第十九話 神威/真意①
「蛇神……」
景色が歪む。
針で指すような異常な空気の中で、俺はゆっくりとくれないの切っ先を後方へと引き絞った。水月の構え。
くれないは淡く光り続け、『ヲシテ』と呼ばれた古代文字がその刀身をゆっくりと、ゆっくりと回る。
呼吸を一つ、出来るだけゆっくりと終えた。冷静になれ――俺はそう心に念じて前を見る。
……届く。
今なら、蛇神を倒せるかぬもしれない。
この距離なら、俺の力があればその首に届く。蛇神を倒す事が、出来るかも知れない。
だけど……。だけど……!
浮かぶ少女の顔を見る。
ついさっきまで、あんなに笑っていた彼女の表情を、思い出す。
その虚ろな瞳を見て、俺は胸が張り裂けそうになった。
今、目の前に浮かぶその身体は、美香穂のものなんだ。
彼女自身が蛇神だったのか? 今まで俺達を騙し続けていたというのだろうか?
信じたくない。さっきの涙は本物だ。そんな事は、ひと目で分かる。
俺の事を忘れずにいてくれた彼女を。
思い出を大切にし続けてくれた彼女を、俺は、斬る事が出来るのか……?
それに……蛇神が死ぬ時、きっと……俺の命も、終わる。
フィルはそう告げていた。そういう運命を持って、俺は生まれてきたというのだから。
だけど……。
――そんな終わり方で良いのか?
諦めかけていた時もあった。だが、心の底の一番奥で俺はずっと足掻き続けている。
全てを解決させる策は、無いのかと。
きっと、この輪廻はまだ続く。出現し、滅ぼし、ともに消えるそんな輪廻だ。
蛇神を消滅させて共に消える、そんなことを今まで三千回もただ繰り返した。でもこのままじゃ、いつか三千一回目の邂逅を迎えるだけじゃないのか? そこに何が残ったっていうんだ。
くれないはきっと、それを断ち斬るために俺の手に出現した。それが今、こいつが俺に握られている理由なのではないだろうか?
俺は、怪しい光を放ちながら宙に浮く美香穂を見詰める。
……対話は可能なのか?
蛇神は言葉を持っているはずだ。
あの呪詛は日本語だった。
ただ滅ぼすだけじゃ駄目なんだ。俺は知り、そして次の行動を決めなければならない。
こいつは何者で。
――俺は、何者なのかを。
意を決して息を吸う。
「お前は、何なんだ!」
そうして俺は、周囲を揺るがすかの勢いで叫んだ。
宙に浮いたままの蛇神。美香穂の結った髪は解け、風に靡いている。
俺は構えを解かぬまま、蛇神の言葉を待つ。
額に伝う汗が眼に入ったが、俺はけして眼を離さぬように肩でそれを拭う。
だが、目の前に捉えていた筈の蛇神の姿が突如――掻き消えた。
「!?」
俺は視線を泳がせる。
「私は奪うもの」
その声が――すぐ耳元から聞こえた。
俺は、微動だにできずに視線を右に滑らせた。
すぐ右横。そこに美香穂の姿があった。うっすらとした笑いを浮かべている。冷たい吐息を耳に感じて、一気に体中の体温が奪われたような錯覚に陥った。先ほどと同じ、甘い香りがすぐ横から漂う。
……高速移動なんてレベルじゃない。これは瞳の使用していたテレポートと同じものだ。
「奪う、もの……だって?」
俺はただ繰り返す。
相手に殺意はない。咄嗟にくれないを振り上げる事は出来ただろうが、俺の理性がそれを全力で止めた。
「そのとおりだ」
妖艶な笑みを浮かべる美香穂。明らかにさっきとは別人で、それが彼女の本性なのか、本当に別の何かが降臨したのかはそれだけでは判断出来ない。
「会いたかった」
彼女はそう、呟いた。
「……俺は、出来れば会いたくなかった。美香穂から離れろ、蛇神」
この出会いが終末への序曲になるかもしれないんだ。
その出鱈目な力で、お前は何をしようとしているんだ。
「それは出来ない。私をこんな風にしたのは、他ではないお前だぞ……止翼よ」
「四翼……?」
俺は今聞いた言葉を繰り返す。
フィルも、初対面の俺をそう呼んだのを思い出した。
「違う。翼を止める者と書いて止翼。お前は三千回目の、止翼となったのだよ」
まるで俺の頭の中を読んだかのように蛇神は告げる。いや……、フィルや瞳も、俺の思考を読んでいた。きっとこいつらの次元では、それも当たり前なのだろう。
止翼。対のメビウス。翼を止める者を蛇神はそう呼ぶのか。
「本来ならば、このように会話の間も無く、互いに消滅していた。それが今成されぬのは、私がどうしようもなく壊れてしまったせいだ。千年前にな」
「千年前だって……?」
千年前。
……それは、フィルがこっちの世界に出現した時だ。
向こうで出現し。
ある力に壊され。
バラバラになった彼女がこの町に落ちた。
人間に取り憑き……そして彼女の長い長い贖罪が始まったその時。その出来事。
蛇神は、再び瞬きの間に掻き消える。
眼では追えない。俺が視線を戻すと、先ほど浮いていた場所に戻っていた彼女。
その見開かれた金色の眼が怪しく輝く。それが合図。神籬を展開しているにも関わらず、その力はすんなりと俺の中に入ってきた。
強い――精神干渉だ。
そして突如俺の脳内にくるくると廻る、様々な光景。まるで洪水のように押し寄せる。
「なっ、何だ……これはっ」
回転する。眩暈を誘う視界の変化に俺は戸惑う。
……これは、蛇神が辿ってきた歴史なのか? ありとあらゆる地上の光景が浮かんで消える。
何れも、涙と混乱の風景だった。事故、天災、戦争、そういう人が命を落とす瞬間の光景が走馬灯のように一気に頭を駆け巡る。
血、内臓、虚ろな眼。肉塊。離断。圧壊。ありとあらゆる人の死の形。
頭がおかしくなってしまいそうな光景が、早送りのように次から次へと流れた。吐き気を催すが、口を押さえる事すら出来ない。見たくない。俺は強く眼を瞑る。
……これもあいつの攻撃なのか?
敵の眼前で閉眼など致命的な隙……。迂闊だったと直ぐに我に返って眼を開ける。
だが、俺は目の前の光景を見て、息をするのも忘れてしまった。口を開けたまま、驚愕の表情で眼前の光景をただ網膜へと焼き付ける。理解は数秒遅れて後から付いてきた。
そこに見えたのは、白蛇だった。
途轍も無く巨大な白蛇。その体表はぼやりと白く淡く輝いている。
視界を、空を埋め尽くす程の大蛇。その眼は金色で、どこまでも冷徹に、無感情に思えた。
地面が無いことに気付き、俺は一瞬混乱する。
俺の意識は、宙に浮いていた。
落下でも飛翔でもない。ただ、浮遊していた。手の感覚もない。地面の感覚がない。くれないも握ってはいなかった。身体が――ないんだ。
周囲は暗く、ただふわふわと漂う意識。それはまるで宇宙空間だった。
そしてどこからともなく声が響く。蛇神……つまり、美香穂の声が。
「私は、奪う者。滅ぼす者。進化を促す者。種が行き詰まった時に出現し、その種を滅ぼす。それを開闢より繰り返してきた」
その言葉の意味を、俺は直ぐに理解出来ない。
「進化……のために、滅ぼす? お前、命を何だと思ってるんだ」
それは声にはならない。ただ、念じるだけだ。
だが、蛇神は答える。
「そのように作られた。そのためだけに。この星が生まれてから何度も、何度もそれを行なってきた」
……確かに、滅びは何度もあった。この星が生まれてから何度、この地上の覇権は塗り替えられただろうか。人が生まれるその以前、この大地を闊歩していた存在は今や見る影もなく、それを知る形は今や深海に押し込められている。彼らを語るのは、冷たい石だけだ。
「……それは、誰が望んだ事なんだ?」
俺が思わず呟く問いに、蛇神は答えない。
だが抑揚無く、蛇神は続ける。
「そうしていつしか『人』が出現した。個としても群体としても高度な知性と協調性を持ち、秩序ある世界を構築し始めた。だが、今までの生物にはない規模の争いも生んだ。私は人に憑き、時にある人種を滅ぼし、時にある地方を滅ぼした。今度は進化を促すのではなく、種としての方向を見つめるために」
宙に浮かんだその蛇は、ただ淡々と声を響かせる。
「だが千年前、私は壊れた。お前の手によって」
「……俺が?」
「私はどうしようもなく壊れ、種のみを滅ぼす事が出来なくなった。人も世界も壊し、歪ませ、全てに呪いを振りまく存在となってしまった」
「俺のせい……だって……? それは、俺の先祖の話なのか……?」
「違う。お前自身だ。お前という個で、お前という存在そのものだ。お前は本来、種を滅ぼした私を滅するためだけに出現する。ただそれだけの存在だった」
俺自身。俺という存在。ダメだ、記憶には無い。そんな自覚はない。
それが、およそ三千回繰り返されてきた蛇神と俺の運命……切れぬ絆なのか? 蛇神が俺に執着するその理由だっていうのか……!?
実感の沸かぬその事実を突きつけられ、俺は思わず手を振りながら叫んだ。
「違う……! 俺はそれだけの存在じゃない! 生きて……考えて、悩み、笑い、人生を生きているただの人間だ!」
だが、蛇神は淡々と返す。
「違わぬ。お前は感情など持たぬ。欲もない。その筈だった。だが、私を『壊した』その瞬間から、お前は別のものに変質した。……私はただ、興味があった。千年前、突如お前に発生したその感情に。この時代に人の姿を持って出現した幼きお前に」
そして、蛇はこう続けた。
「壊れた私にも、芽生えたのだ。感情というものが」
何故、蛇神は生まれたのか。
何故、俺は生まれたのか。
……俺は眼を瞑る。決められた手順を踏んで現れ、そして目的を成して消えていく。それこそ、まるでプログラムじゃないか。
だが、そこに変革が起きた。両者に芽生えた『感情』という変革――
強く瞬きをすると、俺は先ほどの場所にいた。くれないを握り締め、さっきと同じ体勢で立っている。思わず周囲を見渡した。
枯れた木。赤茶けた石碑の苔。すっかり変わり果てたその場所で、俺は目の前に浮かぶ少女と、それに宿った蛇神を見つめて口を開く。
「比良坂美香穂は、お前自身なのか? あの思い出は、作られたものだったのか?」
「違う。この娘にはこの娘の意思がある。この娘は都合が良かった。足繁くこの場に通うこの少女に、私はこの身を宿したのだ。……心地よかったぞ。人間のありとあらゆる感情を間近で見るという事は、何にも勝る愉悦となった。永劫の時をただ無感情に見てきた私は、人間に強い興味を持ったのだ」
蛇神が美香穂に憑いた。それは、人に神が降りたと言うことを意味する。
幼き日。あの別れの前後。その時に蛇神は小さな美香穂に宿り、そして美香穂の中で眠り続けていたという事だろうか。
そこまで想像すると、蛇神の思考のようなものが突如頭に雪崩込んでくる。
少年と、少女。石碑、絵本、約束――
これは、幼少期のこの場所での思い出の……その続きの光景だ。俺の記憶からごっそり抜かれた、あの場面だ。
手渡される絵本。
瞬時、景色が歪み美香穂の背後に小さな蛇が出現した。蛇神だ。
……意識を失い、倒れる子供達。
小さな白蛇が、ゆっくりと幼き俺に這ってくる。
だが、俺の身体が突如光り始めた。
蛇は一瞬、苦しそうに蠢き、離れる。
神籬の力だろうか?
蛇は、落ちた絵本へと移動した。すぐに、そのページがめくれる。そして挿入された、眼が描かれた見開きのページ。
それと同時に、恐らく俺の記憶が封印された。目覚めかけていた止翼としての因子が、俺の中の深い場所へと封じ込められた。
それは同時に、蛇神自身も眠る事を意味した。
美香穂の背後で、すうっと消えていく小さな白い蛇。
蛇神が出現する場所に止翼は現れる。
止翼が眠るなら、蛇神もまた眠る。対の存在だから。ただそれだけの事だ。
「そう、ただそれだけの事だ。私が復活したのは十二年前のこの場所。だが、私の『滅び』は発動しなかった。私は喜んだ。お前と、対話が出来るかも知れないと。だがすぐに、私と止翼は再び浅く短い眠りにつく事となった。その時の私を退けたのは、お前の血に宿る因子。そして、この地に落ちた守護たち。私の欠片たちの力だ」
「蛇神の……欠片?」
「……そうだ。千年坂の白き鬼、フィルセウルとイグノスは、千年前にこの地に落ちた私自身なのだ。不完全な形は人とも交わり子を成し、それはやがてこの地に根付く血脈となっていった。脈々と、脈々とな……」
「血脈……?」
「そしてその千年前。止翼としての力を持ったお前自身もまた、傷付き、そしてこの地に留まった」
人と交わる事が出来るようになった蛇神の因子。
この地に留まった、止翼としての俺。
……待ってくれ。まさか。
「……まさか、四翼ってのは……!?」
「そうだ。四翼という一族は、私とお前の子供たちなのだよ。お前には、私の因子も色濃く出現しているのだ」
俺自身もまた、蛇神の因子を……?
フィルの持つ千里眼。
四翼の淨天眼。祓魔の淨眼。華京院の灰髪。
この地を守護してきた力。細々と、でも脈々と続いたこの血族の持つ力は全て――
そして唐突に思い出す。
俺自身が、異能に触れる事が出来たという事実を。
その力を、『喰った』事を。
異能者達の力は、蛇神のものだ。だから、移ったんじゃないのか?
より、蛇神に近い者に……!!
それを理解した瞬間。美香穂の姿が、突如変化する。
その髪が白く、長く変化する。衣服が全て弾け、彼女は生まれたままの姿となった。そしてすぐに身体の至る場所にその長い髪が絡みつく。
ゆっくりと眼を開けた彼女の顔を見て、俺は言葉を失う。
……その雰囲気、その表情は、フィルそっくりだったんだ。
先ほどの話が嘘ではないと、信じる根拠となる程に。




