セラフィーナ 03
セラフィーナが心待ちにしていた温室は、着工から一カ月後に完成した。
全面がガラス窓で囲まれていて、冬でも陽光を集めて蓄熱する造りとなっている。庭の景色は黄金から灰色がかったものに変化してきたが、この温室の中ではまだ鮮やかな色々を楽しむことができた。少し早い木枯らしがガラス窓を揺らす中、セラフィーナは機嫌よく温室内の花を世話していた。
「セラフィーナ」
すぐ近くで聞こえた声に、セラフィーナは驚いて顔を上げる。夢中になっていて、レナートが温室に入ってきたことにまったく気がついていなかった。
「レナート様、どうされました? まだ、お昼を過ぎたばかりです」
予定より随分早い帰宅に、セラフィーナは小首をかしげた。
「急なキャンセルがあったので戻った。今日は一緒に夕食を」
「本当ですか?」
セラフィーナが顔を輝かせると、レナートも穏やかな表情でうなずいた。
それからレナートは、あらためて温室の中を見渡した。
「見事だな」
感心したようにつぶやいたレナートに、セラフィーナはまるで自分自身を褒められたかのように上機嫌になる。
「そうでしょう? 温室の中だから、こうやって美しいまま越冬させることができます。レナート様のおかげです」
「いいや、君の世話の賜物だろう」
そんな風に言われて、セラフィーナはますます気を良くする。ステップを踏むかのような足取りで、レナートの前に進み出た。
「レナート様、こちらも見てください」
色とりどりの鉢植えが並ぶ一画を過ぎ、セラフィーナが大きく手を広げて案内した場所では、辺り一帯に爽やかな香りが漂っていた。
「……オレンジか」
太陽のような実がなった大型の鉢をいくつも並べたその場所で、セラフィーナはうれしそうにうなずいた。ガラス窓の外の世界と、ここだけ季節が違うようだ。
「温室が出来上がるのを待って、取り寄せたんです。レナート様にたくさん食べてもらいたくて。とっても体に良いと聞いています」
そう言うと、レナートは驚いた様子でセラフィーナに向き直った。
「……私のために、取り寄せたのか?」
そんな風に言われると、なんだか恥ずかしくなってしまう。セラフィーナは困ったような顔で笑って言葉を選んだ。
「もちろん、わたくしも食べますよ?」
そうするとレナートが、ふいにセラフィーナとの距離を詰めた。
驚いてレナートを見上げたセラフィーナに、レナートは腕を伸ばす。セラフィーナの頬に、そっと手が添えられる。レナートの瞳の奥にセラフィーナだけが映りこんでいた。
「すっかり冷えている。いくら温室とはいえ、暖炉があるわけではない。屋敷の中とは違うのだから、あまり長くいるのは良くない。少し前にも君はひどい風邪をひいたばかりだ。私のために色々としてくれていることは分かっている。だが、無理はしないでくれ。君が体を壊さないか、心配だ」
セラフィーナは、何も言えずにいた。
心配するというよりは、請うようなレナートのまなざし。
こんな距離で、こんな風に見つめられてしまえば、さすがのセラフィーナもくらりときてしまう。心臓の鼓動を聞かれまいと、一歩後ろに下がろうと思うのだが、思いに反してセラフィーナの体が動かない。
レナートの指先から温もりが伝わってくる。その体温にすがりついてしまわないように、セラフィーナは動かない体の代わりに必死で頭を回転させる。それは一種の防衛本能のようなものだった。
レナートがはじめに言った言葉を思い出す。
「愛」ではない。たぶんこれは、「友情」とか「信頼」の類のものだ。勘違いしてはいけない。セラフィーナだってそれで良いと思っていた。ならばこの胸の高鳴りは、無視するに限る。
そうしてセラフィーナは、ある結論に至った。
「ありがとうございます、レナート様。お優しいですね。まるで、本当のお兄様のようです」
行き惑いそうになった気持ちを、良い場所に着地させた。
ほほえみながらセラフィーナは内心でそう思っていたのだが、レナートはわずかに表情を強張らせて、動きを止めた。
「レナート様?」
ややして、その手をセラフィーナから離してレナートは、困惑したような声を漏らした。
「……私は、君の兄ではない」
真面目にそう答えられて、セラフィーナも慌てる。
「あの、もちろん、例えですよ?」
「分かっている。だが、私は君の――」
そこから先、レナートの言葉が続くことはなかった。レナートは、いよいよどうしていいか分からないといった顔をして、口をつぐんでしまった。
「……レナート様、どうされました?」
そう尋ねるのだが、レナートは「いや……」と言葉を濁すばかりなので、セラフィーナもついに言葉に詰まってしまう。
二人の間に珍しく気まずい沈黙が流れた後、ややしてレナートが小さな息とともに言った。
「すまない。少し時間をくれ。……とにかく、戻ろう」
そうして差し伸べられた手に、そっと自分の手を重ねる。
触れあった指先が熱い。今までだって何度もあったはずなのに、妙に胸がどきどきと落ち着かなくて、セラフィーナは困り果てていた。