第一話 夢神楽★
眼だ。
また、あの眼だ。
巨大な眼に、追われている。
その金色に輝く虹彩に、俺は強い恐怖心を覚えた。
止めろ。見せるな。
――その光景を、俺に見せないでくれ――
「お兄ちゃん?」
声が、聞こえたような気がした。
朝。
眼を開けると、いつもの天井だった。
陽光に照らされた部屋の温度は高く、開けっ放しだった窓から吹き込む風に呼応し青いカーテンが揺れる。鳥の声が聞こえた。
早鐘を打つ心臓。俺は無理矢理上半身を起こす。
汗だくのシャツの胸の辺りを右手で掴み、止まっていた呼吸を取り戻すかの如く息を整えた。眼の熱さに戸惑う。
「くっそ……またあの夢かよ……」
ふと見ると部屋のドアは開いていて、そこには人影があった。栗色の髪が見える。遠慮がちに俺の部屋を覗くのは、どうやら妹らしい。
俺と眼が合ったのに安心したのか、彼女は恐る恐る部屋へと足を踏み入れた。
「すごい声したよ? ……また悪い夢見た?」
「あ……悪い、また叫んでたのか、俺」
――夢を見た。
怖い夢。
最近、異様な悪夢に魘される。
途轍もなく巨大な、金色の眼に追われた。
俺は学生服のままで、あの巨大な坂を駆け上っていた。呼吸は速く、心臓は破けそうになり、特有の鉄の味が口いっぱいに広がっていく、とてもリアルな感覚。
逃げろ、逃げろ、逃げろ――
焦燥感に駆られ、恐怖に包まれ俺は走り続ける。
異様に生温かく、そしてまとわりついてくる嫌な空気の中を、俺はとにかく走り続けていた。その最中。二転、三転と何処かで見たような光景が頭の中に浮かんでは消える。
家に着く。息が詰まりそうだ。
震える手で鍵を開け、家のドアノブを掴み、思いっきり引っ張り、
何かを見た。
いつもそこで、眼が覚める。
ただ、その先の光景がいつも思い出せない。
カッチ……カッチ……。
部屋の時計の音が、やけに響いた気がした。俺はさっきの夢を思い出し、無口になる。
……悪い目覚めだ。俺は顔に手を当てる。妹は心配そうに、入り口で立ったまま俺を見ていた。
心配するなと目で合図を送り微笑んで見せると、彼女は少しだけ安心した表情で静かに頷く。
……そうだ。こういうことは何度もあった。
高校二年生に上がって約三ヶ月。大して代わり映えのしない中学からの腐れ縁も多いクラスで、特に悩みを抱えるような事もない順風満帆な学園生活、の筈だった。
それが、ここ数週間は夢のせいでロクに寝た気がしていない。身体に異常は無い。心だってそうだと思う。
「病院とか行った方がいいのかな……?」
いつの間にか俺の部屋のカーテンを開けた妹が呟く。一気に部屋が明るくなっていた。
「……体は何ともねえよ? お前は心配しすぎじゃねえのか?」
「でも、ストレス貯まってると変な夢見るってテレビで見た事あるし……、自覚症状の無い病気とか隠れてて、それが原因になることだってあるだろうし……」
彼女は非常に心配性だ。こと俺の事になると特にそう思う。
「大丈夫だって、まあ、ちょっと続いてるからな、この変な夢。いよいよヤバかったらきちんと病院行くから、安心しろよ」
俺がそう言うと、やっと安心したのか彼女は微笑んだ。
天気は良いようだ。もうすぐ本格的な夏が来る。この六月は異常な暑さで、ニュースでは猛暑の記録を更新しただの、どこが一番暑いだの、そういう話題で持ちきりだった。
「今日も暑くなりそうだね。……改めまして、おはよう、お兄ちゃん」
「ああ、おはよう神楽。いい朝だな」
そう返すと彼女はにっこり笑った。
かぐら、というのは年齢が一つだけ離れた俺の妹の名前だ。新堂神楽。十六歳。
正確には物心ついた時から一緒に育った義理の妹で、母親の再婚相手の連れ子というとってもベタな展開なのだが、奔放な親の性格のためか、そういう事情に違和感を覚えた事はない。
陽光の中俺へと向き直る神楽。
「こうやって見ると、真っ茶色だな、髪の毛」
「え、え、そうかな? やっぱり本当のお母さんに似たのかな? どこか違う国の血が混じってたんだって」
彼女が天然パーマで緩やかにウェーブが掛かった髪を触りながら言う。光に通して見るとまるでフランス人形のような容姿だ。子供の頃ならいじめられそうな要因だが、余りにも似合い過ぎているせいかそんな事は無かった。
陸上部所属で、そこそこ良い成績を残している。 家族思いで優しい、自慢の妹。
その家族思い……を通り越して若干心配性気味な妹を尻目に、俺は汗だくのシャツを脱ぎ捨ててから、新しいシャツを箪笥から取り出す。
「あ! もう、また脱ぎっぱなし!」
妹が投げたシャツを拾うと、怒っているのか赤い耳のまま俺の方を見ずにドアから出て行く。
「お母さんがご飯出来てるから早く食べてって」
そう呟いてから階段を下りていってしまった。
朝の身支度を終え、朝飯を駆け込み、俺は通学用のカバンを掴んだ。
「行って来まーす」
「ん、気をつけてな」
母親の声を背中に受けてから、俺は家のドアを開け息を吸い込んだ。真夏のアスファルトの匂いがする。
俺は大きく伸びをした。
俺の町には、うんざりする程長く、急な坂がある。
学校までの数十分、延々とその坂を下り続けなければならない。逆を言えば、家に帰る為にその坂を延々と上らなければ帰る事は出来ない。自転車通学を一日で諦めた原因だ。
そして俺の家はその、馬鹿でかい坂の上にあった。
誰が呼んだか、この坂は地図にも載っていないその名前で呼ばれている。
『千年坂』と。
ちなみに神楽は、部活の朝練があるとの事で先に行ってしまっている。
母親は俺たちを送り出したあと、いくつかの家事を終えてからパートへと繰り出す。
父親は肉体労働系の仕事をしている。今日は俺達が起きる前に家を出たのだろうか、玄関横のスペースにはレンチやら、高圧洗浄機やらが出したままになっていた。何かをしようとしては時間が無くなって放置していくのはもはや癖としか思えない。また母親にどやされるぞ正影さん。
一番最初に帰る事が多い俺の使い古した通学カバンのポケットには、玄関の鍵が常備されている。それがある事を確認してから、俺は目の前の景色を眺めた。
巨大な積乱雲をバックに、いつもの町並みが見える。
この町は好きだった。坂の上から、学校のグラウンドが見える。
その外周は防風林で、そこを超えると一面畑が見えた。人口は十万人程度の小さな町だ。
坂の上には俺の家やなじみの医院、神社などがある。
神社の近くには巨大な樹が立っていて、それはこの町のどこからでも見えるクスノキだ。
そういえば来月は夏祭りか。パトカーがいつもより多いような気がするが、夏祭り近くになると出現する暴走族対策だろうか。
「至!」
坂を降り切った所で、背中に声を受けて振り返った。
そこには、銀縁メガネに黒髪七三分けの美男子が立っている。俺は、笑顔で返した。
「彰、オッス」
俺が手を上げて答えると、彼も同じように手を上げて口を開く。
「何だ、ひどい顔だな?」
「いや……またあの変な夢見てなぁ」
「またか。あれか、欲求不満なんじゃないのか?」
と、妹とは違う見解を示すこの男。
俺の小学校からの腐れ縁で親友の佐鳴彰という。
身長は俺より少し低いくらい。文武両道で生徒会の一員。家は怪しげな古流剣術とやらをやっていて、子供の頃から俺も一緒に木刀を振らされていた。
俺は十四歳くらいの時に止めてしまったが、彰は今でも続けている。ちなみにじいちゃんが超おっかねえ人で、俺も何度拳骨を食らったか分からない。
さっきの話題に戻り、俺は口を開く。
「欲求不満か……。彰、いい女紹介してくれ」
「当てが無いな。そもそも欲求不満と聞いて性的欲求に思考が至るという時点で人間として失格だぞ至。このスケベ野郎恥を知れ」
アンダーリムの眼鏡を中指でくいと持ち上げながら素敵な正論を吐かれたので、眼鏡にべったりと指紋を付けてやる事にする。
「くっ、貴様! 眼鏡の汚れは心の汚れなのだぞぉ!」
慌てて専用の眼鏡拭きで拭き始める親友を尻目に、俺は教室へと向かった。
思ったよりも風が通り、外気温よりも涼しく感じる教室内での授業中。
俺は退屈な時間の間、ずっと頬杖をつきながら考えていた。そう、あの夢の事を。
千年坂を駆け上がる自分。
金色に輝く大きな眼から、俺は全力で逃げている。
俺は、何故逃げるのだろう。俺を食らう口がある訳でもない。包丁を持って追われているような描写もない。
でも、まだ十七歳の俺が言うには相応しくないのかも知れないが――あの眼は、ありとあらゆる『恐怖』が詰まっている。そう思った。
そんな事を考えながら、午前の授業は経過していった。
昼休み。
「まあ、そこまで気になるんだったら本当に病院行っても良いんじゃないか?」
おにぎりをかじりながら、彰がそんな事を言う。
「……お前までそんな事言うのかよ。身体は何とも無いって」
「ははー、神楽ちゃん辺りに同じ事言われたな? あの子はお前の事心配でたまらない体質だからなぁ。この幸せ者め」
「心配され過ぎるのも結構面倒なんだよ……。何ていうか、申し訳ない気持ちでいっぱいになる」
それは本心だ。特に、あの妹には。
「まあ、身体が悪い人が行くだけが病院じゃないだろ。別の問題かも知れない、ってのは確かだ」
そう、彰は人差し指を振りながら言う。そして、その指を心臓の部分へと持っていってぴたりと止めた。
身体の問題じゃない。つまり、心の問題という事か。
(でも、ストレス貯まってると変な夢見るってテレビで見た事あるし……)
神楽に言われた事を思い出す。
「……そうだな、よし、学校終わったら行ってみるとするか、病院」
「お、今回はやけに素直じゃないか。行け行け、行ってこい。あの可愛い妹に言われたら行かない訳にもいかないよなぁ、そうだよな~」
彰がくねくねしながら言うので、また眼鏡にべったりと指紋をつけてやった。
その後、ここら周辺で起きている妙な不審火の話やら、そのせいで死者が出た、などという世間話をしているうちに昼休み終了を告げる予鈴が鳴った。
退屈な授業が全て終わると、俺はカバンを掴み真っ先に教室から出て行った。
病院へ行こう。このまま眠れないのは困る。あの夢の内容も気になる。専門家に話しを聞いてもらえれば何か分かるかもしれないのは確かだ。
「あ、しまった……保険証が無いな」
坂の中腹で唐突に思い出す。
俺でもそれくらいの知識はある。病院にかかるのに必要なものだ。他に、診察カードという物が必要だが、それも財布には入っていなかった。家に置きっ放しなのだろう。まあ、坂の上の医院へ行くには自分の家の前を経由しなければならないから問題はない。
神楽は部活、彰は生徒会、一緒に帰れそうな人物は捕まらず、俺は一人で病院を目指す事にした。こんなに寄り道をせずに家に向かうのはとても久しぶりだ。
母親には携帯電話からメールだけ打っておいて、俺は千年坂を上る。
この時間は丁度、坂の上で直射日光を眼に受ける形になる。車のドライバーには深刻なようで、坂を上りきった瞬間、眼を眩ませて電柱に激突する事も多いそうだ。
この坂にまつわる事件はそれだけではない。『どこまでも止まらないベビーカー事件』や『どこまでも転がり続けるリンゴ事件』などがある。不思議と死者は出た事が無いのが自慢だろう。
そんな事を思い出しながら、その直射日光を浴びる手前で俺は思い出す。
もう一つ、そういえば何かこの坂に関したエピソードがあった気がする。
太陽を警戒し、目を左手で覆うような動きをしたまま坂を上りきったその刹那。
俺は突如、奇妙な違和感に襲われる。
「な、何だ……?」思わず呟いた。
まとわり付く空気感。この光景。
何度も何度も通ったこの通学路だったが、今日の感覚は何もかもが違った。
――これは、今まで見ていたあの悪夢と同じ光景。同じ感覚なんだ。
こんなときに限って、人も車も通らない。
ばくばくと心臓が鳴り、俺は一気に変な汗に包まれた。まるで全身を針で刺されるような感覚に包まれる。
そう、これは、『怖い』んだ。俺は今、途轍もない恐怖心に包まれている。
来る。
そう思った瞬間、夢で見た謎の光景が脳裏で二転三転した。俺は思わず手で頭を押さえる。
夢で見た光景よりも鮮烈に強く、強く、そのイメージが瞼の裏へと広がる。そのいくつかは、何度も見た事のある風景である事に気付くと同時に――俺は、坂の下を咄嗟に振り返った。
人が居た。
それは、真夏だと言うのにトレンチコートを着ていた。恐らく男だ。長い黒髪だった。その長身の男が、下を見たまま立っている。両手をポケットに突っ込んで、けして視線を合わせる事は無いが確かに俺を認識している様子だった。
この道は普段から車通りこそ少ないが、その男が車道の真ん中に立っていても全く問題にならないくらいに、人も車の気配もない。
その光景は、とにかく異様としか言えなかった。
どっと、体を変な汗が走る。
逃げなくては。
何故か急にそう思った。
体が重い。まるで自分の体では無いかのような違和感だった。息が詰まる。吐き出したはいいが、吸う事が出来ないような、そんな感覚。
がくがくと震える大腿に手を置いて、俺は左手で自分の頬をぱしゃりと叩く。
ぐっと眼を閉じてからすぐに、足に力を込めて走り出した。
足が縺れるような、まるで地面を蹴れていないかのような感覚。
だが、後ろを見なくてもわかる。……追ってきている。
何度も、何度も夢で見てきた光景だ。
「何だよ……何なんだよコレはっ……!!」
俺は、カラカラの喉で叫んだ。
異常な視線を背中に受け続けている。呼吸は早く、心臓は破けそうになり、特有の鉄の味が口いっぱいに広がっていく感覚。夢と違うのは、これが本当に現実である事だ。紛れも無い、現実と言うことだ。
俺は家の玄関まで走ると、門柱を掴んでそれを支点に家へと滑り込んだ。
通学バッグのポケットから鍵を取り出して、震える手でそれを鍵穴に通すべく、手を動かす。鍵穴へと上手く入らず、入ってもロクに鍵を回す事が出来ない。
やっとの思いでそのドアを開けて、俺は……唐突に夢を思い出す。
いつも見ている夢のその先で、今から眼に飛び込んでくるもの。
それが、いつも思い出せない光景だった筈だ。
そんな事を考えながらドアノブを掴み、思いっきり引っ張り俺は顔を上げる。
そこには――
「えっ……?」
妹の。
神楽の頭だけが、ぶら下がっていた。
何が起きているのか。その事実が脳に染み渡るまで、数秒を要した。今朝まで笑っていたはずの、妹の顔だ。その頭だ。見開かれた眼は虚ろで、まるで焦点が合っていない。
無理やり引き千切られたかのような断面は歪で、ぼたぼたと地面に血が流れ出ていた。
「神楽……? だ、だって、お前、部活は……?」
俺は、そんな言葉しか言う事が出来ない。
だって、部活があるから、俺より先に帰ってくるはずがない。俺の頭が、目の前の光景を否定している。だが、ぽたり、ぽたりと落ちる血。その独特の臭いが、すぐに俺を現実へと引き戻した。
――どくんっ
心臓が、強く鼓動する。
唐突に、頭が理解した。
「う、嘘だあああああぁぁぁぁぁぁぁ!! なんで、なんで、何でだ!!!」
妹の首が、千切れている。
吐き気を催す。涙が止まらない。俺は、あまりの出来事に混乱していた。さっきまで逃げていたという事実に眼を背けた。その人物が、今、目の前に居るという事実に気付くまで思考が停止していたのだ。
神楽の髪を持ち、頭を持ち上げている人物が居る。
……さっきのコートの男。その双眸が、俺を睨み付ける。
「何故逃げる。お前がそうなのだろう?」
男はそう、野太い声で俺に告げた。そのまま、神楽の頭をゆっくりと下駄箱の上に置く。
男は続けた。
「だから俺はこの地に来たのだ。早く案内しろ」
その眼は、あの夢で見たものに近い。だが――何か、違うようにも思える。
「い、いったい、あんたは、何をしてるんだ……何やってるんだよ……?」
体中が震える。俺は、掠れた声でそう尋ねた。涙が溢れて来て止まらない。
ふと男の背後を見ると、先ほどまで血が通っていたであろう、神楽の体が横たわっている。手には携帯電話。
神楽の首が引き千切られたという事実が、その瞬間一気に押し寄せてきた。俺は、恐怖で全く動くことが出来なかった。瞬き一つ、出来ない。
「おいお前……俺をバカにしてるのか……?」
男が、苛立ちを隠せない様子で俺の胸倉を掴む。
俺の体はそのまま宙に浮いた。男は片手。俺の体重は六十キロはあるのに、途轍もない力だ。
「ぐ……」
息が詰まる。体中は震え、恐怖で声も出ない。
「さっさとしろ。この女のようになりたいのか」
そう言いながら、男は神楽の頭を一瞥する。
こいつに、神楽は殺された。
そしてきっと、きっと俺も――殺される。
男は軽く舌打ちをした。俺の胸倉を掴んだ手から、急に煙のようなものが上がる。若干の焦げ臭さを感じた。涙のせいなのか、その姿が若干揺らめいているようにも見える。
俺は目を見開いた。いや、違う。涙のせいじゃない。温度差がある時に感じる湯気、若しくは陽炎か。そういう感覚だった。この男の体が恐ろしい熱を放っているのだ。男の眼は、あの夢のように怪しく、金色に輝いていた。思わず眼を背ける。
天井や壁が視界に入り、俺は驚愕する。その全てが血だらけだ。まるでペンキをぶちまけたような光景。血独特の鉄臭さが広がっている。
頚動脈を傷付けると、まるでホースで撒いた時のように血が吹き出るとテレビドラマで見た事がある気がする。これは、全て、神楽の血だっていうのか。
どうしてだ。
どうして遥か坂の下に居たはずのコイツが、鍵が掛かっていた筈の俺の家の内部に先に居るのか。
何故部活をしている筈の神楽が、俺よりも早く家に居たのか。
何故だ。何故神楽が殺されなければならないのか。
男の言葉の何もかもが理解出来ない。
『お前がそうなのだろう?』
『早く案内しろ』
何の事だ?
恐怖と理不尽さで、頭がどうにかなりそうだ。
逃げ出したい。涙が止まらない。息が詰まって何も声が出ない。奥歯がガチガチと音を立てる。震えが止まらない。
死にたくない。死にたく、ない……!!
体が持ち上げられて気道が衣服で圧迫される。俺はやっとの思いで声を出す。
「た……助けてくれ」
俺は、そう呟く。男はにやりと笑い、俺をゆっくりと下ろした。掴まれた胸倉――ワイシャツの一部が焦げていた。
「分かったか。さあ、案内しろ」
男は呟く。俺の涙が、血溜りの中に音を立てて落ちた。
「うっ……ううっおえっ……!!」
唐突に吐き気を催して俺は、その血溜りの中に嘔吐した。男は不愉快そうにその光景をただ眺めていた。
俺は口を拭い、そして男を見る。
「あ、案内って……何を、どうすればいいんですか……?」
俺が聞くと、男は何も言わずに、俺の腹を蹴り上げる。
「うぐっ!!」
腹を抑えてのた打ち回る。神楽の血と、自分の吐瀉物にまみれて俺は咳き込んだ。その地面に伏した顔を、更に蹴り上げる男。口の中が切れる。
「それ以上つまらない言葉を吐くのならお前も用済みだ。今度はこの娘のように簡単には殺さんぞ。一番苦しい方法で殺し、最後にはこの家ごと焼き尽くす。もう一度だけ言う。さっさと案内しろ」
そう言うと男の手から、突如炎が湧き上がった。それは渦を巻きながらまるで蛇にように男の左手に撒きついて静止している。
明らかに男の意思で動いているかのように。
周囲の温度が一気に上がり、その火柱は天井まで上がる勢いだった。
玄関に設置された火災報知器から、けたたましい警報音が響き渡る。
夢だと思いたかった。だが、その温度も、この音も、全てが現実だと物語る。
男が、ニヤリと笑ってから喋り出す。
「いや、まだお前の能力を見ていないな。俺に発現したのは『火走り』だ。夢に共鳴したからには、お前も何かに目覚めているのだろう? さあ、見せてみろ、面白い力なら生かしておいてやる。つまらん能力ならば……殺す」
……夢に共鳴? この一連の出来事は、やっぱりあの夢に関係しているのか?
訳が分からない。頭の中はぐちゃぐちゃで、考えなんてとてもまとまらない。だが、確実なのは、この出来事が全て、俺が原因だって事だ。
俺が変な夢を見たせいで、神楽は、死んだんだ。
それは、紛れもない事実だ。
涎を拭う事も出来ず、俺は下駄箱の上に置かれたままの神楽の頭を見る。既に血の気は失せ、真っ白になった顔。虚ろで、光の無い眼。
いつも俺の事を心配してくれた神楽が。
いつも「お兄ちゃん」と慕ってくれた、大切な家族が――
俺のせいで死んだ。
陽光の中振り返る、彼女の姿が過ぎった。
困ったように笑う、あの笑顔が過ぎった。
心配性で、家族想いで、料理が下手で、でもひたむきで、努力家で、頭もいい、彼女の命が、奪われた。
ぐっと眼を瞑った。手に、力を込める。
蹴り上げられた腹に、痛みが走る。恐らく肋骨が何本も折れているに違いない。身体中の血が逆流するようだ。
べっと、口から血を吐き出す。
渦巻く喪失感。だがその影で、湧き上がる感情。
――許せねえ。
妹を護れなかった自分自身が許せない。
お兄ちゃん。神楽の声が脳裏を過ぎる。彼女が、一体何をした。
理不尽な暴力で、妹の命を奪った目の前のこいつが許せない。
俺の大切な者を、奪った。
……俺も死ぬかも知れない。だが、せめて。
せめて最後まで、足掻いてから死んでやる!!
眼を、見開く。足に力を込める。右手で血まみれの床を掴み、一気に身体の向きを変える。脳はフル回転を始め、痛みは一瞬で消え失せた。
俺は玄関へ向かって走り出した。
男の舌打ちがすぐ背後で聞こえる。
俺は玄関ドアに噛り付き、そしてドアを一気に開け放った。
「いいだろう、やはり死ね!」
怒りに満ちた男の叫びが聞こえる。一瞬でその身の全てが炎に変わり、俺の動きよりも速く、俺の視界の先を塞ぐ。その炎は人の形を保っていて、振り上げられた右手が真っ直ぐに俺の頭を狙った。
俺は頭を下げる。身を低くして、玄関のすぐ右側の空間へと転がった。
耳と髪の毛が焦げる音と臭い。強烈な眩暈に襲われた。だが、倒れる訳にはいかない。せめて、せめて一発ぶん殴ってやる。そうじゃないと、俺は死んでも死に切れねえ!!
眼を見開く。朝の記憶通りだ。咄嗟に、黒く長いあるものを掴んで男の方向へと向ける。すぐ傍にある水道の蛇口を捻った。幸いコンセントは刺さったままだ。
本体の電源を入れると同時に、俺はトリガーに力を込める。
「死ねえっ!!」
男の声が響き、渦巻く炎が俺へと覆いかぶさるその瞬間、その黒いノズルから途轍もない勢いで――水が噴射された。
じゅわっと言う音が響いた。
「ぐあああああああ!!」
男の叫びと同時に、周囲が一瞬で凄まじい量の水蒸気に包まれる。
正影さんが置いていった、高圧洗浄機からの放水。こいつが『火』なら、水に弱いはず!!
咄嗟の判断だった。朝の出来事が、まるでついさっきの出来事のように思い出せたのだ。
噴射された水の勢いは凄まじく、炎の塊となっていたその男には、それだけで強烈なダメージとなっているらしい。顔を押さえて苦しみ叫んでいるのが分かった。
「こんなもので……こんなもので俺を倒せると思ったかこのガキが!!!」
炎が消えたその男が、高圧洗浄機の軌道からそれて水蒸気の中を突き進む。
俺を捕まえるべくその場に手を伸ばして、男は目を見開いて呟いた。
「――居ない」
「思ってねえよ」
俺は、吐き捨てる。
次の瞬間。
ぐしゃり。
嫌な音と感覚がした。
男は横目で、驚きの表情で、俺を見ながら呟く。
「……何故、俺に触れる事が出来る」
倒れていく。まるでスローモーションに見えた。
高圧洗浄機のトリガーをロックしたあと、レンチを拾った。門柱の影に隠れ、水蒸気の中無防備に突っ込んできたその男の後頭部を、俺は何の躊躇いもなく渾身の力で、殴りつけた。
炎の消えたその男が。まるでプロレスラーのような体躯が。人間の首を引き千切ったであろう異常な怪力の持ち主が……とても、とても呆気なく、地面へと伏す。どすん、と音が響いた。
男は微動だにしなかった。
玄関では、未だに火災報知器の警報音が鳴り響いている。高圧洗浄機のけたたましいモーター音がそれに重なっていた。
俺は呆然としたまま、男の体に触れる。
その鼓動は、止まっていた。
「し……死んだ? こんなに、呆気なく?」
俺は呟く。火だった。化け物だ。それがこんな簡単に命を落とすものだろうか。
ガタン、と音がして、高圧洗浄機の本体に立てかけていたトリガーノズルが、その自らの圧力でバランスを崩し倒れる。そこから放出された水が壁に当たり、まるで雨のように降り注いだ。男から流れ出る血が、その水に溶けていくかのようだった。
俺はぺたりとその場に座り込んだ。
レンチを握り締めた手から、力を抜く事が出来ない。息は荒く、心臓は締め付けられるかのように早い。
――どうして、こんなことに。
ただ一つ分かった事がある。
あの男の眼は――夢に出てくるあの眼では、無かった。
その思考を最後に、俺の意識は次第に薄れていった。
妹の笑顔が、浮かんでは消える。
途端に、涙が溢れてきた。俺は、こんなにも――
神楽……。神楽……!!
護ってやれなくて、ごめんな……!!
「お兄ちゃん?」
◇
眼が覚めると、ベッドの上だった。見覚えのある個室の天井。
ここは確か……坂の上の医院の一室。
子供の頃によく来たような気がする。
あの時は、どうして来たのだったか……。身体が弱かったのかも知れない。長い時間、ここに居た事がある気がする。
そんなボヤけた思考のままで、俺は身体を動かす。
痛烈な痛みを感じて、俺はぐっと目を瞑った。
「くっ……!」
思わずうめき声を上げてしまう。
「お、お兄ちゃん? 大丈夫? 眼が覚めた?」
――そんな、いつもと同じ。
いつもと、全く変わらない。
「か、神楽……?」
「ダメだよお兄ちゃん、すごい怪我だったの。動かないでね。もう大丈夫だよ」
いつもと全く変わらない笑顔で、彼女がそこにいた。
「か、神楽……。神楽ぁ……!!」
その目は、確かに俺を見詰めていた。
その声は、確かにあの朝と同じ声。
もう二度と見ることが出来ないと思っていた瞳。もう二度と聞く事が出来ないと思っていた声。
俺は、思わず駆け寄ってきた妹の身体を抱き寄せた。
「い、生きてた……神楽が生きてた……ああああああぁぁぁ!!!」
恥も外聞もなく、俺は泣き出した。温かい。血の通った、神楽の匂いがする。
「お、お、お、お兄ちゃん? どうしたの?」
「神楽……! 神楽……よかった……!!」
その頭を、ぎゅっと抱き締める。強く強く抱擁した。
その俺の声に気付いたのか、入り口では医師やら看護師やら、俺の両親やらがバタバタと走っている様子だった。
泣き止まぬ俺の頭を、妹の手が優しく撫でてくれた。
「……怖かったんだよね、もう大丈夫だよ、お兄ちゃん。私は、ここにいるよ。大丈夫だよ……」
真っ赤な顔で、抱き締め返してくれる神楽。
義理の父親――正影さんに引き剥がされるまで、俺たちは抱き締めあっていた。
これが、蒸し暑い六月のある一日の話。そして、これから起こる一連の奇妙な出来事の……始まりだった。




