大樹白草②
暫くして、眼を醒ました。壁の電波時計を見ると、夜の十一時を示している。リビングは暗く、俺にはタオルケットが掛けてあった。
じぃぃ……と、眼が熱くなるのを感じる。いや、今まで熱くなっていた、という表現が正しいかも知れない。その余韻のようだった。徐々に落ち着いてくる。
「……あの眼の夢は見なくなったけど、時折こういう、脈絡の無いリアルな夢を見るな……」
俺は一人、呟いた。
夏の夜。あと三日程で夏休みだ。
サッパリしようと、俺は風呂へ行く。着替えは済ませたが、汗で気持ち悪かった。
風呂に誰も入っていない事を確認し、俺は服を脱いだ。
背中に、匕首による三箇所の切り傷がある――らしい。俺は全裸のまま、自分の背中を触ってみる。そんな感触は今まで感じた事も無い。ちなみに匕首、というのは短刀の事だ。ドスいう響きの方が一般的かも。
俺は蛇神に魅入られた人達に、直接触れる事が出来る。そして、四翼の血で、『くれない』を呼び出した。分かっている事はこれくらいか。
身体を洗い、湯船に口まで浸かる。
まだ和室に置いてある、くれない。眼を閉じると、リィィ……と音がして、その刀は確かにそこにある事を知らせていた。何か特殊な力で繋がっているかのように思う。
俺は何も無い場所から、あれだけのものを呼び寄せたと言う事だ。
だが、自分の出生、あの神器の召喚について。そして様々な要因についてを知っても、これだけ落ち着いていられるのは何故だろう。受け入れているというよりは、知っていた、という感覚に近いような気がする。
フィルを見た時、何故か、懐かしい感じすらした。
俺は、勢いよく風呂に潜る。
あの蛇神の目的は何だ。
ウロボロス。ゲームか何かで確かに聞いた事ある名前だ。輪廻や死と再生。
フィルは「まだ生きておるのか」と言っていた。昔戦った事があるのだろうか。
俺は湯船から頭を上げる。
知らなければならない。敵を。そして自分の状況を。いつでも冷静に立ち回れるように。周囲の人を危険に曝さないように。
「おう、随分長くもぐれるのじゃの、死んでしまうぞ。しかし家にこんな綺麗な風呂がついているとは、驚きじゃのぅ。この時代は素晴らしいのぅ」
顔を上げると、洗面器に湯を貯めるフィルが居た。
もちろん全裸だ。
「……え」
俺は間抜けな声を出す。
「いたる、これは何じゃ、使い方をおしえておくれ」
そう言いながらシャワーヘッドを持ち上げて、立ち上がるフィル。
大きな胸が揺れた。
「な、な、な、何で居るんだフィル! 俺が入ってるうちは、入っちゃダメだろ!?」
俺は下半身を隠して叫んだ。反応としては男女逆じゃないか。声が裏返る。
フィルは隠そうともしない。真っ白な妖精のような肌。たわわな双球。胸の先端はこの世のものとは思えない、淡く美しいピンク。少し濡れて肌に張り付いたプラチナブロンドが、艶美な雰囲気を醸していた。体毛は、全く生えていないようだった。
「これだけひろいのじゃ、二人で入っても問題はあるまい。ところでこれの使い方を……」
フィルはずい、と俺の方へ近寄った。再び揺れる双球。見ちゃいけない、ミチャイケナイ。これは蛇神の誘惑に違いない。
俺は眼を瞑って横を向く。
「蛇口の横の、白いレバーを倒したら、お湯が出る」
俺は途切れ途切れに、やっとの事でそう告げた。
「お、おお。湯が出たぞ。これは便利じゃ」
フィルは自分で色々と蛇口をいじって、使い方を理解出来たらしい。
しかしさすがは鬼だ。羞恥心の概念はないのか。
……つまり、見ても問題はないのか。え、いいの?
……だめだ、神楽にバレたら殺される。俺は思い直す。
ふと、彼女の背中に何かが見えた。
じいっと見ていると、肩甲骨の内側をそのまま延長したような、白っぽい半透明の物質が見える。
徐々に薄くなる、白い突起と言ったら良いのだろうか。
何だか気になって、俺はフィルの背中に手を伸ばしてみた。
「うひゃ」
肌に触れると、フィルがのけぞる。
「な、なんじゃいたる。触りたいのか? こそばゆいぞ」
「いや、背中に何か見えたから……つい」
触れる事が出来なかった。その白い部分のみ、まるで映画に出てくる幽霊のような見え方。
「背中のこれが、見えるのかえ?」
フィルが驚いている。
「あ、ああ」
「これは驚いた。四翼の淨眼じゃ。これは普通の人には見る事が出来ぬ」
彼女は、俺に背中を向けると口を開いた。
「わしの背中には、つばさがあったのじゃ。人が神を信じる心――信心、わしは『神力』と呼んでおるがの? それを受けてとりのようなしろいはねが生える。残念ながらこれはその残滓じゃ。この地には、神がおらんからの。ああ、飛ぶ事は出来んぞ、はえるだけじゃ」
背中に、翼?
まるで天使のようじゃないか。昔の海外の絵に出てくるエンジェルを思い出した。
どんどん俺の知っている『鬼』像からかけ離れていくのを感じた。翼か。この町が翼町という名前だと言う事。それに、四翼。四枚の翼。何か関係があるのだろうか。
「して、いたるよ。しゃんぷーとこんでぃしょなーとは、どれじゃ? かぐらが必ず使えと言っていたでな」
俺がボトルの辺りを指差すと、彼女はそれを掴んで再びこちらに向き直る。
揺れる凶器。とてつもない破壊力だ! こうかはばつぐんだ!
「お、俺は上がるよフィル」
俺は首を振り、下半身を両手で隠したまま立ち上がった。
「顔が真っ赤じゃな。のぼせてしまったか?」
フィルが笑う。くっ……、無自覚なのがまた憎らしいぜ!
ダイニングのテーブルで、麦茶を飲み干し俺は頭を垂れた。
これからあんなのと一緒に暮らさないとダメなのか……? 理性が持たないぜ。
暫くして、身体をバスタオルで拭きながら出てくるフィル。
「よいお湯じゃった。かぐらもなおも、疲れていたようだったからのぅ、先に風呂に入って寝てもらったのじゃ」
「いいから服を着ろ!!」
俺は叫んだ。
フィルは和室で寝る事になったらしい。白い肌襦袢を着て、「また明日の」と呟くと、欠伸をしながらふすまを閉める。もう人間と同じ、という認識でいいんじゃないかな。
くれないは、「わしにはこわいものじゃ」とフィルが言うので部屋に持っていく事になった。
机に上に、白木拵えの鞘を伴ったくれないを置く。
掴んでいる間は、頭の中に鈴の音のような涼やかな音が響く。眼の熱さに戸惑ったが、すぐに慣れてしまった。
布団に潜る。疲れているのか、すぐに瞼が重くなってきた。
今度は、夢を見なかった。
何事も無く朝を迎える。先日は鬱陶しい雨が降っており、朝から湿度が高かったが、今日は晴天だ。カーテンを自ら開ける。太陽のまぶしさに眼を細めた。
着替えてから、階段を下りる。
「良い朝じゃいたる。よく眠れたかえ?」
フィルだ。歯を磨きながら、にこやかに挨拶をしてくる。なんだか、馴染んでやがるなぁ。
「ご飯できてるよー、お兄ちゃん」
神楽の声に、俺は「ああ」と短く返し、ダイニングへ向かう。今日は瞳も凛子さんも家の中には居ないようだな。
「こ、この食べ物は何じゃ」
「今日はパンで御座います。チーズトースト、コーンクリームスープ、こちらがオクラのサラダ。こちらがベーコンエッグです」
いつも乱暴な言葉遣いの母さんが、お店のウェイターのように説明している。フィルの眼は輝いていた。
またフィルの感嘆の声が響く。
俺は飯を食うのは早いほうで、さっさと平らげてコーヒーを自ずから入れると、リモコンでテレビの電源を付けてニュースを見た。
……この二日間、変死事件はめっきり陰を潜めているようだ。連続凍死事件の後は、それらしいニュースで騒ぐような事は無かった。
自分の携帯電話のニュースサイトを見ても、同じようだった。
「お兄ちゃん」
玄関口。神楽が俺の背中に声を掛ける。
「ん、どうした?」
「昨日の話を聞いた後だと、何だか不思議な感じだよね。私も、何か不思議な力があるのかな?」
神楽がそんな事を言った。
結局、昨日の話では神楽と兜屋が何故その命を蘇らせる事が出来たのか。それは分からず仕舞いだったのだ。
「そうだな、俺の力の事も、分からない事だらけだ」
俺は階段の上を見る。
くれないはれっきとした真剣だ。ちょっと刃先に触っただけで、ぱっくりと親指が割れてしまった。
あんなものを持ち歩くのは、明らかな法律違反。
以前の木刀のようには身近に置いておけない。
それをフィルに相談したが「問題はない」との見解だった。
「待ていたる、かぐら」
玄関口で、フィルが言う。
「ん、フィル、俺たちは学校があるんだ。さっき母さんから聞いてたよな」
「んむ、分かっておる分かっておる。ちこうよれ」
俺が頭に疑問符を浮かべながら神楽と一緒にフィルの方へ一歩踏み寄ると、彼女の指が怪しく青白く光った。
「無事に行って、帰ってくるようまじないじゃ。気をつけていくのじゃぞ」
その指で、二人の額が撫でられる。
神楽は、額を自分で撫でながらちょっと嬉しそうだった。
俺たちが玄関を開けると、いつものように瞳と凛子さんが待っていた。
フィルを見て、二人はあんぐりと大口を開けて驚いている。
うん、気持ちは分かる。
「……なんだこの美人は、モデルさんか?」
凛子さんが驚く。
「しゃ……写真撮っても、いいですか……?」
瞳が、震えながら言う。どうしたオイ。
いたるは友達が多いのじゃのぅ。うらやましいわ。
そう呟くと、フィルは俺に近付き、耳元で囁いた。
「そうじゃいたる。わしの力の事じゃがな? 実は本当の力ではない。今夜はわしの本当の力を集めるために、協力しておくれ」
本当の力ではない。彼女の言葉が頭に染み渡るまで、暫くの時間を要した。
そもそも、彼女がどの程度の力を持っているかは分からない。菊池さんや美雨音との戦いの話をしていても怖がりもせずに聞いていた。
恐らく対異能に関しては問題ないレベルで戦えるのだろう。
「分かった。帰ってきたら行こう」
俺がそう答えると、彼女は笑った。
「じゃあ至は、あの人と一緒に住む事になったのか?」
凛子さんはそう尋ねてくる。
詳しい事情は伏せたまま、二人にはそう説明する。
まあ、日本かぶれのホームステイとでも思って貰おう。あの容姿ならそれが通る。角とか生えてなくて良かった。
いつものように途中で彰と合流し、俺たちは学校へと向かった。
学校に入ると、二年の玄関の前に、エメラルドグリーンのリボンをした女生徒が立っていた。
「あっ、あっ、あのっ」
えらくどもっているが、どうやら俺に話しかけているらしい。
髪がぱっつん前髪。光沢のある青のカチューシャを付けている、若干釣り眼がちな黒髪ロングの女の子、一年生だ。
「あれ、どしたの華京院、俺に用?」
隣で靴を履いていた彰が尋ねる。
どこかで見た事があると思ったら、彰と一緒に居るのをよく見る生徒会のメンバーだ。前に初めて凛子さんに生徒会室に呼ばれたその帰りに見かけたのを思い出した。
髪は腰まである全くうねりのないストレートヘア。輝く天使の輪。毛先は綺麗に切りそろえられており、神楽が西洋のお人形さんだとしたら、彼女は日本人形だろう。それはそれは美しい。町で見れば誰もが振り返るレベルだ
「いっ、いえ、あの」
顔が真っ赤っかだ。
「ああ、至。彼女は華京院。生徒会の書記だよ。ちょっと赤面症でな。で、どうしたの?」
彰が尋ねる。
俺は、その名前に聞き覚えがあった。
華京院。確か……昔、俺のご先祖『四翼』から分かれた、分家筋の一つだった筈だ。昨日の話の中にあった。そうだ。母さんが昨日の会話の中で、巫女は華京院の血のみとなった、と言っていた筈。
俺は尋ねる。
「えーと、華京院さんだっけ。もしかして、巫女関係のお話かな」
「巫女? あれ、華京院って神社関係者だっけ?」
彰が聞き返す。
その華京院さんは、真っ赤な顔のまま何度もコクコクと頷いている。鬼復活は、巫女である彼女にも深く関係していると言う事か。
彼女が分家筋だと言う事は、俺の遠い親戚に当たると言う訳か?
「まあいいや、ホームルーム始まるまでに戻れよ至、華京院」
そう言って行こうとする彰。だがすぐに戻ってきて、俺の首にガッと腕を回すと、耳元で囁く。
「ちなみに彼女は俺のお気に入りだ。手ぇ出したらメガネジェノサイダーを食らわせるからな」
聞いた事ない必殺技出ました。
「……大丈夫だ、問題ない」
俺は短く答える。
俺と華京院さんは、階段横のスペースに移動する。
「それで、話は」
俺が尋ねると、彼女は真っ赤な顔のまま、真剣な表情になった。そのまま口を開く。
「新堂様。鬼様が復活されたというのは、間違い無いのでしょうか」
そう、尋ねてくる。さま付けで呼ばれるのはくすぐったいな。
「君が華京院だと言うなら、知ってても当然なんだよな? 俺も詳しい事情がまだ飲み込めてないけど、鬼は昨日、復活した」
俺は言う。彼女はその言葉を受けて、息を飲んだ。
「も、申し送れました。私は華京院弓華と申します。当校の一年生、A組所属です。生徒会書記をしております。長刀部所属です。そ、そして、白き鬼様の巫女をして……おりました」
そう、深々と頭を下げてから言う。
「おりました、ということは、その役目は、鬼の復活で終わってしまった、という事なのかな」
俺が聞くと、彼女は泣きそうな顔で頷いた。
以前は四人の巫女が居た、との事だ。翼町を中心として四方、それぞれの町に巫女の名前が付いている。
「神力が減り続け、我が一族は必死で神力を注ぎ続けておりました。ですが、力及ばず、鬼様の眠りを妨げてしまった。……どのような処罰をも受ける覚悟で御座います」
彼女は、その場に座り込み、俺に深々と頭を下げる。
「うぉ、ちょっと止めてくれ! 立って!」
俺は慌ててしゃがみ込んだ。すぐに説明する。
「大丈夫だ、鬼は怒っていない。この目覚めは、巫女の力とは恐らくそんなに関係ない。異常事態が起きている証拠なんだ」
俺はそう、簡潔に説明する。
「そ、それは本当で御座いますか!?」
鬼が怒っていないという部分で、ぱあっと彼女の表情が晴れる。どういう恐ろしい事を吹き込まれていたのだろうか。
「今夜、鬼は『本当の力を集める』と言っていた。何か心当たりある?」
俺が尋ねると、彼女は頷いてから口を開いた。
「鬼様の身体の一部を、我が家でお奉りしております。恐らく、それを取りにいらっしゃるのでは……」
「ああ、そうか」
自らの身体を四つに分けて、それぞれ巫女が管理した。首は首塚にあった筈だが、それ以外の身体がどこかに安置されているということか。
実際、フィルはあの頭のミイラから復活した訳ではない。
あの場所から煙のように現れたんだ。
「そうか、もしかしたら夜、フィルと一緒に行く事になるかもしれない」
「ふぃる?」
「ああ、鬼の名だよ」
真名はおいそれと人に話してはいけない、と母さんが言っていた。彼女にはフィルでいいだろう。
「畏まりました。鬼様と新堂様のご来訪、華京院は心よりお待ち致しております」
そう、最敬礼で答えられた。