日本人の宗教観について
日本は元来、神道の国だった。神道というのはあらゆるものに神が宿るという考えで、現在、日本人で神道を信仰しているという人は少ないだろうが、宗教として以上に思想、生活習慣と言って良いほどに、この神道の考えというのは日本人に根付いている。
あらゆるものに神が宿るという考えは、身近なものにも神が宿り、それゆえに神が絶対的な存在ではなく身近な存在で、日本人に取って神とは親しみのある存在とも言える。
また、あらゆるものに神が宿るという事は、あらゆる場所に神がいるという事でもある。つまり、神道的思想では、あらゆる国の神(仏)の同時存在を容認するのだ。
しかし、海外の人からすれば、日本人の宗教観は節操がないと映るらしい。
よく言われるのが、日本人は、キリスト教のクリスマスを祝い、仏教の除夜の鐘を打ち、神社(神道)の初詣に行く。確かに節操がないように見えるかも知れない。では逆にある宗教の行事を行うなら、他の宗教の行事は否定し、参加しないのが節度ある態度なのか。
日本人が、複数の宗教の行事に参加するのは、日本人の神(仏)というものへの親しみと、あらゆる神(仏)の同時存在を容認するという思想によるものだ。
どれ程、神(仏)を親しいものとしてとらえているかと言えば、ほとんど人間関係と同レベルで宗教をとらえていると言っていい。
昔、中国は文化圏としては同じ系統ではあったが、遥かに進んでもいた。その中国から来た仏教は、要するに都会からの転校生のようなものだ。
転校生という者は、それで無くともちやほやされるものだが、都会から来た! という事で瞬く間に人気者になった。元から居た生徒達(神道)も、多くの影響を受けた。また、都会から来た転校生(仏教)も、地元になじみ影響を受けて行った。その結果、地元(中国、或いはインド)に居た時とは転校生(仏教)の性質も変わって行く事となった。
そこに、欧米からの転校生(キリスト教)がやって来た。
外人や! と、いう事で、皆、ちょっと引きます。嫌いという訳ではないが、文化圏としては別系統なので、知らないものへの恐怖心というものもあり、少し距離を置く。
だが、時間が経つにつれ仲良くなっていきます。とはいえ、そこはやはり外人という事で、真に同化というのは難しく、影響を与え合っても大きなものではなく、それでも仲良くは成っていく。
「今度、俺の誕生日パーティーをするんだ。皆、祝ってよ。クリスマスパーティーって言うんだ。楽しいよ」
そういわれると、
「おめでとー」
「はーい。参加するー」
というのが日本人なのです。
「大晦日に除夜の鐘を打つと良いんだよ」
と言われると、
「打つ打つー」
といいます。
「正月にお参りすると良いんだよ」
と言われると、
「参る参るー」
といいます。
ほとんど、友達関連のイベントに参加するノリです。
勿論、友人関係から恋愛や結婚(入信)する事もある。しかし、特定の人と恋愛、結婚したからと言っても、それまでの友人関係は継続する。
仏教と結婚しても、キリスト教や神道が、今度、パーティーやるんだ。って聞けば、仏教を優先しつつも、可能ならば他の宗教の行事にも参加する。
勿論、中には恋人ができたら、友人関係を蔑ろにし、友人からの誘いを断り、音信不通にする人もいるが、まあ、大抵は友人として敬意を払いつつ付き合って行く。
そして、それは日本の無神論者も同じだ。無神論というのは、ある種、無神論教という宗教のようなもので、それに入信(恋愛)しつつも、やはりある程度は友人(他の宗教)との付き合いは続ける。パーティー(宗教行事)にも、楽しそうだからと参加したりする。
また、最近ではイスラム教など他の宗教も入って(転校して)来ている。実際、少し悪い噂もあり、不良や! と、思われていたりもするが、実は野良猫に餌をあげていたり、横断歩道でおばあちゃんの手を引いていたりしていると噂になれば、本当はいい人かも知れない。と受け入れられて行くでしょう。
つまり、日本人は、節操が無いのではなく、神や仏に親しみを持って接し、同存在を容認し、自分の恋人(信仰)でなくとも友人(神である事に変わりは無い)として敬意を持って接する。と、いうもの。また、自分とは違う人(宗教)を好き(入信)になる人がいても、がんぱってね。と自然と言えるのも特徴だ。尤も、そんな人より自分の恋人の方が優れているのに! という人もいますが。
要するに、日本人の宗教観とは、あらゆる神の同時存在とあらゆる神への敬意を忘れない。というもので、それが日本では、(比較的)宗教差別が少ない理由なのではないかと思う。