に座っていた怜は、鈍い物音と振り向いたシンが気になった。
膝を立てて、音が鳴ったシンの後ろ側を覗き込もうとする。
「あっ、いや!別に……立とうとして、腰ぶつけただけだから!」
(コレを見られるのはまずい……!)
体の向きを変えて、腕を後ろへ回して上着に着ていたパーカーの裾を引っ張る。
「……?」
不自然に後ろへ回された両手に、怜は疑問を持った。
(……何か隠してる……?)
怜は立ち上がって、訝しみながら無言でシンに近づく。
怜が一歩前に足を出すたびに、シンの足は後ろへ退がる。シンの踵と髪の毛が壁に触れて、もう逃げることはできなかった。