第十六話 遥雪①
走りながら空を見る。
見る見る黒くなる雲。どこまでも分厚い雷雲に見える。
俺の視線の先には巨大な樹。だが、いつもの静謐な感覚は皆無。
直感する。この先は地獄だ。
迫り来る黒い衝撃。地面全てを埋め尽くす魑魅魍魎の波。俺は走る速度を緩める事無く、その中へと突っ込んでいく。
くれないに込めた力が、その波を紅く切り裂いた。
思うんだ、強く思え。フィルの言葉を胸の奥に刻んだ。
眼が熱い。景色がブレて見えた。目の前の異形の動きが、一瞬早くなったような気がした。だがそれは幻影。完全に同じ動きを再現しようとする異形の爪をかわし、その頭にくれないを突き刺した。
眼に映るのは半透明の未来。敵の動きが手に取るように分かる。今まで夢で見ていただけの淨天眼が、俺の金色に光る眼に宿った。
敵の頭を踏みつけ、俺は風使いの力で飛び上がった。眼に飛び込んだ首塚の社。上空から見る俺たちの町は、真っ黒に蠢く地面と化して本当に地獄の蓋が開いたような光景だった。
着地すると同時に、周囲を炎で焼き尽くす。同時に展開した、拒絶の神籬。
俺を中心に、その黒い地面に半径約五十メートルの穴が出来た。
『近付くな』
そう念じて、俺はゆっくりと歩いて魑魅魍魎の波へと割り入る。
やがて、大樹の根元へと辿りついた。
その前に立つ、男の顔が眼に映った。表情を変えずにその男は一言、言い放つ。
「――少年。見事だ」
「……てめえか」
視線を横へずらす。そこに彼女はいた。
血に塗れた肌。有り得ない方向に曲がった手足。片腕は見当たらない。僅かに上下する胸。
俺は目の前の男を無視して、彼女の元へと走る。
男は動かず、ただそれを眺めていた。
「ばかもの……なぜ、来たのじゃ……」
抱き起こした彼女の第一声は、そんな言葉だった。
「ボロボロじゃねえか……どうしてこんな事に」
血で張り付いた髪を撫で、俺は彼女の顔を覗き込む。
「……あの夜に、出てきた魑魅魍魎は、全て、白草を中心に、出てきおったのじゃ」
絶え絶えに紡ぐ言葉の意味を考える。
学校の周りに出てきた大量の魑魅魍魎。
彰が戦っていたあの林の中。
窓が多く割れた東の遥町。大量発生はいずれも、白草を中心として坂の下。
「……はじめは、白草のひもろぎのおかげかとおもうておった。じゃが、わしははじめてそこで気付いたのじゃ。この坂の下には、蛇の卵の殻がある。大空洞じゃ。そこが溢れ、湧き出しておったのがあの魑魅魍魎だったのじゃ」
その言葉はか細く、今にも消え入りそうだ。俺はもう喋るなと首を左右に振る。
視界がブレる。俺の眼に突如映る未来。
「……白草が、あの男に魅了を受けていた……?」
俺はフィルから視線を移し、褐色の肌をした男を睨み付ける。
男は微動だにせず、表情も全く変わらず遠くから俺を見下ろしているだけだった。
後は想像出来る。彼女の……白草の神籬は強大だ。この男を隠し、尚且つこの地下に眠る地獄の釜を、誰にも察知させる事無く飽和に至るまで巧妙に隠すことも……容易な力。
やがて溢れ出した魑魅魍魎が世界の終わりの、始まりの合図。
そしてこの男はそれを待っていた。世界が傾ぐ中、満を持して出現したんだ。
一体、何年かけた。どれだけ準備していたと言うんだこの男は。
その男から拍手が響き、そいつはゆっくりと近付いてきた。
「成る程、フィルセウルが熱を上げるのも頷ける。勘がいいな少年」
低い男の声。滑舌が良く、通る声だ。
「お前が、蛇神か?」
「蛇ではない。全ての世界の王となる者だ」
「……王?」
「その通り」
男はくるりと俺に背中を向けると、そのまま語り始める。
「私はフィルセウルと対になる存在。彼女が陽ならば、私は陰。負の感情の体現。そこにいる魑魅魍魎どもと一緒だよ」
「……負の、感情?」
「そうだ。お前ももう気付いているのだろう? この魑魅魍魎どもは、全ての人間の恐怖、妬み、嫉み、憎悪。そう言った負の感情が『精神感応プログラム』によって具現化したものだという事に」
……だから、禍となる。病を呼びつけ、怪我や死を生む、負の感情。人が恐怖し、憎悪する度に、それが新たな魑魅魍魎を生みそれがまた病や死に繋がる負の連鎖。
神を信じれば、救われる。平穏な心は魑魅魍魎を退ける。成る程道理は通っている。
このおぞましい生物たちは、俺たち自身が生み出したんだ。俺は周囲を見渡す。こちらを囲む人間の恐怖を体現したようなその姿。
男は続けた。
「特にこの地は神ではなく鬼を崇めた。他の地よりも恐怖は容易に募り、魑魅魍魎を集めるのは赤子の手を捻るようなものだったぞ」
信仰心の裏で、恐怖の対象にもなってしまう鬼。
……フィルはそんな事を望んでは居なかった。彼女の悲しい顔が脳裏に浮かぶ。
「お前は何故そこまで知っているんだ……」
「私はフィルセウルと同じ力を持ち、そして命をも共有している。もちろん、体験や記憶もだ」
指で自分の頭を指す男。額をとんとんと叩き、俺を挑発するような眼で見つめた。
……記憶が共有されている。
精神感応プログラムの事を知っているのはその為か。俺は瞳からの情報を、フィルに話している。
「ご明察だ。俺はその他次元の王、ファイタルフェインを御し、そしてその精神感応プログラムを手に入れ、そして世界を統べるだろう」
「……フェインは概念だ。瞳はそう言っていた。俺たちに認識出来ない。どうやって御すって言うんだ」
「より高い次元からの干渉だ。それを可能とするものが、この世に存在する。それは、お前の手に握られているだろう?」
彼が指差したその先――。
俺は、右手の先を見る。この闇を切り裂く唯一の光。それは……くれないの事か。
リィン……と、音が響く。お前が何を思って俺の手に現れたかは、分からない。
だが、くれないには意思がある。それは間違いない。これは勘だが、こいつは何か目的があって、この世に出現したのではないか。俺の中に宿る血の力、四翼暁の『操血のくれない』とは関係無く。
「遥が岩戸に隠れ眠ったその時、私はやっと外世界へと出る事に成功した。その後彼女が二百年眠り続けたお陰で、準備をするのは実に容易かった。白草を魅了し、私の盾となってもらう。その足元で私は魑魅魍魎を集め続けた。この世の全ての厄災を。混沌を。深淵をこの地を持って出現させ、増えすぎた人間どもを駆逐する。今日はその序章なのだよ、少年」
「その世界で、お前は何をするんだ、王を目指して」
「それをお前に話す必要はない。いいのか? 早く俺を止めなければ、フィルセウルが死ぬぞ?」
俺はその男を睨む。
「安い挑発だ。お前にフィルは殺せない。フィルが死ねばお前も死ぬんだろう? 命を共有していると言っていたじゃねえか」
「ほぅ……冷静だな。その通りだ」
それでも俺はフィルの表情を見詰めた。その眼は傷付けられ、呻き声を上げる。この傷を治す術は……俺にはない……。
「……何故ここまでする必要があったんだ」
「私の思考は、白草が包み隠してくれた。だが、愚直な我が同位体は偶然にも、私の存在に気付いてしまった。邪魔をされては困るのでな」
同じ存在、同じ力を持つフィルが、ここまで一方的にやられる訳がない……。
フィル、一体何があった?
「言っただろう、愚直なのだよ我が同位体は。……まじない、と言ったか?」
……フィルが俺たちに施してくれた、まじない。彼女のまじないは、禍を跳ね除ける力があった。魑魅魍魎の猛威の中で、神楽や俺の両親を助けてくれたんだ。
「我々の力は発生より永劫、簡単に分かち、何にでも宿る不安定なものだ。フィルセウルは自らの力を、知る者全てに分け与えたのだ。本体の力を、割いてまでな」
フィル。フィル。
お前の優しさが、俺たちを守った。
だがお前の優しさは、自らを守る術を奪ってしまったのか。自らを傷付けてしまったのか。
俺は、彼女の血塗れの肩を抱き締める。
「……いたるよ……聞こえているのかえ……? 何も、見えぬよ……。今すぐ逃げよ。こやつは危険じゃ……」
「大丈夫だよフィル。お前をこんな眼に遭わせたヤツを、必ずぶっ倒してやる。……少し、休んでいてくれ」
俺は彼女を静かに横たえる。
「お前の手に握られている物さえ渡してくれれば、お前の命は保障する。手荒な真似はしたくはないのだ」
その言葉を背中に受けて、俺はゆっくりと立ち上がる。
「優しい彼女が何故あんな殺戮をしたのかと、ずっと疑問に思っていたんだ」
「…………」
「お前が居たと言うなら、納得出来るよ」
「それを、渡してはくれぬか、少年」
「仮にそうしても、お前はこの世界を壊すだろう?」
「……決意は固いようだな」
男は、半身で構えて俺を見据えた。
フィルと、同じ構え。
「お前、名前は」
俺は尋ねる。
「イグノス-ディンア。脳裏に刻め、王の名を」
「祓魔翼神流、新堂至だ。……必ず止める、お前を」
水月の構えを取り、俺はゆっくりと息を吐く。
◆
「くそ、何て数だ!」
「副会長! これ以上は!」
「分かっている、病院へ後退、俺とじいちゃんの神籬で篭城する! 華京院! 行くぞ!!」
「は、はい……」
華京院弓華が、大樹白草の方向を見る。
その空は未だ黒く、地は蠢く負の感情に包まれていた。
「くそっ、至……そこに居るのか……? 死ぬなよ、絶対に、死ぬなよ……!!」
「至様……!! どうかご無事で……!!」
――病院 正面入り口
「じいちゃん!」
「分かっておる!」
受付で待っていた佐鳴源流二郎と、駆け込んできた佐鳴彰、両者の目が青く光り、その周囲が凄まじい規模の精神フィールドに包まれる。
病院をすっぽり覆う程の神籬に、魑魅魍魎は近付けないでいた。
「ほぅ、我が孫ながら、よい神籬じゃ。流石『四つ星の淨眼』じゃのぅ」
「余裕見せてんなよじいちゃん。すげえ数なんだぜ?」
「誰に口を訊いておる。お前こそ、何分持つかの?」
「……持たせて見せるさ。だけど、いよいよなったら俺は行くぞ。親友を……助けたいんだ」
「あの若造めが……生き急いでいるようにしか、見えんわい」
源流二郎が呟き、彰は険しい表情で前を見た。
――二階 病室
「……フィルセウル-ディンアの反応が二つ、変化ありません。新堂至は無事です。生きています」
「……お兄ちゃん、お姉ちゃん……一体、何が?」
「何が起きているのか分からない……フェイン。レコード開示要求の受理を……!! この事態の対処方法を……!! このままでは、新堂至の観測続行は不可能です!!」
清水瞳は、今までにない真剣な表情で呟く。
「清水さん。これも……必ず起きる事なの? 運命は、アカシックレコードは、この先何を示しているの?」
新堂神楽が、瞳へと詰め寄る。
「分かりません……分からないんです。フェインは沈黙を保っています。この時空振の中では、簡易テレポーターは使用出来ません。私は、一体どうしたら……」
初めて見る彼女の感情に、神楽は眼を見開いた。
そんな中、静かに窓から白草を見詰める人物が居た。
「至君……」
そう呟く比良坂美香穂の瞳に、涙が浮かんだ。
「君は、ずっと戦い続けていたんだね。まだ話したい事が沢山あるんだよ。まだ伝えてない言葉が、あるんだよ……。あの約束、覚えてる。お願い――帰って来て……!! 君が居る世界じゃないと、意味がないんだよ……!!」
――千年坂の下、学校前
「……車を止めて」
「お嬢様?」
パワーウィンドウを開け、そこから顔を覗かせたのは榊原凛子だった。
彼女は険しい表情で坂の上を見る。
その上に蠢く、幾多の黒い異形を見詰める。
「まさにエントロピーだな。熱力学では、その温度は絶えず一定になろうと拡散を始める。学校、森の奥。被害報告の多かった箇所をマッピングすれば見えてくる。あそこが、あの場所が飽和点で間違いない。敢えて言うなら……そこに意思があるか、否かだな」
彼女は携帯電話から耳を離す。
「君は、そこに居るんだな、至」
凛子は、持つ携帯電話をぎゅっと握り締めて坂の上を見る。
◆
当たらない。
横薙ぎの一閃も、フェイントを交えた突きも。俺の繰り出す攻撃が、掠りもしない。
だが、敵の攻撃も読める。一瞬だけ先の光景が脳裏に映る。
「素晴らしい、素晴らしい力だ少年!」
その手刀を、蹴りをかわしながら、俺は焦っていた。
拒絶の神籬を展開し、何とか魑魅魍魎の大量発生は押しとどめている。
だが、そんな散漫な意識で目の前にいる男――イグノスと戦える筈が無い。
頬に。足に。
その音速を超えたかのような攻撃で切り傷が増えていく。
攻撃をかわし飛んだその背中に、イグノスの拳が繰り出された。
氷の壁と風の力で、無理やり避ける。直撃は避けたが、蓄積するダメージは俺の速さと判断を鈍らせた。力量は確実に相手の方が上だ。
「膂力の違いというものを、思い知ったかね少年? さあ、その刀を私に寄越せ」
「断る!」
俺は言いながら、くれないに、炎を纏わせる。
「それだ! その力だ少年! 私に理解出来ない力! 私はそれが欲しいのだ!」
「言ってろよ!」
水と炎を組み合わせて周囲を蒸気で包む。
視界を奪って足を狙うが、イグノスは後方へと大きく飛び退いた。恐ろしい反射速度だ。
「聞いているぞ。お前はその不思議な力を使う度に、心を壊していくとな」
「うるせぇ……さっさと……斬られろよ……」
息が上がる。
くれないさえ当たれば、こいつを両断する自信があるのに。
だが、相手はそんな事を待ってくれない。
イグノスが真っ直ぐ突っ込んでくる未来が見えた。だが、俺は反応出来ない。
出鱈目に出した水弾も、無理やりまとわせた炎も、イグノスを捉える事が出来ない。
一瞬先に、俺は喉元を押さえつけられる光景を見た。
一秒経たずに、それは現実となる。抗えない運命を見せ付けられたかのようだった。
「ぐ……」
イグノスの手が、俺の喉を掴んだ。
「ぐ……か……」
苦しい。俺はくれないから手を離し、そしてその手を離そうとする。
だが足は地から離れ、その握力は俺なんかの力ではどうしようもない程強力で無慈悲だった。
イグノスは――俺の手からくれないが離れたのを見ると、そのまま俺を後方へと放り投げる。
背中から池中央の社に落ち、その社を壊してしまった。いつか嗅いだミイラの臭いがする。遥の頭が、俺のすぐ横にあった。
俺は呼吸を取り戻そうと、必死で強く息をする。
「もうお前に武器はない」
遠くからそんな声が聞こえた。
「さあ、これで最後だ。まずは少年。お前の力を貰おう、この『略奪の魔眼』でな」
フィルと、同じ眼が強烈に黄金に輝く。
その刹那……頭が、割れそうに痛くなった。
「ぐ……ぐあああああぁぁぁ!!」
奪われる! 入ってくる! 俺の心にその手を侵入させてくるイグノス。
永遠にも感じる数秒の後、突然開放される。
「……ふむ、そう簡単には奪えぬか。理解し難い力だ」
頭痛は治まったが、イグノスは俺の胸倉を掴んで持ち上げた。
……くれないを。
俺はただ、地面へと手を伸ばす。
視線の先の白木の刀へと。
その刀は、手を伸ばしても遠く及ばないイグノスの背後に、物言わず横たわっている。
「まあいい。その命を奪ってから、貰えるものなら貰っておこうじゃないか」
イグノスは、指に力を込めて後方へと引き絞った。
その手刀が、淡く青白く光り始める。
俺はその光景を見て、一気に身体の温度が下がった気がした。
これは、俺の淨天眼が見せたあの夢と同じ光景だ。
……死ぬ。俺は――死ぬ。
このまま腹を貫かれて、ここに打ち捨てられる。
これは、決まった未来なんだ。
抗えない、未来なんだ。
「止めろ……止めてくれ……!!」
俺は声を絞り出す。まだ、やらねばならない事が沢山あるんだ。
神楽の泣き顔が、脳裏を過ぎる。
美香穂との約束だって、きちんと思い出していない。
――俺は……!!
「さらばだ、少年」




