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くれないのうた  作者: げんめい
第四章~流転 対のメビウス~
28/43

     黄泉③★

挿絵があります。お嫌いな方はオフにしていただくようお願い致します。

夜中に、息苦しくて眼を醒ます。

 俺を中心に、何故か同じベッドで神楽と弓華が寝ていた。二人とも俺の胸を枕にして寝ていたようで、シャンプーの良い匂いが鼻腔をくすぐる。

 両腕が凄い痺れている。こいつらは一体どういう経緯でこうなったんだろうか。考えてみたがすぐに面倒になって止めた。

 弓華は相変わらず寝言をむにゃむにゃと呟いている。神楽は「もう食べられないよぅ」というテンプレートな寝言を吐いていた。とりあえず貴重なシーンなので携帯で写真を撮っておこう。


 俺は強引に二人の頭を外し、弓華を踏まないようにベッドから降りた。一枚だけ写真を撮った。シャッターの電子音が響き渡ったが、全く起きる気配はない。

 二人にタオルケットをかけてやった。


 喉の渇きを覚え階段を下りると、まだダイニングの電気が点いていた。壁の時計は十二時だ。美雨音は帰ったのだろうか。

 見ると、フィルがダイニングのイスに腰掛けて本を読んでいる。髪は下ろしており、肌襦袢を着ていた。


「珍しいな、本なんて読むのか」

「いたるか。お茶でよいか?」


 千里眼で俺が喉を潤したかったのを読んだのだろうか。彼女は傍らにあったポットから直ぐにお茶を汲んでくれた。


「この時代の事を色々と調べておった。随分と便利になっておったからのぅ」

「ん、勉強家だな」 湯のみを受け取って呟く。


 読んでいた本は正影さんが購読しているビジネス雑誌、傍らには物置に積んであった、俺や神楽の昔の教科書が並んでいる。すらすらと格言とか出てくる辺りが凄いな、と思った事はあるが、成る程これが理由か。

 お茶を一気に干すと、俺はフィルの言葉を待つ。


「……生きる事は大変じゃ。知らねばならぬ事が沢山ある。わしのように、概念でのみ動いている者にとってはなおさらなのじゃ。わしはずいぶんと、周りのものたちに助けられておる」


 彼女はそう言ってから本を置くと、立ち上がった。

 俺がその光景を黙って見ていると、彼女は数歩で俺の前に立つ。

 そのまま、正面から急に抱き締められた。

「お、おい」

「……じっとしておれ」

 何故だろう。何だか、その抱擁は心から安心した。照れくさくもない。そうされるのがとても自然のような。そんな印象を受けた。

 フィルは俺の耳元で囁く。

「わしは本来、とても曖昧な存在じゃ。ぬしがわしをつよく想うてくれるからこそ、此処に存在出来る。わしが鬼だと名乗った時も、わしが違う世界から来たと聞いても、いたるもかぐらも、なおもまさかげも。何も変わらず居てくれた。わしはそれが何よりも嬉しいのじゃ」

「……もう何を聞いても驚かない自信あるぞ。色々ありすぎたからな」

 俺は、笑いながらフィルの耳元で囁き返した。

 彼女の抱き締める手に、力が篭る。

「いたる。ぬしは死ぬ。今までと同じ道を辿るならば、それは避けられぬ」

「……そうだな」

「だが、今回はあの神器がある。あれは、今まで蛇神の対となるものの手には現れなかったものじゃ。よいかいたる。死んではだめじゃ。けして、あきらめぬようにな。けして、怒りに身を委ねぬようにな」

 ……こんなに感傷的なフィルは、初めて見た。


「……何かあったのか?」

「……思い出してしもうたのじゃ。さっきのひとみの話しを聞いて、わしが、何者であるかをな」

「……この地に落ちて、四つに分かれた。そう聞いた」

「そうじゃ。このフィルセウルは、本来四つのものが一つになった名前じゃ」

 彼女はゆっくりと、抱き締めていた腕を緩める。

 俺の右手を掴み、そして言葉を続けた。

「寝所まで来ておくれ、いたる。わしの話しを聞いて欲しい」


 俺は、その真剣な眼差しに射抜かれてただ頷く事しか出来なかった。

 フィルは俺の右手を引いて、ゆっくりと歩き出す。


 この奔放な鬼に、一体どんな切ない過去があったというのだろう。



 帳の落ちた和室。

 布団は敷かれ直されており、真新しいシーツはいい匂いがする。

 ぼんやりとした行灯のような照明が畳の上にあり、そのオレンジに似た光に照らされるフィルは綺麗だった。

挿絵(By みてみん)


 ……罪。前に、彼女はそんな事を口走った事がある。

 耳触りの良い声が響き、彼女の話が始まった。


「わしの背には翼が生えておった。これは話したな」

 そう言いながら布団の横に座り、正座をする彼女。俺はそのすぐ向かいに、胡坐で座る。

「ああ。前に風呂で聞いたな」

「わしは、ここではない別の場所である日突然生まれた。そうして、今のぬしに良くにた力に、調伏された。身体は千々に分かれ、そして落ちたのがこの地じゃった。もう千年も前の話じゃ」


「その別の場所ってのが……瞳の言っていた別の次元って事か?」

「うむ、そこを正しく説明する事が出来ぬのは、そのためかのぅ」

「この町は、蛇の生まれた町らしい」

「わしも知らぬことだが、そのようじゃ。だからわしはここへ落ちたのかも知れぬ。その時、千々に分かれた筈のフィルセウル-ディンアという形は、ここへ落ちる過程にて四つのものとなった。背に片翼を持ち、自我はなく、何色にも染まり易い、もろい生き物に変貌しておったのじゃ」

「…………」

「わしの今の心は、その時の一つ……『遥』の意識を強くうつしておる。遥は、この町におった娘じゃった。わしが入り込んでしまったことで、鬼となってしまった娘じゃ。わしが人生を狂わせてしまった、憐れな娘じゃった」


 髪は白く。耳は尖り、牙が生え。当時の周囲の人間に、それを許容出来るだけの心のゆとりはなく……人々は鬼を、(おそ)れた。


「そうして鬼を恐れる人々の『心』は、わしが入り込んだ遥の恐怖を……多く、とても多く増やしてしまった。わしは、近くにいる人々を、全て――殺してしまったのじゃ」

 想像し、思わず眼を瞑る。俺は搾り出すように呟いた。

「それが、フィルの犯した罪か……」


 ……落ちた翼は、何色にも染まり易いものだった。人々の恐怖を映し、やがてそれが殺戮という形で表出してしまった。


 彼女は、それを心から悔いている。

 それは今日の食事中に見せた表情で、よく分かる。


「わしが殺した人たちは、仕事があり、家族がおり、愛をはぐくみ、毎日を一生懸命生きていたのじゃ。わしはそんな命を、恐怖に駆られ摘み取ってしまった。幾重にも積み重なった亡骸を見て、わしは恐怖した。怨嗟と生の渇望を目の当たりにして、わしの気は狂うてしまいそうじゃった」


 なんだかその表情に、胸を締め付けられた。

 俺は、正面にいる彼女に近付き、その手をぎゅっと握ってやる。掛けてやる言葉が、見つからないんだ。


「……温かい。優しいな、いたる。ありがとう」

「……続けてくれ」

 俺の声に、彼女は頷いて続ける。


「わしはある岩の中に隠れた。怖いのはいやじゃ。わしが入り込んだその娘の身体は不老となり、光る眼を持っておった。わしは隠れ続け、そして眠った。その眠りは二百年続いた」

「二百年も……」

「だがある日。唐突に眼が醒めた。岩から出てきたわしの背に、翼は無かった。神力が、全て無くなっておったのじゃ。この地に神が居なくなったのじゃ。それが全てわしのせいであったと気付いたのは、その地にいた侍に調伏されてからであった」

「……侍?」

「それが、四翼。最初、翼持ちて現れたわしたちを、人は神だと喜んだ。だが、それは鬼であった。人々は、神と崇めていたものが如何にあやふやなものであるかを悟った。その地にわしらを忘れぬよう石碑を立て、鬼のいいつたえを残したのじゃ」

「……その四翼ってのは?」

「ぬしの先祖じゃな。わし以外の『翼』と深く関わったものの末裔との事じゃった」

「四枚の翼に関わるもの。それで四翼か。成る程……」


 この町が翼町と呼ばれるようになったのも、恐らくそれが原因か。

 郷土史とは若干異なるが、それがこの町の始まりだったんだ。


「四翼を名乗った侍は、他の三枚の翼の力をわしに集めた。そこでやっと、わしは真名を思い出したのじゃ。そうしてわしと約束を交わした。わしを滅する事はしない。その代わり、力を貸せとな」

「そうか……それで何か事が起こる度に、お前は眼を醒ましてきたんだな?」

「ああ、そうじゃ。都度、世話役の四翼の末裔がわしの周りにはおった」


 巫女を置き、それぞれに自らの力を分け与える。その時、彼女が宿っていた『遥』の身体は本来の姿に戻り、彼女は自身が言っていたように『概念』の存在になった。その遥の身体を鬼の身体とし、分かち、町の四方に置いて奉った。それは、遥自身も望んだ事だったらしい。


 自らの身体を使い、町を護りたい。

 とても、心の綺麗な人だったんだろう。フィルの事も飲み込み、そんな事が言えるなんて。


 そうしてこの町は、神ではなく鬼を崇めるようになった。そうする事で図らずとも魑魅魍魎を少なくしていたんだ。フィルは「この町に神は居ない」と言っていた言葉の裏には、そんな出来事が隠れていた。


 だが、その鬼崇拝も廃れて久しくなる。近代化の波と、四翼の没落。巫女の減少。

 再び信心は薄れ、そして――彼女は眼を醒ました。


「幾千の命に関わってきたかはもう数えておらぬ。時に別の町へ。時に別の国へ。わしは四翼と共にこの世の不幸と戦ってきた。時代を超え、国を見、人と交わってきた。たくさん……たくさんな。いたるよ。……わしは、償えたかのぅ?」

 この千年を、彼女は贖罪で生きてきたっていうのか……。

 その表情の理由がやっと分かったような気がする。

 ……俺が優しい言葉をかけてやれば、彼女は救われるかも知れない。

 だけど、俺はちっぽけな人間だ。自分の周りさえ幸せならそれでいい、身勝手で、矮小なただの人間だ。

 俺がかけてやれる言葉なんて、見当たらないよ、フィル。

「……どうかな。俺にはわかんねえよ」

 俺はただ、そう言葉を繋げた。


「そうじゃな……」

 白草の話しを思い出す。彼女は全てを護って樹になったという。翼は全部で四人居た筈だ。

「他の翼は、どうなったんだ?」

「……天華は、天より注ぐ雨になったと聞く」


 雨……。そう聞いて真っ先に脳裏に浮かんだのは美雨音とウィンディーネだ。ウィンディーネが女性の形を取っていたのを見た時、何だかとても優しい感じを受けた。

 ……まさかな。


「もう一人の翼、久遠は、翼の力を残し消えてしまったそうじゃ」

「そう、なのか……」

「久遠もわしと同じじゃ。人の『欲』に取り憑いた。大勢を殺し、やがて一人の男を愛し、罪を諭され、共に命を落としたとの事じゃ」

 息が、詰まる。男のために心中したって事か?

「……悲恋だな」

「まっこと……人の営みとは、もろく儚く……そしていとしいものじゃ」


 共に命を落とすなんて……。俺にその気持ちはまだ理解出来ない。狂うほどに人を愛す事があれば、俺にも分かるのだろうか?


「……これでわしの話しは終わりじゃ。今の話しを聞いても、ぬしは(おそ)れないのじゃなぁ」


 フィルの手が、そっと俺の頬に伸びる。


「何か色々と麻痺してるんだ。怖いって感覚を、まるでどこかに置き忘れてきたみたいだ」

 俺は笑顔を作ろうとする。

「手にアレが現れて。そしてお前と出会った。得がたい出会いだ。だけど俺は自分が死ぬ事を聞かされている。心が壊れていく危険をここに抱えて、それでも戦わなければならない。蛇を倒さなければならない」

 俺は自分の心臓に手を当てた。


「俺が畏れるとしたら、それは俺の周りの親しい人が流す涙に。俺の周りの親しい人が流す血に。そういうものがたまらなく、怖いんだ」

 心臓から放した手が、震えている。


 凛子さんの好意も。神楽や、弓華の好意も分かっている。俺がそれを受けきれないのは、自分の生をどこか諦めている自分が居るからかも知れない。

 人を深く愛せば愛す程、失った時の絶望は強くなる。それを頭の片隅で理解していたのかも知れない。


 だが、俺はそれでも言葉を続けた。


「お前は怖くないよ、フィル。なんだろう、懐かしさすら感じるんだ、お前から。……四翼の血は俺で終わる。でも、お前を生かすものは無くならない。この戦いの後、お前にあるのは自由だ」

「じ、ゆう……」

 フィルは、ゆっくりとその言葉をかみ締めた。


「ああ。もう眠りに付く必要なんてない。俺が死んでも神楽がいる。正影さんや母さんも。弓華や凛子さんだって。彰だってお前を生かしてくれる。だから、もう起きてこないように蛇を倒して、お前が笑って過ごせる世界を作ろう。その為に、お前の力が必要なんだ」


 フィルはぐっと言葉を飲み込んだ。眼を瞑り、そしてゆっくりと開いて言葉を紡ぐ。

「ぬしは、似ておるのじゃ。わしを最初に倒したあの侍に、とても似ておる」

 彼女の頬に、涙が伝った。


「わしは何処かで、あの侍に心惹かれておったのかも知れぬ。とても、とても懐かしい気持ちじゃ――」


 頬に触れていた手が、背中に回された。

 首に、細い指先が這う。金色の眼が、目前に迫った。

 甘い吐息を感じて、俺は夢を思い出した。


 あの、夢と同じだ。


 いつかみた、官能的な夢。


 甘く、切なく胸が締め付けられたあの時。ただただ官能的で、そしてどこか悲しかったあの夢を。


 今なら分かる。自分が死ぬ事への悲しさ。贖罪に追われ、ただ移ろう世界を端から眺める事しか出来なかったフィルの悲しさ。

 そういう、悲しさで出来た、まぐわいだったんだ。


 その金色の眼に宿った本当の悲しさを、こんな形で拭ってやる事なんて出来ないのは分かっている。それでも俺達は、互いの温もりに身体と心を委ねる。


 俺達はただ、傷を舐めあう動物のようだった。






「わしはかぐらに、怒られるのぅ……」

 耳元で、フィルは呟く。

「どうだろな……」

「……知っておったようじゃな。こうなる事を」

「ああ。同じ光景を、夢で見たよ」

「……四翼の淨天眼じゃ。他に何か見たか?」

「……今日、恐らく蛇の呪詛を受けた。もうすぐ俺は死ぬと、告げられた。あとは、知らない女性の背中だ」

「……そうか」

 フィルは俺の胸から顔を上げ、そして続ける。

「いたる、部屋へ戻れ。まだあの二人はぬしの部屋で寝ておるわ、気持ちよくなぁ」

「あのベッドで三人は、ちょっと辛いぜ?」

「なに、それくらいの甲斐性は見せるがおとこじゃ。さ、行け行け」


 ふすまを閉める時、彼女を再び見る。

 オレンジ色の淡い光に照らされて寂しそうに笑う彼女は、やっぱりとても綺麗だった。



 軽くシャワーを浴びてから自室に入る。

 人が多いためか、熱気があった。


 入ると同時に、くれないが啼いた。急に眼が、熱くなり始める。


 まだ二人は俺の布団で寝ている。すぐにどうという事はないが……。


「……近付いてきてるな、蛇神」


 俺が呟くと、くれないが頭の中でリィン……という音を立てた。


「なあ、くれない。俺は死ぬのか?」


 白い柄を持って、紅い刀身を滑らせる。

 その刃に、俺の顔が映った。

 ベッドで幸せそうに眠る二人の少女を見て、俺はくれないを持つ手に力を込めた。


「……どうしたいんだ新堂至。お前は、どうなりたいんだ」


 清水瞳にぶつけた言葉を、自分の眼を見詰めながら問う。


 思い出せ、あの兜屋との戦いを。

 あの時、俺は何を願った。


 思い出せ、菊池冷との戦いの時。

 あの時の気持ちを思い出せ。


 命を落としそうになる瞬間、俺は願った筈だ。

 生きたいと。

 諦めたくないと。

 絶対に、死ねないと。


 それは、護るものが出来たからだ。護るものがあるからこそ、人は強くなれる。

 自分の命も諦めない、そのための強さも必要だ。



 眼が、熱くなる。くれないが、頭の中で音を発した。危険は感じないが、何か急かされる感覚を受けた。


「……分かっている。行こう」


 俺は神籬を展開する。

 くれないを握ったまま、俺は階段を駆け下りた。


 フィルは起きてこない。彼女も感知出来ない事象なんだ。声を掛けるべきか迷ったが、俺は、無言で玄関ドアの鍵を開け、そして外へ出た。いざとなればすぐに呼べる筈だ。


 遠くの空は朝焼けて、紅い色を発している。


 玄関の門柱から道路へ出ると、遠くから人が歩いてくるのが見えた。


 女性……制服?

 同じ学校の制服。今日はもう夏休みだぞ……? おまけにこの早朝だ。まだ薄暗い時間だってのに。


 俺は、くれないの柄に手を置く。


 一瞬眼が合うと、その女性は小走りで近付いてきた。そして全く躊躇う事無く俺の前に立つ。



「――至君、だよね?」


 知らぬ顔。知らぬ声。

 まさか、これが――?


 額から汗が流れ落ちる。構えは解かずに、様子を伺った。

「良かった、変わってない……って言ったら変なのかな、カッコよくなったよ、うん」

 編みこんだ髪が、左肩の前にかかっている。

 俺は歯を食いしばった。

「お……お前が、蛇か?」

「へび? あれ、約束覚えててくれた訳じゃないのかな……」

 そういう彼女が取り出したものを見て、俺は心臓を鷲掴みにされる。


「これ、覚えてる?」

 それは、絵本。

 俺の持っているのと同じ、あの絵本だ。


 やっぱり、こいつが……?


「あれ、ダメか。えーと、私、比良坂美香穂(ひらさかみかほ)です。ほら、五歳くらいの時ここに居て、一緒に遊んだの覚えてないかな、おとついここに越してきたんだよ?」


(君のクラスに、季節はずれの転入生が――)


 凛子さんの言葉を思い出す。


 名前に聞き覚えがない。

 幼少期の俺を、知っている少女。


(貴方は、恐らく幼少期に蛇神と接触しています)

 瞳の言葉が脳裏に過ぎる。


 目の前の彼女からは警戒心も何も感じない。

 ただ、困惑している様子だ。


 鞘から刀を抜けば、一振りでその首は落とせるような距離だぞ……?


「な、名前も忘れちゃったかな……? 昔消しゴムで作ったハンコ、押したのも忘れちゃった?」


――絵本の、裏の印。

 何て書いてあるか分からなかった、あの印だ。


「私、……約束、守ったよ。至君。またこの町に帰ってきた」


 そういう彼女は、何の警戒心も無く――俺の目の前に立つ。


「……ひらさか、みかほ」

――脳裏に過ぎる、五歳の時の、ぼやけた記憶。

 病院で過ごしたあの日々。


 石碑の前で、おぼろげに覚えている少女との約束。

 口付け。


「ぐっ……」

 思い出そうとすると、頭に鈍い痛みが走る。

「だっ、大丈夫?」

「触るなっ!」

 俺は刀を抜き、その切っ先を彼女の喉元へと向けた。


「ひっ」

 短く息を飲み、そして数歩下がる彼女。


「お前は、蛇じゃないのか……?」

 頭が、痛い。


「だ、だから蛇って何? 危ないよ、仕舞って!」


 俺の意識は――静かに、暗い闇に落ちていった。


 比良坂美香穂。そうだ、俺は会った事がある。

 ある石碑の前で、鬼の話をした事が、ある気がする。



「ちょ、至君! 至君! 家に人居るよね? 呼んで来るよ?」

 とても遠くから聞こえたような気がした。


 駆け出していく彼女の背中が、ぼやける。



 それは今朝、夢で見た後姿、そのものだった。


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