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くれないのうた  作者: げんめい
第一章~異能の者達~
5/43

第二話 瞳の奥★

 ぐしゃり。

 金属越しに伝わった、あの嫌な感触。皮膚の奥にある骨を粉砕する、あの嫌な感触。

 下駄箱の上に置かれた、神楽の生首、その虚ろな眼を思い出して、俺は目を覚ます。


 真夜中の病院の一室。汗だくのシャツの胸の辺りを掴み、俺は呼吸を整えた。

 あれは……夢なんかじゃない。真夜中、顔に手を当てて、深く息を吐く。


  ◇


「本当です、嘘なんか()いてません」

 俺の声に、目の前の年配の男は困った顔をした。

 テレビのニュースでは、稀代の連続放火魔が捕まったとの報道で持ちきりだった。

 その犯人の名前は、兜屋炎児(かぶとやえんじ)火走り(ファイアスターター)を名乗った男。

「分かった。すまないね新堂くん。精神的に混乱するのは良く分かるつもりだったんだが、もう少し落ち着いたら改めて話を聞きに来るよ」

 そう言いながら、くたびれたスーツを正して席を立つ、五十代の男性。――刑事だ。


 俺が話すあの出来事と、警察や神楽が話す内容に大きな乖離(かいり)がある事に、強い違和感を覚えた。


 神楽の話ではこうだ。俺の保険証を出してやってくれ、と母からのメールを受ける。何故か真っ直ぐ帰った俺より早く家に着き、無事に保険証を見つけて俺に電話しようとしたら、外に人影があった。


 玄関を開けるとレンチを握り締めたまま気を失っている俺と、馬鹿でかい男が血を流して倒れていた、との事らしい。


 何もかもが食い違っていて話にならなかった。


「では、改めて奇妙な点をまとめて見ましょう」

 隣のテレビでは、その連続放火殺人事件の特集を放送している。


 この連続放火事件については、不可解な現象が多かった事が繰り返し報道されていた。


 テレビに奇妙な点を箇条書きで挙げたフリップボードが映る。


 まず、どうやって火を点けたのか分からなかった事。

 次に、ガソリンなどを使用していない事は分かっていたのに、現場の燃焼速度が異常に速かったらしい事。


 消防によってすぐに消されたその現場は、超高温で数時間も焼かれたような現場となっていたらしい。

 同じ手口で発生した火災での死者は、十四人にも上ったとの事だ。

 もしあの男が犯人なら、それも可能だろう。


 俺は警察に、ありのままを話した。


 だが警察は釈然としない表情を示すばかりだった。

 神楽は死んでは居なかったし、放火魔の男……兜屋炎児も、気を失っていただけらしい。


 あの時、鼓動を確かめた。確かに、止まっていた。流れ出た血の量。どんどん白くなっていく顔。……俺は、殺してしまったはずだった、そのはずだったのに。


 先ほどの刑事の話しでは、兜屋炎児はぶつぶつと、ずっと同じ言葉を呟き続けているらしい。

「内容に覚えはないかい」そう尋ねられたが、俺は知らないと答えた。

 兜屋は「壊された。無くなった」とだけ、話し続けているという。


 神楽の首には繋げたような痕は無かった。

 一度服を脱がせて調べてみようと思ったが、本気で殴られたので止めた。

 だが、俺の肋骨が折れまくっていたのも事実。俺の制服は焦げ、皮膚のそこら中が火傷だらけだったのも事実だ。数日は顔も腫れたままだった。


 先日彰が見舞いに来てくれた。

 その異常な連続放火が発生したという地点を点にして、発生順に結んでいくと綺麗な線になっており、それは真っ直ぐあの坂道に伸びていた事がインターネットで話題になっていたと話していた。


 警察が犯人を特定出来たのは、事前に防犯カメラから割り出していたからとの事だ。それで朝から警察が多かったのかと、今頃になって思い出す。


 日が経つにつれ、神楽が生きていた事と、自分が人殺しにならないで済んだ安堵感が増えてきた。


 だが、夢で見てしまう。手に残るあの感触と神楽の虚ろな眼は、それが現実であったという事実を、確かに伝えてしまうのだ。


 俺は、退院したら確実にしなければならない事が出来た。


 この、一連の奇妙な出来事の原因を探らなければならない。あの坂道で脳裏に浮かんだ、様々な場所。そこに、見覚えのある場所が混じっていたのを思い出す。

 俺は、調べなければならない。


 また、同じ事が起きないように。そして今度こそ、家族や友達を、護るために。


 もう絶対に、神楽をあんな眼には遭わせない。そう誓って、俺は病室のベッドの上で目を瞑る。まずは、身体を治さなければ。



 二週間程度の安静。リハビリ開始と同時に、俺は退院と学校への登校を許された。

「お、お兄ちゃん、いよいよ学校行けるね」

 あれから神楽は、若干よそよそしい感じだ。なんだか俺とは話し辛そうだった。服を脱がせようとした事で警戒されているのかも知れない。それとも、神楽の前で大泣きしてしまった事が原因か。……くそ、今まで築き上げてきた強く親切なお兄ちゃんのイメージが。


 ちょっと悔しく感じつつも、俺は答える。

「ああ、長かった……健康って大事だな。何もしないで寝てるだけが、こんなに辛いとは思わなかった」


 そんな俺の呟きに反応したのは、神楽ではない別の人物だった。

「身体だけは丈夫に生んでやったんだ。卒業だけはしろよ(いたる)

 そう低い声で呟いたのは、奥で座っていた俺の母親だ。新堂奈央、三十八歳。極度の色盲があり、よくパプリカとピーマンを間違えている。強い夜盲症もあるとの事で、暗闇では全然ものが見えなくなるそうだ。夜の屋外、電灯の点かない場所での移動には付き添いを要するレベルだ。

 性格は非常に男らしく、小さい頃は喧嘩した俺と神楽にフライパンアタック制裁をくれた事を思い出す。要らん情報かも知れんが超巨乳だ。神楽がこっちの子供だったら……と悔やんでもどうにもならない。


 父親、正影さんと再婚したのはもう何年前になるだろう。俺が五歳くらいの時だから、もう十二年前になるのか。まだ神楽が小さかった時は、よくいじめて泣かせてしまったのを覚えている。

 そんな事を思い出しているうちに、病室のドアが開いた。


「おーう、生きてるな至。俺様がわざわざお前のために車を用意してやったぞ、心から感謝しろ~」

 その正影さんの登場だった。新堂正影、母親の再婚相手。俺は自分の本当の父親の事を全く覚えていない。生まれてすぐに亡くなったと聞いている。


 でもそれはこのいかつい無精髭、三白眼の筋肉親父四十五歳が居れば十分だろう。

 俺をよくからかって遊ぶクセがあるが、困った時には何度も助けてくれた。何故か父さんとは呼ばれたくないらしい。いつも正影さんと呼べ、言われている。

 

 俺は彼の顔を見た。今の表情は……これは場を茶化す気満々のようだ。俺は真顔で返す。


「ええ、ありがとうございます心から感謝します」

「おいおい完全に棒読みじゃねえか! 『お父様』を付けろよ!」

「くっ、以前は『正影さんと呼べ』とか自分で言ってたじゃねえかお父様! 横暴だ訴えてやる!! 神楽、弁護士を呼べ! 金に糸目は付けない! 一番いい弁護士を頼む!」

「そんなお金ないよお兄ちゃん」

 神楽が笑いながら言う。

「うるせえ玄関ボロボロにしやがって! あれ直すのにいくらかかったか知ってるか!? 無料だ! 保険から全部賄ったからな! あと小さい部分はお父様が自分で直した! すげえか? すげえだろ!」

「すげえな! 流石は左官兼大工だな! じゃあ次は法廷で会おう! 俺は最後まで戦い抜くからな!」


 正影さんとの会話は、いつも着地点までぐにゃぐにゃだ。基本的にやり取りが適当である。ただ、こういうやり取りをしていると母が笑うので嫌ではない。


 その母親が、真剣な顔をしたまま口を開いた。

「まあ、暫くは無理出来ないぞ至。肋骨四本、熱傷数箇所。耳の火傷レベルは二度だ、細菌感染は怖いぞ。骨はやっとくっついただけだからな。そっちは完治に二ヶ月かかるそうだ。病院に通って、地道にリハビリしかないそうだからな」

 そう、淡々と呟く。

「分かってるよ母さん。んじゃ……悪いけど運転頼むぜ、正影さん」

「おう、こんな辛気くせえ場所さっさと退散だ」

 正影さんは自分に正直だ。


 その言葉を言い終わる瞬間、病室のドアから白衣姿の男性が入ってきて口を開く。

「正影さん……辛気くせえは余計だよ」

 この医院の若き医院長だ。

「ようタケル。元気か」

 正影さんが尋ねると、「ぼちぼちだよ」と答える三十歳前半くらいの短髪、面長の男性。モミアゲが長い。前任の院長が急逝(きゅうせい)し、ここ「東郷医院」を継いだのが東郷タケルさんだ。

 俺が子供の頃入院していた時は、まだ二十歳前後で学生をしていた頃だっただろうか。よく『タケル兄ちゃん』と慕い、解剖の教科書を見せられては泣き、無理やりタバコを吸わされそうになっては泣き、夜の霊安室に無理やり連れ込まれそうになり泣き……と良い思い出がない。悪戯大好きな人だ。

 一緒に付いて来た看護師さんも、口を開く。

「退院早くて良かったじゃない、いたるくん。やっぱり若いって違うわねー。またいらっしゃい。今度はリハビリにね。それ以外にも色々と教えてあげるからねぇ」

 そう言いながら、看護師さんは手をわきわきと動かす。非常にいやらしい動きだった。ええ、是非お願いします。ぴっちりしたピンクナース服にその巨乳が映える。

「お兄ちゃん、行こう?」

 神楽に引っ張られ、俺はタケルさんに頭を下げてから病室を後にする。彼は無言のまま、俺をじっと見詰めたままだった。


 明日から、二週間ぶりの学校だ。あの坂を下りる時、俺は思い出すのだろう。あの坂を上りきる時、俺はやはり恐怖するのだろうか、あの不可解な出来事を思い出して。


 

 家の布団は、落ち着いた。俺は直ぐに眠りに落ちた。

 

 夢は――見なかった。




 次の日、学校はいつもと違っていた。

 報道陣が詰め掛けており、校門前はちょっとしたお祭り騒ぎだ。

「まあ、お前は連続放火魔とバトルして、逮捕する切っ掛けを作ったヒーローだからな」

 彰が言う。いつもの通学路を逸れ、俺たちは学校の裏側から通学していた。前の日に担任からそういう指示があったのだ。


「肋骨ボキボキのヒーローなんてカッコ悪ぃなぁ」

 俺が言うと、彰が笑う。

「ま、人目の付かない裏口から入れるなんて、特別な感じがして嬉しくないか? あ、そうだ生徒会長から今回の件について色々聞きたいって言われてるけどどうする?」

 彰は生徒会所属で、変わり者の生徒会長の信頼も厚い。

「榊原先輩……だっけ。なんか苦手なんだよなあの人……」

 俺が呟くと、彰は苦笑いをする。


 クラスに入ると、クラスメイトが一気に詰め寄ってきた。

 どうやって襲われたとか、どうやって倒したとか、そんな事ばかりを聞かれる。いまいち覚えてないと返して、俺は席に着いた。適当に返事をしているうちにホームルームが開始となり全員が席につく。退屈だけど久しぶりの授業、身になりそうだ。

 そう思っていたが、三時限目には居眠りをしていた。



 昼休み。教室で母親から貰った小銭で買ったパンをかじろうとしたその瞬間、予想もしない人物から声がかかった。

「新堂くん」

 女の子の声。俺はパンをかじったまま、顔を上げる。

挿絵(By みてみん)

「ん……清水か? 珍しいなお前から話しかけてくるなんて」

 清水瞳。クラスメイト。どちらかと言うと大人しい性格――というか、謎の人物だ。

 今ハマっているテレビ番組によって語尾が変わるという素っ頓狂な特徴を持っている。二ヶ月前までは語尾が『ござる』だった。


 いつもデジカメを持っていて、よく分からないものを撮って歩いているのをよく教室の窓から見かけていた。新聞部や写真部の類には入っていない筈なので、恐らく趣味なのだろう。デジカメは学校へは持ち込み禁止なので、教師に取り上げられては「返して~」のポーズを取っているのもよく目撃されている。

「大変だったね」

 そう、短く彼女は言う。

「ああ、まだ身体が痛てえんだよ。よく生きてたって思う」

 まじまじ見ると可愛い部類だ。背は低く胸は小さい。155センチくらいだろうか。髪は毛先が不揃いのショートボブといった髪型。眉毛が若干太い。口が小さく、唇はピンクで超綺麗だった。


「どうして新堂くんが狙われたの?」

 ぐいぐい来るな……。清水がこんな風に人に興味を持つのは本当に珍しい事だ。

 周りのクラスメイトも、何事かと目を丸くしている。

「いや、何か、急に襲われてさ、なんとか近くにあったもので殴って気絶させて、それで助かったんだよ」

 他の連中に話したように当たり障りなく言うと、清水はじっと俺の目を見てくる。

「……」

「……」

 何故か見詰め合ってしまった。暫くそのまま動けないでいると、

「そう、ありがと」

 清水はそう言って無表情のまま、(きびす)を返してドアへと歩いていった。

 ……何だったんだ。


 何だか気が抜けて溜息を吐いたその時、清水はこちらを振り返ってこう告げる。

「気をつけてね新堂くん」


 お大事に、という意味だと思いたいが、何だか不思議な感じがして気になった。


「珍しいなぁ、清水がお前に何の用だったんだ?」

 生徒会に呼ばれていた彰が戻ってきて言う。

 俺は苦笑いをしながら答えた。

「いや、俺にも原因不明だ。彰、飯は?」

「パン一個で済ませたよ。あ、話し変わるけど至、生徒会室に来れるか? 生徒会長が呼んでるんだけど」

 そういえばそんな話を朝していたな。

「今か? ……しょうがねえ、行くか」

 俺が重い腰を上げると、彰は「すまんな」と短く答えた。


 二学年がある校舎の最上階に、生徒会室はあった。昼休み。様々な生徒が、思い思いに過ごしている。

 二人で並んで歩き、そしてあるドアの前で彰が立ち止まった。ドアの上には、「生徒会室」の表記がある。


佐鳴(さなる)彰、入ります」

 ノックの後、そう声をかけてスライドされたドアの向こうに、その人物は居た。

 女性。思ったよりも小さい姿。さっきの清水瞳と同じくらいだ。

 応接用を思わせるソファに、胡坐(あぐら)をかいて座っている。

 俺の方を見ると、「新堂至か、座りなさい」と胡坐のままで言う。

 俺は彼女の真正面側のソファに、彰と一緒に座る。

「会長、胡坐(あぐら)は止めてください。下着が見えてますよ」

「あ、そうかすまん」

 そう、彰に言われてから座り方を正す彼女。

「知っていると思うが、こうして話すのは初めてだな。私は榊原凛子(さかきばらりんこ)、生徒会長をしている。三年だ」

 そう、握手を求められる。


 制服のラインは三年生を示す濃紺だ。ちなみに俺たち二年生は青、一年生はエメラルドグリーンをしている。

 身長は低め。さっきの清水瞳と同じくらいなので、恐らく155センチくらいだろう。

 俺は手を握ってお辞儀をする。

 彼女の紺色のオーバーニーソックスが目に入った。とくに目に付いたのは、右膝の青く仰々しいサポーター。怪我でもしているのだろうか。

「ああ、これは気にしないでくれ」

 俺の視線に気付いたのか、右膝を撫でながら彼女は笑う。

 ……失礼な事をしたな。


 彼女の顔を見る。凛々しい眉。タレ眼だ。髪は外ハネのショートミディアムヘア、という感じだった。

 美人の部類に入るが、行動力が目立ち過ぎるためか、そこに触れる人は少ない。


 学校一の秀才。終業式やら始業式やらの発言を聞く限り、頭がよく、難しそうな人だと思った。ちょっと苦手な部類の人間である。


 彼女はすぐに本題へと入った。

「この度は災難だったな。マスコミ対応等は担任から聞いてるだろう、割愛しよう。警察から正式に感謝状が来ているが、授与式などは必要か?」

 俺はハッキリと要りません、と答える。

 巻き込まれて、俺はそれに抗っただけだ。感謝される筋合いはない。

 俺の答えを聞くと、彼女は頷きながらゆっくりと足を組む。パンツが丸見えだったが、そういうのを気にする人では無いのだろう、俺は居心地が悪く眼を逸らす。ちなみに白と緑ストライプの縞々パンツだった。


「聞かせてくれ新堂至。例の犯人だが、何故君を襲ったのだ?」

 彼女はそう、真っ直ぐに俺を見て問う。皆に聞かれたように、俺は毅然と答えた。

「いや、俺にも分かりません。偶然だと思います」

 自然に答えられただろうか。なんだか緊張する。


 警察は全く信じてくれなかった。悪戯に赤の他人に話したって意味はない。彰にすら話していないんだ。

 仮に興味を持ってしまって、またあんな事態が起きれば、今度こそ、俺の責任で……取り返しのつかない事になる。


 彰は、何も言わずに俺の横顔を見ていた。

 生徒会長こと榊原凛子は笑ってこう続けた。


「そうか偶然か。あの犯人が明確な目的を持って人を襲っているとしたら、それはとても恐ろしい事だと思っていたのだよ。ただの愉快犯か、気の触れた人間だったと言うならあとは警察に任せれば良い。

 君には感謝しているよ新堂至。もし犯人がそのまま逃げようものなら、あるいは犠牲者は増えていただろう。

 生徒会としては部活の中止や集団下校も視野に入れねばならなかったからな。学校を代表し、私からも礼を言おう。ありがとう」


 組んでいた足を直して、座ったまま一礼する彼女。

 俺も礼で返した。変な噂ばかり聞いていたが、とても気持ちの良い女性じゃないか。言葉遣いが男らしい感じがするのは、母親で慣れているので問題は無い。


 まだ怪我が完治していないので、感謝状とやらは学校サイドで受け取っておいて欲しいと伝え、俺たちは生徒会室を後にする。


 後ろ手でドアを閉めた俺に、先に歩いていた彰が神妙な表情で振り向いて口を開く。

「……危険人物に遭ったら逃げる。これは鉄則だ。剣の心得があるからって、過信はダメだ。言われなくても分かってると思うし、今回はそんな事も不可能な事態だっただろうからしょうがないけどな、至。

 くれぐれも危険な事に首を突っ込まないでくれよ。命あってこそだからな」

 廊下で歩いていると、彰にそんな事を言われる。

「ああ、分かってる。進んで危険に突っ込んで行こうなんて思わねえよ。もうあんな目に遭うのはゴメンだ」

 腹を撫でながら、俺は笑う。彰はまた苦笑いで返した。


 途中、彰はえらく髪の綺麗な途轍もない美人の一年生の子に呼び止められ生徒会室へと戻っていく事となり、俺は一人教室へと戻っていった。


 途中の廊下の窓から、あの千年坂が見える。俺は立ち止まってそれを見詰めた。

 今日は病院でリハビリを終えたら、行かねばならない。ある場所へ。

 そびえたつ巨大な樹が見える。この二週間、あの『眼の夢』は見なかった。先日の出来事のフラッシュバックばかりだ。

 だが、何も終わっていない。そう感じている。


 

 学校が終わり、校門を出ると清水瞳が立っていた。

「よう、帰りか」

「うん」

 清水はそう、短く答えて歩き出した。

 千年坂の方向へ。

「あれ、お前の家ってそっちだっけ?」

 俺が尋ねると、彼女はゆっくりと首を左右に振った。

「今日はね、東郷医院へ行くんだニャン」

 真顔でニャン付けをする辺りは流石だ。恐らく昨夜は某アイドルグループの冠番組を見たのだろう。

「病気でもしてんのかよ?」

 俺が意外な顔で尋ねると、彼女はまたゆっくりと左右に首を振る。動作がいちいち遅い。

「お薬をね、貰いに行くニャン」

「そ、そうか」

 家族か誰かの薬なのかな、と勝手に想像する。流石に同じ方向に進むのに邪険に扱う訳にも行かず、無言のまま並んで歩く事となった。共に、千年坂を上る。


 ちなみに神楽は陸上の大会が近いとやらで、暫く帰りが遅くなるのだそうだ。あいつが居ると病院後の寄り道は難しくなる。好都合だ。

 彰は生徒会の仕事が多いため、最近は一緒に帰るのは難しくなりつつある。


 坂の中腹で、清水が不意に口を開く。

「新堂くん。写真撮って良いかニャン?」

 彼女が、ポケットからデジカメを取り出す。

「え、俺のか?」

 そう尋ねると、彼女はゆっくりと頷く。やっぱり動作は遅かった。

「別にいいけどよ……変な事に使うなよ? 今の俺の写真は週刊誌に高く売れちゃうからな? 時の人だから」

 そう、冗談めかして言う。未成年なので直接顔が出る事はないだろうと担任も言っていた。清水は少しだけ考えてから、口を開いた。

「ニャー」

 いや、わかんねえし。声のトーンも変わらないから可愛くも無えし。


 彼女は無言、かつ無表情のまま、デジカメで俺の横顔を撮る。間近でそのデジカメを見るのは初めてだ。小さい。写真に興味はないが、あの男心くすぐるシルバーメタルは順調に成長した男の子の所有欲をくすぐるな。

 特にポーズを要求されなかったので、俺は勝手に撮らせる事にした。


 坂の頂上で何も起きなかった事に安堵しつつ、病院まで歩く。清水は数枚撮影すると満足した様で、俺の横をトコトコとついてきた。何を語るでもなく病院前まで着き、病院内で清水と別れると、俺は受付機にカードを通してからリハビリ室へと向かう。

 入院中にも何度か世話になった場所だが、病棟で寝ているよりは楽しい場所だ。リハビリ専門のスタッフも居て、比較的若い人が多いので話しも弾む。俺はそのまま、一時間程度のリハビリを終えて病院を後にした。

 終わる頃にはもちろん清水の姿は無かった。

 俺は家のある南側ではなく、西の小径(こみち)へと足を進める。

 この先に、目的地がある。


  ◇


 先日の夢だと思いたかったあの出来事の最中で、痛烈に瞼の裏に焼きついた光景がいくつかあった。


 一つは、神社の境内。

 一つは、水場と岩だらけの場所。巨大な樹の麓。


 二つ目の場所には全く心当たりがないのだが、一つ目に見えた神社の境内は、近々夏祭りが開催されるであろう、病院近くの神社のものだったのだ。

 子供の頃によく遊んだ場所だ。

 今から向かうなら、まだ明るいうちに着けるはずだ。

「……うし、行くか」


 子供の頃にあの夢を見た事も、神社周辺に違和感を覚えた事はない。これからあの場所に向かう事で、何が起きるかも、正直分からない。

(くれぐれも危険な事に首を突っ込まないでくれよ。命あってこそだからな)

 彰の言葉が脳裏を過ぎる。

 分かっているけどな、彰。でも、俺は行かなければならないだろう。俺の妹が……一度死ぬ羽目になったんだ。

 またあんなことが起きれば、俺はまた許せない。

 俺の大切な人たちを傷つける者を。

 そして、そんな人たちを巻き込んだ俺自身を。

 それを止める糸口が、ここにあるような気がするんだ。


 目的の場所はすぐに辿り着いた。

 目の前に、神社の鳥居が見える。その独特のくすんだ赤さの鳥居は、この夕暮れに近い時間では若干不気味さを感じる。

 ここは場所的には、坂の上の中心に近い場所かもしれない。奥にお(やしろ)が見える。初詣の時にガラガラと鳴らす例のアレや賽銭箱がある。

 御神体などが、あの中に奉られているのだろうか。いったいどんな神様が奉られているのか、そう言えば全然知らない。


 周囲に人はいない。社務所の明かりも点いていなかった。 

 ぐるりと回ってみたが、あの時感じたような違和感、夢と同じ空気にはならなかった。

 そうこうしているうちに、時間はどんどん夕暮れへと近付いていく。

 

「……ハズレか。もう一つの場所に心当たりは無えんだけどな……」

 ガシガシと頭を掻きながら俺は歩き出す。


 見上げれば、いつもの巨大なクスノキが(そび)え立っていた。

 ……そういえばあの樹の根元ってどうやって行くのだっただろうか。子供の頃に見た記憶はある。御神木特有の注連縄(しめなわ)が巻いてあった、立派な樹だった筈だ。


 樹齢は既に千年だと聞いた記憶がある。あ、だから「千年坂」なのか?


 その時だ。

 社の影。草木に囲まれた場所。何故か違和感を感じた。

 俺は、意を決してその場所へと歩いてみる。


 真夏の草むらだ。虫の声が凄い。

 ふとしゃがんで見ると、木の間にぽっかりと穴のようなものが空いていた。這って行けば通れそうな、木に囲まれた小さな通路。子供向けの映画にあったな、こういうの。秘密基地への通路みたいだ。でもこんなもの、子供の時に見つけていれば確実に覚えているはずだ。

 俺はしゃがみ込み、四つ這いになる。子供が通れるくらいの空間を避けるように木が絡み合って、天然のトンネルを形成していた。俺はゆっくりと進み始める。


 気分が高揚する。いくつになってもこういう場所は心が踊るものだ。しかし、ズボンはドロだらけになるだろう。帰ったら神楽がまた怒るだろうなぁ……。


 そうして、開けた場所に出た。

 その先にある光景に、俺は声を失った。

 明らかに、この町の光景とは思えない。小さな池と、それを囲むような岩場。

 町のどこからでも見える巨木の根元。子供の頃の記憶にある、注連縄を撒かれたクスノキの付け根。

 それがここだった。あんな場所を通った記憶はないが、確かにここだ。


 その小さな池の中心に、小さなお(やしろ)がある。

 あのフラッシュバックの光景と、寸分違わぬ場所。

 

「あった……ここだ、間違いない」俺は呟く。

 心臓が早鐘を打つ。何が起きるか分からないが、そこはとても神秘的で、静かな空気を放っていた。ぼう……と光る点がそこら中で動いている。蛍だろうか。

 

 何か起きるのだろうか、と警戒しながら暫くそのまま立っていたが、虫の声がずっと響く以外、何も起こらない。

 ……このままでは埒があかないか。


 池の中央の、お(やしろ)を見る。小さい。ここから目算で、三十から四十センチくらいの大きさしかない。鳥居に似たくすんだ赤色の屋根、木製の扉が付いている。中は暗くて見えない。単純に考えるなら、御神体などを納めるお社だろう。

 俺は意を決して、そこに近付いてみる。


 水は浅かったが、長靴の用意なんてしていない。仕方が無いので、そのまま足を水辺に踏み入れる。真夏だと言うのに、凄まじく冷たい水だった。水底から、ふわりとした感触を受ける。

 遠目から見たらお社は水の中央に浮かんでいるように見えた。近付いてみると、しっかりとその水の底から立っている。


 この小さなお社の中に、一連の出来事のヒントがあるのだろうか。

 しかし、こういうのって確か勝手に触ったらバチが当たるんじゃないだろうか。

 俺は扉の前で葛藤する。

 

 だが、家族の、友達の命が掛かっているかも知れない。

 何の神様だか知りませんが、どうかお赦しください、そう心の中で呟いて、俺はそのお社の扉に手をかけようとした。

 その時。

「ダメだよ」

 突如、頭の中で声が響いたような気がした。


「うぉう!」

 俺は心臓が鷲掴みにされたようになり、思わず叫んだ。

 何事かと思って背後を見ると、病院で別れた筈の少女――清水瞳が立っている。


「し、しみず?」

 俺が一オクターブ高い声で尋ねると、彼女は続けた。

「ダメだよ、そこ私の家なの」

 そう、短く呟いた。

「そ、そうか、すまん」

 俺はそう、思わず呟いて手を引っ込める。

「冗談」

 彼女も短く呟く。

「ふ、風呂とトイレは共同か? ワンルームに住んでたんだな清水。ここ家賃いくらだよ?」

 どきどきする心臓を誤魔化すように、冗談で返す。

「風呂は坂の下の松の湯を利用するの」清水も冗談で返した。


 俺は、突然の知り合いの来訪に驚きと、同時に安堵感を覚えていた。


 彼女は、ゆっくりと俺の方へと近付いてきて口を開く。


「ここにはね、鬼が眠っているのよ」

「……鬼?」

「聞いたこと無い? 『千年坂の白い鬼』の伝説」


 ……ああ、思い出した。

 前に、あの変な男に襲われる直前に、千年坂に関する何かが脳裏に過ぎった事を。


――千年坂には、鬼がいる。

 その昔、まだ人が獣と仲が良かった頃の話。

 この地には、鬼が居た。

 それは美しい長い髪を持った鬼だった。

 鬼は人を襲い、食らうそうだ。

 人からも獣からも恐れられた鬼は、やがて力を持った人に倒された。

 その身は四つに分かたれ、四人の巫女に見守られ、一つは坂の天辺に、一つは坂の下に。

 残る二つは、北と南に大切に奉ってある――との事だ。唄になっているのは覚えている。祭りの時、最後に唄われるのがその唄だ。

 子供の頃の御伽噺(おとぎばなし)だ。夜遅くまで起きている子は、千年坂の鬼に食われちまうぞ。

 

 俺が子供の頃に聞いて、夜トイレに行けなくなったのは言うまでも無い。だが、何だろう。唄で聞いただけのわりには、何だか痛烈に、画像というか風景が。イメージが頭の中を過ぎる。

「ここは坂の天辺。まさにその鬼の頭を奉っている場所。開けたら食われていたわ」

 清水は真顔で言う。

「……また冗談だよな?」

 俺が尋ねると、彼女はまた「冗談」と呟く。……そりゃ心臓に悪い。


 一瞬の沈黙のあと、俺は疑問をぶつける。

「……お前、何でこんなとこに居るんだよ」

 そう尋ねると、清水はじーっと俺の眼を見詰めてきた。昼にそうやったように、見詰め合ってしまう。

「新堂くんがここに来るのが見えたから」

 暫くの静寂の後、そう彼女は呟いた。一時間近くもどこに居たんだよ。

「だ、ニャン」

 あ、付け足した。

 そうこうしているうちに、陽はどんどん傾いていく。空は真っ赤だ。

 自分がここにいる理由も話さなければならないのだろうが、本当の事を言える訳も無い。どう言い訳をしようか考える。


 一瞬太陽を見てから清水に視線を戻すと、彼女の顔が俺のすぐ目の前にあった。

「ち、近いぞ清水」

 ……とっても良い匂いがする。どうして女の子はこんなに甘い匂いがするのでしょうか神様。


 彼女の眼は、なんだか光がない。俺ではなく、どこか遠くを見詰めているようにも思える。でも、彼女の瞳には確かに俺の姿が映っている。

 いきなり沸いて出たロマンスの始まりに、俺の心臓が早くなる。


 ほんの一瞬。


 彼女の瞳に映る、俺の姿がブレた。

 

 それと同時に――



 周囲が、あの空気に包まれた。


 斜陽、閉じた空気。ピリピリと肌を刺す威圧感。

 同じだ。あの男と対峙した時と同じ空気。


「ぐっ……!?」


 俺は全身が粟立った。まだ完全には治っていないこの身体で、あんな事態が起きてしまったらどうする。これは一番怖かった事だ。


 おまけに今は――目の前にクラスメイトが。清水瞳がいるのだ。

 ヤバイ。ヤバイヤバイ。

 俺は思案を巡らせる。

 目の前の清水はさっきと全く変わらない様子で俺を見詰めたままだった。

 よく考えればこの行動だって異常だ。虫の音が全て消える。

 

 逃げなければ。そう考える。

 目の前の清水の手を取って、走り出さねばいけない。そう思った。

「清水、逃げるぞ!」

 俺は叫ぶ。

 目の前の彼女の右手を握る。清水に反応はない。無理やり手を引っ張って、俺は周囲を見渡す。

 その違和感の正体は――掴めない。


 以前は明らかな感覚を男の方から感じたのだ。そう、あの兜屋炎児からは。

 だが、彼女の手を取り、一歩走り出した次の瞬間――


 まるでシャボン玉が割れるかのように、さっきの空気が、破裂した。

 音こそしないものの、さっきまでの空間が、消えた。嘘のように。すぐに虫と蛙の大合唱が始まる。


 俺は一歩走り出したその時の姿勢のまま、空を、辺りを見渡す。

「新堂くん」

 清水の声で我に返った。

 彼女は、真顔のまま続ける。

「えっち」

「うお、すまん!」

 俺は掴んだままだった彼女の手を離す。

「まだ早いわ」

 清水は頬を染めるでもなくそんな事を呟く。ごめんなさいごめんなさい。


「帰ろう、もうご飯」

 彼女がそう呟き、先に歩いていく。まるで何事も無かったかのように。


 俺は、早鐘を打つ心臓を落ち着けるために、深呼吸をする。

 彼女は、気付いていない。今の出来事に。一体、何があったというのだろう。ただ、今の空気、今の空間が発生した事は、紛れも無い事実。そして、あの神楽の死が、兜屋の来訪が、やはり夢ではなかった裏付けだ。

 ただ、少しだけ違った。空気は一緒だが、そんなに『怖い』とは感じなかった……何が原因だろう。

 

 心臓が落ち着き、俺は清水の背中を追った。

 靴がぐしゅりと音を立てる。水の中に入っていた時はちょっと気持ち良かったのにな。今は若干気持ち悪い。

 清水はと言うと、衣服に汚れが無いから別の道を通ってきたものだと思っていたのだが、先陣を切って俺がさっき通った木のトンネルを這って行った。

 俺は、黙って後ろを付いて行く。

 顔を上げるともちろん、清水のパンツが丸見えだった。可憐なピンク。くそ、何故先に行く。つーか警戒しろよ! 俺は極力見ないように、頭を下げて這っていく。


 神社の前に出る。


 今まで、あの大樹の根元に居たのだ。何だか実感出来ない。

 清水は、すっと俺から離れて振り返り、口を開いた。

「また明日ね、新堂くん」

 俺は「ああ」と短く答えて、そして尋ねる。

「なあ清水、さっきの――」

 そこまで言って、口ごもる。

 さっきの変な空間、分かったか?

 俺はそう尋ねるのだろうか。


 彼女は俺に一歩近付いたあと、首を傾げて俺の目を見ている。だから近いって。

「あ、ニャン」

 あ、は要らねえ。


 送ろうか、と申し出てみたが、彼女はやんわりと断ってから歩き出す。

 もう、外は暗い。

 俺は手を振って、その背中を見送る。


 携帯電話を見ると、丁度妹からの電話着信が来た。出てみると、半分泣いたような声だった。

 ずっと電波の届かない所に居ます、のアナウンスだったらしい。

 あの場所は電波の届かない場所か。入る前にメールくらいしておくべきだった、と反省する。



 電話をしながら、遠くなっていく清水の背中を見ていた。

 右手で中空を指差し、何か描いているように見えた。

 変わった娘だが、何だか一気に近付いたような気がした。まだ早いって言われた。それはこれから清い交際を始めましょうという意味なのでしょうか清水さん。


 それにしても――さっきの空間は、一体何だったのだろう……。


  ◇


 

 帰ってから妹にこっぴどく怒られた。眼が真っ赤だった。ズボンや靴がドロだらけだったのもついでに怒られた。

「お風呂入ってくる!」

 叫んで、行ってしまう。

「至」

 それを見ていた母親が、俺に声を掛けてきた。

「あんな事件があった後だ。連絡くらいしなさい」

「あ、ごめん……」

 俺は素直に謝る。


「酷かったぞ。何度も何度もリダイヤルを押し、警察を呼ぼうかとも言っていた」

 ……心配性に拍車が掛かっておられます。


 もちろんリハビリに行ったであろう病院にも既に電話をしており、終わって帰った事は聞いていたらしい。


「明日からは『お兄ちゃんと一緒に登下校する』と誓っていたぞ。こうなっては私にはどうする事も出来ん」

 母親は溜息を吐いた。

 ……俺にもどうする事も出来ない。意外と頑固なんだあいつ。



 俺は、一つ思い出した事があり、夕食を終えた後、二階にある物置の本棚へと向かった。

 ……記憶があるんだ。ビジュアル付きの記憶。

『千年坂の鬼』についての記憶が。


 二から三十分程度、埃っぽくひやりとする物置の中を探し続ける。

 そして、ついに見つけた。


 その本は、所々破れ、後ろに判子が押してある絵本だった。


 痛烈に、思い出す。

 タイトルは、文字通り『千年坂の白い鬼』

 ひらがなでルビが振ってある。


 一ページ目を見ると、まさにあの光景。

 眼だ。巨大な眼。金色だろうか、べったりとしたオレンジ色で描かれた、目だけのページ。


 俺は心臓を鷲掴みにされる。

 これは夢でみたビジョンそのものじゃないか。子供の頃はとても怖かったという記憶しかない。あまり見る事はなかったのだろう、この物語の先の記憶が全くない。 

 もしかして、幼少期のトラウマ的なものが、今になって蘇ったのだろうか。夢を見ても、この本の事は今まで微塵も思い出さなかったのは何故だろう。


 俺は慎重にページをめくろうとして、更に驚愕した。

 ページ同士が張り付く感じ。独特の塗料の香り。

 この絵本は、印刷されたものではない。手に若干の塗料が付く。


 全て――手描きされている。


 慌てて裏表紙を見ても、もちろんバーコードなんて付いていない。

 作者を探す。

 本来出版社やら作者の名前やらがある場所は、何も書いていない。唯一押してある判子は、一体何と書いてあるのだろう。見た事もない漢字のような判子だった。 

 俺はその絵本を持って部屋へと入る。この本の出所は後で母親にでも聞けばいいだろう。

 

 一枚、ページをめくる。

 あの眼と、千年坂。しかしその坂は家もなくアスファルトでもない。だが、遠くに巨大な樹が見える。間違いなく千年坂だ。恐らく、何年も前のものなのだろう。それが本当に昔の風景を描いたものなのかどうかはわからない。

 更にページをめくる。次の見開きページは、空白。何も描かれていない。その次のページへと進む。


 千年坂にある大木の根元で、人間を食べている、鬼。

 その眼は一ページ目にあるものと同じ、金色の虹彩(こうさい)だ。白く長い髪。鬼、と呼ばれているわりには角が見当たらないが、耳は尖っていた。簡素な白い服を着て、座り込んだまま人間の頭をかじっている。


 写実的な描写ではない。所詮は子供が見る絵本だ。鬼もデフォルメされており、かじられている人間は大粒の涙を流していた。子供の時はこれすら怖かったのだと思うと、思わず笑ってしまう。


 更にページをめくる。

 その鬼が、今度は大勢の人間に囲まれていた。

 大木の根元。今度は夜。クワやら包丁やらを持った、恐らく農家の人たちから囲まれて、今度は鬼が泣いていた。


 更にページをめくる。

 その鬼がバラバラにされていた。

 頭、胴体、そして手、足。

 それぞれ別の人たちが抱えている。右手と左手は一セット。右足と左足は一セットのようだ。

 スコップのようなもので土を掘る描写。そしてあの時見たお社のような描写。

 それぞれが別の場所に埋められたような印象を受けた。俺の記憶も大したものだと関心する。

 

 更にページをめくる。

 すっかり現代と化した千年坂。夜寝ない子は、鬼が出てきて食べちゃうぞ。そう読み取れるページで、締めくくられている。

 一つだけ記憶と違ったのは、物語の内容を示すであろう文章が何一つ無かった事だ。全て絵のみで構成されている。


 悪い事をすると、鬼のように懲らしめられる。

 悪い事をすると、その鬼が再び出てきて食べられる。


 これは寝る前に親が子に読み聞かせる御伽噺(おとぎばなし)の一つなのだと思う。詳しい内容は祭りの時に聞く郷土唄で知っていたが、それに付随したビジョンは恐らくこの絵本のものなのだろう。恐るべし、子供の時の記憶。


 あのお社を見てしまうと、この絵本とあの郷土唄が本当に単なる物語なのか。そう思ってしまう。

 火を扱った男――兜屋炎児とどういう関係があるかは分からないのだが、あの男が妙な力を授かり、そして何かを求めていたのは確実な事だ。


 仮説を立てる。

 あの男が探していたものは、この千年坂の鬼の力。

 その夢に悩まされている俺を何らかの方法で感知し、その鬼の場所へと案内させようとした。

 こう考えるとまあ、あの男の言葉も納得出来なくは無いか……。


 そんな事を考えていた時に、部屋のドアをノックする音が聞こえた。

「お兄ちゃん、お風呂空いたよ」

 神楽だ。俺が分かった、と答えると、遠慮がちにドアが開く。俺が机に向かっているのを見ると、彼女はゆっくり部屋へと入ってきた。もう怒ってはいないようだ。

「あ、だめだよ、夜はカーテン閉めないと」

 バスタオルを頭に乗っけたままの神楽が、俺の部屋のカーテンを閉める。擦れ違った時、シャンプーの良い香りがした。

 彼女はすぐに、机の上の絵本に気付いた。

「わ、これ懐かしい!」

 そう叫ぶ。

「そうか、お前もやっぱり覚えてるのか?」

「これは忘れないよ~。怖かったもん」

 神楽はパラパラとページをめくる。

 もっと小さい時は同じ部屋で寝ていた筈だ。恐らく一緒に母親の話を聞いていたんだろう。

「あれ、これ手描きなんだ? わあ、色付いちゃったよ」

 神楽も気付く。そして、眼を細めてあるページを見詰めていた。横から覗くと、それは鬼がバラバラにされているシーンだ。

「そのページがどうかしたのか?」

「いや……ううん、なんでもない。さ、お兄ちゃん、お風呂入って! な、何なら背中流してあげるよ!」

 神楽がさらりととんでもない事を言い出す。

「いや、それは正影さんが怖すぎるから止めてくれ」

「お父さん今日は帰って来ないよ? お母さん寝ちゃったし」

 はやっ。まだ八時だぞ。


 なんだかテンションの高い神楽を放置し、俺は風呂へと向かう。



 湯船で、天井を見上げたまま考える。

 あの絵本。一ページ目を開いた時に、あの夢と同じような恐怖感を覚えた。

 この一連の出来事に、何か深い関わりがあるような気がしてならない。


 神楽の頭だけの、虚ろな表情を思い出し、俺は湯船に潜って頭を振る。頭を水面に持ち上げた時、風呂場の外から声がした。

「お兄ちゃん」

「ん、どうした」

「入るよ?」

「……え?」

 突然、風呂のスライドドアを開け、神楽が突入してきた。

「なっ、な、何事っ!」

 俺は叫ぶ。慌てて顔を手で覆った。指の間からちらりと見ると、強い紺色が見える。こ、これはスクール水着! こんな間近で中身入りスクール水着を見るのは生まれて初めてだよ!

 ……正影さん、あなたの娘さんは立派に成長しております。まあ安心のAカップのようですが。



「……で、どういう風の吹き回しだ」

 背中をごしごしと洗われながら、俺が尋ねる。

「最近さ、お兄ちゃんときちんとお話したこと無いな、って思ったんだよね。

 あの時ね。私を抱き締めて泣いてくれた時……ちょっと嬉しかったよ。何だか避けられてたような気がしてたから」

 真っ赤っかの顔で、神楽はそんな事を呟く。

 ……本当にこいつは、子供の時から変わんないなぁ。


 子供の時は俺にべったりで、何をするでもお兄ちゃんお兄ちゃんだった神楽は、中学二年生くらいから陸上部で頭角を現し始め、すっかり兄離れしてしまった。

 兄としては安心したような、寂しいような。そう思ったのも確かだ。

 しかし、真っ赤な顔ではにかむ神楽は……可愛い。多分学校ではすごいモテるんだろうなぁ、と思う。


 ふと、神楽の手が止まる。

 その手が震えてるように思えた。

「……神楽?」

「……お兄ちゃん、居なくならないでね? もう、嫌だよ? お兄ちゃんが倒れてるのを見た時、心臓が止まるかと思った。お兄ちゃんが入院するって聞いて、私、何度代わってあげられないか、って思った。もう、あんな思いしたくないよ……」

 そう、震える声で彼女は呟く。


 ……神楽はこうして生きている。

 彼女が死んだ時、俺は何も出来ない無力さに震え、そしてもう戻らない笑顔を強く、強く思い出した。


 また会えた時、とても大切なものだと感じた。失ってはいけないものなんだと、心から思った。


――そしてそれは、神楽も同じだったんだ。倒れた俺を見た時、神楽も同じ事を思ってくれていたんだ。


 俺は、震える神楽の手を握る。

 彼女は真っ赤な顔で、涙を流していた。

「俺は居なくならない。大丈夫だよ神楽。約束する」

「……うん」

 今度は――必ず護ってやる。必ず。



 一緒に湯船に浸かる。三年程前に水周りのリフォームをした時に、湯船は頑張れば足を伸ばせる今時の風呂に変貌している。大人二人でも何とか入れるサイズだ。

「お兄ちゃん、前に私の服脱がせようとした時」

「お、おう」

「何を確かめたかったの?」

 神楽が、そう尋ねてくる。

「いや、ちょっとな」

 流石に首が千切れた痕跡が無いかです、とは言えない。のぼせたのか、顔が真っ赤になった神楽が、俺に背中を向けて言う。

「いいよ、確かめて」

 そう、呟いた。

「そ、そうか? すまん」

 その言葉を受けて、俺は濡れた神楽の髪を持ち上げ、首を観察する。

 あの時の断面を思い出し、若干気持ち悪くなる。俺は、指で感触を確かめながら神楽の首周囲を確かめた。皮膚が盛り上がっているとか、そういう痕跡はない。色が変わった場所もない。後ろから前方も覗き込む。彼女は赤い耳のまま、少し上を向いてくれた。


 だが、やはり千切れた痕も繋げた痕も見当たらない。生きていてくれたのは本当に嬉しい。だが、俺の体験も夢や幻だとは思えない。近くで見ても、話してみた感じも、これは確実に俺の妹の神楽だ。それは間違いない。


「……いいよ、ありがとう」

「えっ、終わり?」

 神楽が赤い顔のままびっくりしている。


 俺が病院のベッドで起きるまでに、一体何が起きたのか。いつか分かる日が来るのだろうか。


 あれから二週間。あの夢は見ていない。

 あの大樹の下、奇妙な空気に包まれたあの瞬間の事はとても気になるが、どうやらまた無事平穏な日常へと帰る事が出来そうだ。そう思う。


 だが、情報収集は大切だ。俺は『千年坂の白い鬼』について、もう少し調べてみようと思った。


 特に何事もなく、二人の秘密のお風呂タイムは終了となった。神楽は何か言いたげだったが、気にしない事にした。あぁ……恥ずかしかった。



 その夜。夢を見た。


 あの坂を逃げる夢ではなかった。大樹の下の、小さなお社の目の前。

 自分の手が、そのお社の扉を、ゆっくりと開けている。その中にある物を、両手で取り出している。白い布に包まれ、札が貼られている。

 俺は、その包みをそっと、取り外している。

 白い布が落ち、俺はその中身を、大切そうに両手で抱えていた。

 それは、人間に見える、頭のミイラだった。



 翌朝。


 ……嫌な夢だった。

 皮膚の感じ、落ち窪んだ眼球。全てがリアルだった。清水は言っていた。鬼の頭が奉ってあると。ただ、あれは鬼というよりは……俺たちと同じ人間の頭蓋だったような気がする。


 嫌な夢ではあったが、前に見た巨大な眼のような、凄まじい恐怖に包まれるような夢では無かった。あれと比べると、ちょっと気持ち悪い程度だ。


 感覚的に、夢が一段進んだかのような、そんな印象を受けた。

 この一連の流れに、何の意味があると言うのだろう。


 ぼやけた頭で、洗面所で歯を磨く。

 ……こんな精神状態でも、学校には行かなきゃなぁ。


 ピンポーン

 突如チャイムの音が響き、歯ブラシを咥えたままドアを開けると、清水瞳が立っていた。


「よ」

 無表情のまま、片手を上げて挨拶する清水。何だそのキャラは。

 俺の口から歯ブラシが落ちて、玄関で跳ねる。

 後ろから、神楽の息を呑む音が聞こえた。


 な、何が始まるんです?

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