冷死②
第四話 冷死②
あらすじ~夜の学校で、異能力者 氷雪使いとの戦いが始まった。いくつも戦いの準備をしてきた至だが、敵のその圧倒的な力に愕然とする
気がつけば、シャワーの音が小さくなっている。何事か、と耳を凝らしたが、さっきのビキビキという異常な音が部屋中を埋め尽くしていた。見れば、壁も天井も白く凍りつき、先ほどまで五十度のお湯を潤沢に放出していたシャワーヘッド自体までもが凍っているのだ。
見誤った。この女は、あの程度の湯の量ならば問題なく凍らせてしまうのだ。思い出せ。……何人の人が死んだのかを。
一瞬で、背筋が凍りつく。
死ぬかも知れないという恐怖が、俺の背骨を鷲掴みにしている。
こうなってしまうと、袋小路に居る俺は確実に不利だ。
自分に圧倒的に足りなかったのは、「死ぬかもしれない」という覚悟だったということに、呆然と気がついた。
立ち上がろうとした時には、既に足元は氷だった。息が白い。地面を蹴ろうと思ったが……靴が既に凍り付いている。
「ぐっ!」
俺は、その勢いのまま転んでしまった。
直ぐに髪の毛を掴まれ、そして、思い切り腹を蹴られ俺は吹き飛ばされた。
眼を瞑る。呼吸を強くする。……大丈夫だ、骨は折れていない。まだ、動ける。幸い以前折られた肋骨の部分は避ける事が出来ていたようだ。
勢いで一番奥の壁まで吹き飛ばされていた俺は、腹を抑えたまま立ち上がる。氷雪使いの手から、ぱらぱらと俺の髪の毛が落ちた。彼女の眼は金色をしていた。あの猛禽のような瞳孔、金色の虹彩。
もう部屋は氷の塊だ。室温が下がり、まるで冷凍室にいるかのようだ。点いていた電灯が、ジ……ジジ……と音を立てて時々明滅する。
……痛みは、俺が生きている証拠だ。俺は呼吸を強くした。
木刀を握る手に力を込める。そうだ、俺はまだ戦える。
――死にたくない。死ねない。絶対に、死ねない。俺は歯を食いしばり、そして目の前の女を、決意を込めて睨み付ける。
俺は神楽に約束したんだ。絶対に居なくならない。あの涙を見るのはもう、沢山だ。
「よくも。よくも……よくもよくも……!」
氷雪使いが、口から涎を流しながらそう、呟く。未だわき腹を押さえ、足は腫れあがっている。先ほどの木刀での連撃は、確実にダメージになっていたのだ。
だが、もう策は尽きた。既にスプレーも、洗い流されてしまっている様子だ。そしてシャワーのお湯すら、凍結してしまった。さっきの腹への蹴りの時、凍らせられなかったのは幸運だったが。
俺は歯を食いしばる。あの瞬間に、より強いダメージを与えておかねばいけなかったんだ。
こんな年齢で、命のやり取りをせねばいけない恐怖。だが、それに打ち克たねば俺は――死ぬ。
俺は再び、構えを取った。
切っ先を後方へ引き絞る水月の構え。完全に氷結した元お湯の上に靴を載せる。若干滑るかも知れないが、靴が張り付いて動かないということはないようだ。俺はすり足で僅かに動く。
氷雪使いも、迂闊には近付いて来なかった。そのバカ力があるならば、俺なんか簡単に捕まえて首の骨を折ればいい。だが、さっきの連撃が入った事に、氷雪使いは強い警戒心を抱いているようだ。これは幸運だ。こちらが万策尽きた事に気付かれていない。
こっちは、一瞬で相手の全てを行動を止めねばならない。
相手は、身体の一部でも俺に触れれば勝ち。なんて不公平なルールだ。
狙うなら、首か。真剣ならば首を離断する事も可能だろうし、それでこの女が死ぬ事もないだろう。時間も稼げるかもしれない。
だが、俺の武器は木刀だ。果たしてそれが可能かどうか。
そんなこちらの刹那の逡巡をものともせず、動き出したのは相手の方だった。
一瞬で詰められる距離。右足には痛烈なダメージがあるため、左足での一足飛びだ。俺は何も考えられずに、木刀を持つ手を切り返し、首目掛けて突きを放つ。
その木刀が、女の喉下に飲み込まれる。手ごたえなし。攻撃は完全に無効化された。
「終わりだ!! 死ね!!!」女は叫ぶ。俺に覆いかぶさるように、その手を大きく広げた。
死への、入り口。ここがそうなのか?
一瞬で、あの夢が、父や母の笑顔が脳裏を過ぎる。走馬灯のように。
その刹那、脳裏を過ぎったのは、妹の泣き顔だった。
――お兄ちゃん――
「――!!」
俺は目を見開く。その女の胴は、無防備だった。咄嗟に――木刀から手を離す。そのがら空きの鳩尾に、俺は両方の手のひらを当て、足を踏み抜いた。足元の氷が割れる。
絶対に、諦めねえ――!!
どう、と音がする。
女の肺から全ての空気が漏れた音がした。声も出さず、女がその場に膝から崩れ落ちる。
人体急所『水月』に、交差攻法気味に入った双掌打。裏当てとか透勁とか呼ばれるものの一種で、古流剣術における打ち組術で、彰のじいちゃんにみっちり教えられていたものの一つだ。
「はあっ……はあっ……」
吸い込む息は、真夏とは思えない冷たさだ。
俺は、その場にぺたりと座り込む。
心臓は早鐘を打ち、忘れていた恐怖が一気に戻ってきた。
女は動かない。失神しているようだ。鳩尾に強烈な一撃を食らうと、一時的な呼吸困難を起こす事があるらしい。場合により失神、最悪死だ。本当になるとは思わなかったがすごく綺麗に決まったらしい。
……兎に角、相手の動きを止める事は出来た。
俺は、眼を瞑り心から感謝する。ありがとう、神楽。諦めないで居る事が出来た。
……ありがとう彰のじいちゃん。やっぱりあの経験が活きたよ。
俺は震える脚で立ち上がると、半分氷化したままの女の首から、木刀を引き抜いた。すぐに、その身が生身へと戻っていく。
眼を醒ませば、すぐに俺を襲うだろうか。
氷化するなら縛っても無駄だ。ひん剥いて風呂に浸け込んでも、あれだけの力を持っていれば無理だろう。どうしようか考えるが、直ぐに解決策が浮かばない。
周囲を見渡す。
ドアはぶっ壊れ、蛇口も天井も氷でガチガチだ。手前のシャワー室の壁は、歪んで引き千切られてボコボコだ。これは問題になるな……。とりあえず再度水の元栓を締め、一個一個蛇口を閉じて歩いた。
氷雪使いの頚動脈に手を当てる。きちんと脈動している。どうしようかと悩んでいると、彼女が急に大きい呼吸を始め、すぐに頭を持ち上げた。
「……!!」
俺の姿を認め、そして息を飲んでいた。俺は腰が抜けそうになるが、ものは試しと、腕組をしたまま見下ろして、ハッタリをかます。
「よう、目覚めたか氷雪使い。命だけは助けてやった。感謝しろ」
声が震えてないか心配だ。
「なっ……なぜ。何故お前は私に触れる事が出来るんだ!」
……そう言えば、兜屋が倒れた時もそんな事を言っていたな。
「それをお前に説明する義理はねえ」
そう吐き捨てる。俺もわかんねえ。
女は歯を食いしばってから――自分の両手を見詰めた。すぐに口を開く。
「こ……凍らない。氷が作れない……なんで……嘘……」
そう言いながらぶるぶると震えている。
……今は立件待ちの兜屋が、取調室で言っていたと警察関係者は言っていた。「壊された、無くなった」と。
これは一度失神すると、無くなるような力なのだろうか。だが、再度人を殺して回るような真似は出来なくなったと言う事だ。俺は氷雪使いを見下ろしたまま、心の中で安堵の溜息を漏らす。
そして不思議な事に、彼女から感じていた途轍もない恐怖感が、さっぱりと消え失せていた。
女は逃げる様子もない。脚はストレッチパンツの上からでも腫れ上がっているのが分かる。骨が折れているかも知れない。
「何人殺した」
俺が問う。氷雪使いはビクっとなってから、恐る恐る俺を見て、怯えきった表情のまま言う。
「……し、七人だ」調べた人数より一人多い。まだ見つかっていない遺体があるのだろう。
「……お前の力も、鬼の力とやらも、人の命を奪ってまで必要になる力じゃない。そんな事、俺みたいなガキに言われるまでもないだろ?」
怖くはないが、先ほどまで命のやり取りをしていたという事実が、俺に震えをもたらす。
最大限の平静さを総動員して俺が諭すように言うと、女は怯えながらも、悔しそうに涙を流しながら俺に答えた。
「お前に何が分かるっ……! ずっといじめられていた。力が欲しかった。いじめの首謀者は殺したけど、あたしは更に完璧な力が欲しかった。
あたしが殺したのはその一人と、あたしに言い寄ってきた薄汚いオッサンたちだけだ……!! あたしをいやらしい眼で見やがって……くそ、くそ……」
「それでも、あんたは人殺しだ」
俺が吐き捨てる。……歪んでいる。力を手にしたからと言って、人を殺す道理が何処にある。
そう考えられる俺は……幸せなのだろうか。
女は、冷たい床に突っ伏して、泣き始めた。
俺は、泣きじゃくる女を床に座らせる。カバンに入っていたっけな……と探すとハサミがあった。
「パンツ切るぞ」と一言かけてから裾から切っていく。出てきた肌はやはり真っ赤に腫れあがっていた。
ドアの破片の中から比較的長い物を探してくる。カバンの中に入れていた、解氷スプレーの目隠しに使った緑色のテープを出し、さっきの破片を女の足に当て、ぐるぐる巻きにした。骨折の応急処置だ。凍りついた床を、木刀の柄でガンガン叩いて氷を取り出す。その塊を、女の足へとどんどん乗せていった。
「な、何で助けるんだ。さっきまでお前を殺そうとしていたんだぞ……?」
女は言う。
「俺だってわかんねえよ!」 俺は叫んだ。
今目の前に居る人が、普通の人に思えてしょうがないんだ。
俺は、キョトンとしている女に向かって、変わらぬ口調でこう告げた。
「……罪は償えばいい。だが、その前に色々聞かせて貰う」
ドアは閉めておく。守衛のおっちゃんがここをチェックしに来る前に、俺は氷雪使いの女を連れて部活棟を出た。
女は、大人しかった。名前を聞くと、菊池冷と名乗った。名は体を表すとはまさにこの事だ。偽名かも知れないけど。
「それで、『鬼の力』ってのは、何なんだ?」
「本当に何も知らないんだな……お前も夢を見たんだろう? あの恐ろしい声。あの、心の底の憎悪を全て奮い立たせるあの声を」
声……? 俺の見た夢に、声はなかった。菊池は続ける。
「殺しあえ。異能同士で殺し合い、最後に残った者に全てを与える。三千大千世界を一歩で駆け抜ける脚をやろう。全てを平伏させる拳をやろう。命を奪う事を恐れるな。
そのために、翼の先の鬼を目指せ。夢で見た者が敵だ。鬼の眠る地の近くに居る者を案内人とせよ。
……毎晩、夢で見た。何度も何度も魘されて、起きた途端に何度も吐いた。
いつしか、殺しあう事が、鬼を目指す事が。そうする事が自然に思えるようになった。恐らく、何人も何人もそういう人が居る」
校庭の影。月明かりが照らしている。
菊池冷は芝生に座ったまま、淡々と話した。
「……不思議だ。あれだけ憎かったと思ったのに。あれだけ殺しあわねばいけないと思ったのに。こうして力を失ってみると、そんな気が全く起きなくなった」
言わばマインドコントロールみたいなものだろう。血色の悪かった肌も、明らかに健康色を取り戻している。
千年坂の鬼がそんなに凄まじい力を持っているなんて表記は何もない。これは鬼の仕業か、それとも第三者か。とにかく、首謀者がいる。それは間違いない。
今の科学技術で、自由に夢を見せる術なんて無い筈だ。恐らく、何か不思議な力を持った者が背後に居る筈だ。
「なあ、あんた。これ知ってるか?」
俺が、あの絵本を菊池に見せる。無言で受け取ると、最初のページを見て、一瞬酷く嫌な表情を見せた。
「……この眼だ。この眼だわ」
恐らく、夢で見た眼。どうやら俺が最初に見ていた悪夢と同じような調子で始まっていたらしい。
ちょっと前に見た鬼の首の夢や、昨日見た官能的な夢とは全く異なるもののようだ。その二つに関しては、鬼の首のリアルさに若干辟易したが、そこまで嫌悪感や恐怖心をあおるものは無かったはずだ。
「他のページに心当たりはない。その最初のページだけ、物語と全く関係ないページに思えるけど……」
そう、菊池は続けた。
確かに。最初は見開きであの『眼』だったが、その後空白のページをまたいで鬼の描写が始まっている。後から挿入されたとしても、不思議じゃない。そういう解釈もあるのか。
この『眼』はもしかしたら、千年坂の白い鬼のものではない? そういう新しい疑問が生まれる。
これ自体が何かの暗示だとしたら。俺もあの夢を見続ければ、この女のように、全てを憎むような存在になったのだろうか。
「……あたしの知っている事はこれだけだ。監視カメラに映りこむようなヘマはしていないから警察はあたしの事を知らないだろう。だけど、他の力を持った者がこの地を目指している事は、知ってるか? そういう意味で、警察はこの辺りをマークしている筈だ。気をつけろよ」
「ああ。あんた以外に『窒息死』と『水死』の力を持ったヤツがいるはずだ」
「……お前、やっぱり変な力を持ってるんじゃないのか? 何故そんなこと知ってるんだ」
菊池は不思議そうに俺を見る。
「ネットの力をナメんなよ?」
俺が笑う。ネットの力を駆使したのは凛子さんだったが。
「病院送ろうか」
俺が言うと、菊池は笑いながら首を左右に振る。
「あたしは警察に行くよ。お前と戦った事は話さないから安心してくれ。一連の凍死事件の犯人だと、名乗り出る。もうその力はないけど、凍らせる実験は何度も録画してみたんだ。あ、あたしは映像関係の専門学校に行ってたんだ。機材は揃ってるんだよ」
年上か。
やっと、勝ったと言う実感が沸いて来た。最初にあった恐怖心は、やはり薄れている。
彼女の事は、菊池さんと呼ぼう。
「警察もあたしの指紋くらいは見つけてるだろうからね。問題は無いさ」
そう言いながら、学校のフェンスに掴まって、ひょこひょこと歩く。あの応急処置のテープから俺の指紋も出るな……どう言い訳しようか。
そんな事を思いながら、俺は彼女の背中を見送った。
丁度パトカーが通りかかり、彼女が手を上げて車を止める。
何かを話しているのが見えた。
警察官が二人、降りてくるのが見える。
――これで、良かったのだろうか。
俺がそう思い、パトカーに乗り込もうとする彼女の背中を見詰めていると、突然、動きが変わった。
警察官二人が、慌しく動き始める。
まず、菊池冷が突然、喉の辺りで手を動かし始めて、そのまま倒れた。
俺は驚き、一歩を踏み出す。
続いて、周囲を見渡していた警察官二人のうちの一人が、同じように倒れる。
眼を凝らす。水が、浮かんでいた。
だが、その水がすぐにばしゃりと消える。
俺は慌てて走った。
水が消えたのは、すぐにパトカーの音が響いたからだろう。だんだん近付いている所を考えると、無線で応援を呼べたに違いない。
「菊池さん!」
俺が駆け寄ると、彼女の口から水がこぼれていた。――水使い。直感する。
俺は慌てて、心肺蘇生を試みた。鼻をつまみ、顎を上げ、空気が漏れないように口から一気に息を吹き込む。彼女の控えめな胸が膨らむのを見て、心臓の鼓動を確かめる。
停止している……! 俺は胸に手を当て、すぐに心臓マッサージを開始した。
えーと、どんぐりころころのテーマだっけ、リズムは。
隣では、同じように心肺蘇生をされていた警察官の一人が息を吹き返した。大量の水を吐き出している。
吐き出した水を見ると、小魚が跳ねた。俺はその光景に違和感を覚える。
「協力ありがとうございます! 手伝います!」
無事だった若い警官が、心臓マッサージを代わってくれた。
俺は、マウストゥーマウスで息を吹き込む。
心配蘇生は二人でやるほうが効率が良いそうだ。学校で習った事を覚えていて良かった。
「ガハッ……!」
突如、菊池冷が咳き込む。
――成功だ。俺は、その場に座り込む。
応援で駆けつけたパトカーに混じって、救急車も来ていた。若い警官が叫び、すぐに菊池冷はストレッチャーに乗せられた。
「ごめん、ごめんね、ありがとう……」
菊池冷は、俺にそう言いながら救急車へと乗せられていった。
「新堂君、話を聞かせてくれ」
そう言って俺の肩に手を乗せてきたのは、兜屋炎児の事件の時に俺に聞き取りをしていた刑事さんだ。
「あ、はい」
俺がそう言った瞬間。
その刑事さんの奥の光景。
坂の上に、人影が見えた。
月明かりで顔がよく見えない。だが、俺は見えてしまった。
少年のような身長。帽子を目深にかぶっていたその奥の瞳が、金色に輝いているのを。
あれが――
その姿は、俺が一瞬視線を動かした時に居なくなっていた。




