レナート 04
夜になって屋敷に戻ったレナートを、セラフィーナはにこやかに出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ」
レナートはうなずいて、セラフィーナの側にいた使用人にコートを預ける。
「今日はまだ君と過ごしていなかった。何をして過ごす?」
何気なしにそう問うと、セラフィーナは目を丸くした。
「でも、お疲れでしょう?」
「いや、いい。さすがに乗馬は無理だが」
レナートの答えに、セラフィーナはくすりと笑って、うれしそうに言った。
「では、一緒に星を見たいです。今日は空が澄んでいるから、とても良く見えます」
それに了解して、一緒にレナートの私室に向かう。
半円形に張り出したバルコニーに出ると、セラフィーナはにこにことレナートを振り仰いだ。
「ほら、今日はとてもきれいです」
冬が近づいた空はなるほど澄んでいて、星がこうも輝きを増すものかと、レナートは感心した。
そして、その美しい星空を見上げながら、レナートはこのところずっと聞きたかった疑問をようやく口にした。
「ひとつ聞かせて欲しい」
「はい?」
「君は、本当は婚約をするつもりがなかったのではないのか?」
そっと視線を彼女の方へ移せば、セラフィーナは小首をかしげている。
「あるいは君のご両親が、婚約をさせるつもりがなかったのでは?」
「……なぜそうなるのです?」
不思議そうな顔をするセラフィーナに、レナートは言葉を選んだ。
「君は病で何年も自宅から出られなかったと聞いていた。だがそれは、婚約を避けるためだったのではないかと考えた」
セラフィーナは彼女にしては珍しく、驚きと困惑の表情を浮かべた後、すぐに申し訳なさそうにレナートの目を見つめた。
「わたくしについては、すべてご存じかと思っていました。もしかして、きちんとお伝えしてなかったのでしょうか……。申し訳ありません」
「いや、違う」
レナートは慌てた。
「両親は分かっている。と思う」
「……そうなのですか?」
「知らないのは、私だけだ。……知ろうともしなかったから」
正直に白状して、レナートはセラフィーナががっかりした表情を浮かべるだろうと、内心で覚悟した。
ところが彼女は予想に反して、うれしそうに声を弾ませたのだ。
「まあ、レナート様。ということは、わたくしに興味を持ってくださったのですね」
花がほころぶようにセラフィーナが笑うので、レナートは少しきまりが悪そうにした。
「……今からでも、教えてもらえるだろうか」
そう問えば、セラフィーナは笑みを浮かべたままバルコニーの手すりにそっと片手を置くと、空を仰いだ。
「三年程前のわたくしは、こうやってバルコニーに出て、空を見上げることなんてできませんでした。わたくしの部屋の窓は、中から開けられないように、板が打ちつけられていましたから」
「……板? 打ちつけられていた?」
穏やかでない状況を想像して、レナートは眉を寄せた。
セラフィーナはレナートに向き直ると、困ったような笑みを浮かべた。
「でないとわたくしが、飛び降りてしまう恐れがあったからです」
レナートは思わず言葉を失っていた。レナートの知る彼女と、その彼女が語った過去の彼女が、どうやっても結びつかなかった。
それからセラフィーナは、伏し目がちに話し始めた。その時彼女に苦く暗い影がさすのを、レナートは見逃さなかった。
「昔、とても好きな人がいました」
「…………」
レナートは一瞬、胸が痛くなるほどの息苦しさを覚えた。
「とてもとても好きで、しばらくは一緒にいたのですが、結局別れを告げられました」
「……何か、ひどいことをされたのか?」
セラフィーナは静かに首を振った。
「いいえ。ただ心が離れてしまっただけです。あの時わたくしは、自分と相手が違う人間であるという当たり前のことが考えられなくなっていて、愛を押し付けてばかりでした」
「…………」
「そんな状態でしたから、失ってしまったことを受け入れられず、こんなにつらいのに生きていかなければならないことが理解できなくて。わたくしはきっと、おかしくなっていたのだと思います。ものも食べずに、泣いて喚いて荒れてばかり。医師の処方してくれた薬をまとめて喉に流し込んだこともありました。使用人たちもみなおびえていたと思います」
そこで彼女は視線を上げて、おそらく動揺で揺れているレナートの瞳を、まっすぐに見つめた。
「それでも、家族はわたくしを見捨てませんでした。どんなにひどいわたくしでも、諦めずに寄り添ってくれました。根気強く食事をすすめてくれ、一歩ずつでも部屋から出るように誘ってくれて。二年たてば、外に出て、馬に乗れるようになっていました。落馬もしました。痛くて痛くて、土で汚れてしまって、でも空が青くて。ああ、わたくしは生きていて、こんな風に何かを感じることができているって、気が付きました。それからまた時間をかけて元気になって、両親から婚約の話を聞かされた時には、素直にうなずくことができました」
セラフィーナは再びほほえみ、淡い光が零れ落ちるような表情を見せた。
「みっともないことをやるだけやり尽くしたら、もう一度立ちあがりたいって思ったんです」
かつて彼女のことを、鈍感なのかと考えたことがあった。しかし違っていた。そうではなくて、彼女にあったのは、正面から向き合うと腹を決めた強さだった。彼女は悲しみを、癒えぬ傷の痛みを知っている。
「本当は、嫌な過去です。忘れたいし、消し去りたい。特に両親に迷惑をかけたことについては。でも今は、わたくしはこれで良かったのだと思えるようになりました。こうしてレナート様とも出会えましたから」
レナートは思わず顔をしかめ、小さく首を横に振った。
「君を愛さないと言った男だぞ」
さすがに自責の念に襲われた。
ところがセラフィーナは朗らかな口調で答えるのだ。
「いろいろ考えて、分かったことがあります。日々を穏やかに過ごす秘訣は、完璧を求めないことです。自分にも、他人にも。完璧を100パーセントだとすれば、50パーセントくらいあれば御の字です。燃えるような恋愛関係ではなくても、レナート様はわたくしの希望を尊重してくださる。それだけでとても有難いことです」
それからセラフィーナは自分の上半身に手を当てて、胸を張った。
「わたくしの方も、今ではすっかり健康で、めったに風邪もひきません。家族、友人、金銭面にも深刻な問題はありません。好き嫌いもないし、乗馬だってなかなかでしょう? ほら、50パーセントくらいはありそうではないですか?」
そう言ってセラフィーナが子供のようなまぶしい笑顔を見せたので、レナートもつられて口元をほころばせた。
「……なぜ両親が君を選んだのか、分かった気がする」
最初は家柄が釣り合うだけの理由かと思っていたが、きっと両親は彼女の人となりを知っていたのだ。だからこそ彼女を選んだに違いない。
レナートは彼女に向かって、その手を差し出した。
「話してくれて、感謝している。今日はもう、休もう」
セラフィーナはうれしそうにそっと手を重ねた。夜風の冷たさに反して、彼女の手はとても温かかった。