言葉には資格がある
遅刻はするな。
誰が聞いても頷く言葉だ。しかし、その誰が聞いても正論と思われる言葉ですら資格が必要だ。
遅刻ばかりしている奴が遅刻はするな。と言えば、お前が言うな。お前にそれを言う資格があるのか。と非難されるのは当然と誰もが思うだろう。
遅刻をしてない人間が遅刻はするな。と言えば、尤もだ。当然だ。と多くの人が頷く。
しかし、その遅刻をしていない人が最近遅刻ばかりするようになったらどうなるか? 散々、遅刻はするなと言っておいて自分は遅刻するんじゃないか。と非難されるだろう。
これは、周りの人が手の平を返して非難しているのだろうか? いや、周りの人が手の平を返したんじゃなくて、発言者が資格を消失したのだ。遅刻をする奴が遅刻をするなというな。とは以前から変っていない。周りの人間は変っていない。
社会的に成功した人が、成功者ならばこそ許されるような発言。傲慢に聞こえるけど実際、あの人は成功しているので認めざるを得ない。成功しているならあの発言も仕方が無い。という人が、失敗したときに叩かれる。これは周りの人が手の平を返したんだろうか?
勝者だからこそ許されていた発言をしていた人が、負け続ければ、あんな台詞を言っておいて負けるんじゃないか。そう非難されるのは回りが手の平を返したんだろうか?
成功したからこそ。勝っているからこそ。その発言をする人は、その発言をする時に自分はその発言をする資格があると思って発言していると思う。しかし、その資格を失った時の事は考えているのだろうか?
別に誰かに強要されてその発言をしたわけじゃなく、自分の意思でその発言をしたはずだ。資格が無くなったら、周りの人間が資格があったときと同じ対応をしてくれない。それは当然ではないか。
金で物を買う。それは、お店でお金を渡して商品の所有権を貰うという事だ。金が無くなったら、金を持っていたときのように商品の所有権を貰えない。それはお店が手の平を返したのだろうか?
勿論、ずっと勝っていて勝者には許されていた言葉を言っていた人が、一度負けたくらいで鬼のように叩く。というのは行き過ぎだろう。
勿論、それも今までどんな事を言っていたかにもよる。誰も自分の相手にはならない。自分は勝って当然という感じで言っていたなら、一度の敗北でそれなりに叩かれるのも当然といえば当然だ。
全てのことには程度というものがある。そして、程度とは「それに適した」という意味でもある。
 




